ジョン・ウォーターズ「セシル・B ザ・シネマウォーズ」 | 木島亭年代記

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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(あらすじ)


舞台は勿論ボルティモアだ。何故ならこれはジョン・ウォーターズ映画だからだ。とあるくだらないラブコメ映画のプレミアの舞台挨拶に呼ばれたのは主演女優で典型的ハリウッドセレブなハニー・ホィットロック(メラニー・グリフィス)だ。しゃべり方からしてロクでもない女で、舌足らずの下品な話し方をする。人前とプライベートとのギャップが激しい。表向きは礼儀正しいい人演じるハニーだが、裏ではマネージャだかなんだかにに「この部屋ってプレジデントスィートなんでしょ。ニクソンの奥さんがだれかたファックしたか確認してきて」と命令し、その結果をマネージャだかなんだかが伝えると「あんたバカじゃない。冗談に決まってるでょ。ホントに聞いたの?あんあた、頭がおかしいと思われたはわねw」と嘲笑うのだ。最悪。そしてリムジンは白なんか乗れないから黒に代えてとか、地元の名物を悪しざまにののしったりと絵にかいたようなビッチセレブである。そんな傲慢でロクでもないは二―だったが、突如プレミアの最中に謎の一味に誘拐されるはめになる。その一味は、セシル・B・ディメンテッド(スティーヴン・ドーフ)をリーダーにした映画狂集団スプロケット・ホールズ!。メンバー全員が敬愛する監督の名前を体に刻み込み、拝金主義、良識主義の腐った映画を撲滅しようと唱えるテロリスト・グループだ。ディメインテッドは自分の理想の映画たる「狂える美女」の作ろうとしていて、主演女優にかのハリウッド的女優ハニー・ホイットロックを見染めたのである。は二―を誘拐した彼らは究極のリアリティを求めて、ノースタント、ワンテイクなゲリラ撮影を敢行していくのだ。当初脅される形で参加していたハニーだったが、いつの間にかディメインテッドに賛同してノリノリになっていく。もともと頭が足らないので簡単に洗脳されてしまうのだ。そういう意味ではディメインテッドのキャスティングがベスト。そして最終ロケ地は、ハニーのハリウッド主演3本立てをオールナイトで上映しているドライヴ・イン・シアターだ。連中の半分はTVでディメインテッドのテロともいえるゲリラ撮影に熱狂しているボンクラーズで、のこりは大根女優たるハ二―を揶揄しにきたくそったれどもだ。ロケの途中で撃たれて瀕死のディメインテッドは、マイクで「俺の映画に出てくれ」と叫び、撮影を開始する。群衆の前で頭に火を放ったハニーは最後のセリフを吐きだし、映画の撮影は終了する。しかし、スプロケット・ホールズは警察に包囲されていた。警察に狙われ、両親が呼び掛け、ファンが狂い、群衆が見守るさなか、勝利を宣言をしながらディメインテッドは焼身自殺を遂げる。一方でくハニーはおとなしく警察につかまり、プロレスの退場の様に熱狂する群衆の作る花道を通りながら、微笑みをたたえ、本物の女優とになって威風堂々と護送車まで歩いてゆく。ハニーは単なる一過性の使い捨てハリウッド女優から、一転して伝説となり、その存在を永遠に映画史に刻むことになったのだ。


(感想)


ディメインテッドのやってることは所詮“無駄な抵抗”にすぎない。彼らが命がけで、映画の未来を憂え、武器をとり、本物の映画撮ろうと試行錯誤した所で結局は何も変わらないだろう。勿論あらゆるテロがそうであるように、テロ行為はシステムを脅かす。システムというのはそのバカでかい図体にもかかわらず、案外臆病だ。彼らはいろんな手段を使って、そのささやかな反抗を踏みつぶそうとする。システムは好戦的で、強迫神経症なのだ。ディメインテッドは勿論潰される。彼はハリウッドと戦っている訳だが、残念ながらハリウッドというのは大きなシステムの一部分でしかない。システムは様々なものから構成されている。政府や何とか団体や、システムに組み込まれていることに安心をおぼえるあらゆる連中によってだ。それは徹底的に強固であり、戦うにはあまりに強大すぎる。しあkし、時としてこの化け物は簡単に崩壊する。所詮でかいと言っても烏合の衆だ。中から崩壊が始まると手の着けようがない。もしかしたらディメインテッドの思想はいつの日かやってくるだろうシステムの崩壊の気っけになりうるかもしれない。何がきっかけになるかなんて分らないのだ。まあ多分ならないとは思うけど。何故なら映画というのはシステムの中枢にはないからだ。劇中ディメインテッドの母親が拡声器で叫ぶように「たかが映画」なのだ。ディメインテッドという人物はどこまでも純粋で、どこまでも愚かだ。しかし、それゆえに彼の世界は美しい。ジョン・ウォーターズはインタビューで「ある部分で彼は私に似ているのだろうが、私の分身ではない(大意)」と言っている。つまりジョン・ウォターズはディメインテッドのような極端な思想は持っていない。だが、ある部分で、(おそらく)世間にはびこるクソみたいな映画に対して彼が破壊衝動を覚えるときがあるに違いない。そういう欲望を“正論”や“思想”として体系化し、自分の人生の目的にまで消化すると言うのは大変だ。最初にいたようにそれはあまりに無謀な訳だし、もし借りに成功して革命が起こっても、結局は新しく再生したシステムがそれを飲み込んでしまう。歴史を振り返ればわかるが、革命の後には頭をすり替えただけの強大なシステムが再構築され同じように世界に君臨することになる。ある意味で状況というのは何も変わっていないのだ。だから、やっぱり分が悪いのだ。勝っても負けても結果は同じともいえる。しかし、柳下毅一郎先生が言うように「負けるとわかっていようと、戦わなければならないときはある」のである。そして誰も戦わなくなたっ時の事を想像してみるといい。我々は弱く、自分に甘い。いつの間にやら大きなシステムの一部になって安堵している。自分が自らの脆弱さに身をゆだね、漫然とそれを受け入れ、しまいにはそういう状態であることにさえ気づかなくなるようになったらどうしよう(それはそれで魅力的だという気もしないでもないが・・・)。勿論たかだか私や、他の誰かがそんなことを考えたって大局には一切影響しないだろう。だろうけども、言ってもセカイは私の主観であり、その主観たる自分がかつて(おもに思春期)にああなりたくないと思ったものになってしまうのはやはり厭だ。だからこそ、ときどき冷や水をぶっかけてほしいと願うのだ。たとえば、ディメインテッドの様な人に、あるいはジョン・ウォータ図の様な人に。


そういうことを久々に考えさせられた映画であった。


色々と笑わせてくれるシーンも多数あり、筋はめちゃくちゃなんだけどそれでいて物語としてはきちんと成立していて(主人公が成長するのだ)、普通に楽しめた快作。