ボルドーとイギリスの関係 ヘンリー2世 | ワイン│ギフト&モテワイン・交流術・オシャレ

ボルドーとイギリスの関係 ヘンリー2世

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時は12世紀半ば、フランスは修道士になりたがったほど敬虔で真面目な
カペー朝ルイ7世によって統治されていました。

といっても、シャンパーニュ地方とその近辺のごく一部の地域です。
その妻であったボルドー地方のアキテーヌ公女エレオノールの領有地はルイの3倍、
現在のフランスの4分の1の面積を有するものでした。

さて、敬虔王ルイに対しエレオノールは奔放な性格。二人の性格はやはり合わず、離婚。
なんと3ヵ月後にエレオノールは11歳も年下(!)のアンジュー伯アンリと恋に落ち、電撃婚したのです。
そして2年後、アンジュー伯アンリはイングランド王をも継承し、
プランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世に即位しました。

まさに棚からぼたもち。
エレオノールにおいてはフランス王妃の後、イングランド王妃となり、
2つの王朝の王妃を経験した稀有な存在です。

この結婚によって、フランス国王の臣下でもあるイングランド王ヘンリー2世は
南はピレネーから北はスコットランドに接するまでの広大な領土を治めることになり、
ボルドーのワインはイギリスに広がっていくことになりました。

それまで不味いワインを飲んでいたイングランド人は、ボルドーのワインに大喜びしたといいます。
ボルドーのネゴシアン=ワイン商は国王により税金を免除され、
アングロ=サクソンが好きだったクレーレ(クラレット)と呼ばれる当時のボルドーワインが
大量にイギリスに供給されたからです。
この歴史的結婚がボルドーのワインの名声を高めるのに一役買ってくれたのです。

ヘンリー2世とエレオノールは8名もの子供をもうけましたが、
イギリスとフランスの広大な領地を見るヘンリー2世とエレオノールは別居が多く、後離婚。
父母両陣営に分裂した子供を巻き込んでの王位継承の確執を引き起こしました。

最終的には二人の愛が冷めた頃に生まれ、
父であるヘンリー2世に溺愛されたジョンがプランタジネット朝を継ぎましたが、
彼は失政王・失地王として有名です。
なぜならイングランドにおける大陸の領土をことごとく失ったからです。
ほかにも目の当てられないような失政は数知れず。
ジョン王の後、ジョン王2世・3世が出てこないことからもその愚業が察せられます。

ただし、ボルドーに関しては、商品を手厚く優遇した大恩人といえるでしょう。
ボルドー商品に特権を与えて、ボルドー以外の地域のワインの11月と12月の出荷と販売を禁止しました。
ワインと引き換えにイギリスからは織物、食料品や金属資源が入り、ボルドーはますます栄えていったのです。

ブルゴーニュやシャンパーニュ地方のワインを愛するフランス王に対して、
エレオノールやヘンリー2世はボルドーとロワールのワインを愛飲していたのです。
カペー朝のシャンパーニュ、アキテーヌ公のボルドーと南西地域、アンジュー伯のロワール。
どれもワインの産地ばかり。フランスの歴史とワインの深いつながりを感じざるをえません。

エレオノールはルイ7世とヘンリー2世との間に合計10人の子供をもうけ、70歳になっても息子達のことで各地を奔走。
84歳まで行きました。ものすごいバイタリティです。
まさに歴史の影の主役である女傑といえます。 

ボルドーをイギリスへ広告してくれたヘンリー2世とエレオノールに乾杯!

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道上の追記:
Guillaume le conquerant (ウイリアム1世)ノルマンディー公(1027~1087)は
イギリスを攻めイギリスを領土にしイギリスでフランス語を強要したと伝えられている。
世界の貴族上流階級でフランス語が使われる習慣はこの頃から始まりました。

当時イギリスでは豚(pig)は食べなかったのが
フランスの食習慣からイギリスでは食事で豚をフランス語のポークと呼ぶように成りました。
フランス語のgrapeが ドーバー海峡を渡ると乾燥して 干しぶどうに
今でもイギリスでは 干しぶどうをフランス語のレーズン(raisin)と呼びます。

以前にも、ワインは陶器の入れ物に入れられ馬車で運ぶものだから
割れ易く陸路よりも水路によって発達しましたと書きましたが
この頃からボルドーワインはイギリス経由で世界に普及されるきっかけをつかんだのです。
だから未だにフランスよりもイギリスニューヨークで買ったほうが安い場合が多いと挙述しました。