Julie Mania 1 ~生きるのがとても好き~ |  CHOCOLATE YELLOW 

Julie Mania 1 ~生きるのがとても好き~

Bay City Rollers “Let's Go ~恋のレッツゴー~” 


幼稚園の頃から「ひろし」という名前がクラスに最大5人いまして 
学校では大抵、苗字で呼ぶので問題ないのですが、 
誰かと苗字のかぶるヒロシくんがいると、 
優先的にその子がヒロシと下の名前で呼ばれていました。 

僕の苗字は、県内唯一の家でしたので(電話帳調査)、 
学校でヒロシと呼ばれない側のヒロシだったのです。 

学校で「ヒロシ!」と呼ばれると思わず振り向いたり、 
自宅で「ヒロシ!」と呼ばれても耳に入ってこなかったり。 

ヒロシは自分の名前なのに、他の1人だけが特別にヒロシと呼ばれる事を 
受けとめなければならないという、子供には解決し難いモヤっと感。 

当時日本で一番多い男性の名前がヒロシでして(確か二番目がキヨシ)、 
今のキラキラネーム時代にはそれがトレンドだと思われるかもしれませんが 
そうではなく、当時は「無難」という認識でしかなかったです。 

ところが、ヒロシという名前は圧倒的に太郎より多いはずなのに 
銀行や役所などの記載例には「太郎」が使用され 
ヒロシは無難の座すらも奪われている状況でした。 

幼少時代のヒロシという虚無。 

テレビから国際児童年の歌が聞こえる。 
「♪1つの地球に1人ずつひとつ~」。 

「嘘つけ!」とやじりながらも、そのキュートなアレンジに心を奪われ 
ついついゴダイゴを愛さずにはいられなかった葛藤。 
当時は呼び方が1人ずつひとつだと思っていたのだ。 
そんな自分の名前も今では陽気な人生パートナー。この先お手柔らかに。 


世の中、人名以外にも同名であるばかりに面倒くさいものが沢山あります。 

バブリーでカラオケブームだった1991年。 

カラオケボックスとは別に2時間1,500円くらいの 
カラオケバーというのが流行っていました。二次会の定番だった。 

中央にステージがあり、スポットライトが灯され、 
お客さんはその周辺にディナーショーのようにテーブルが置かれていて 
他のお客さん達の前でも歌わなければならない場所でした。 

当時90分に一度くらいのペースで確実にリクエストされる曲がありました。 

誰もが知っている曲で、ジャ~~ンというイントロの瞬間に、 
会場のお客さんの手が止まり、話が止まり、ステージに注目が集まります。 
次の瞬間、「ぉぉぉぉおおお!」という声ととも拍手が沸き 
ステージに上がる人は必ず歓迎ムードで迎えられました。 
そして、修学旅行のバスのように全員で大合唱。 


















ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった、CHAGE&ASKAの“SAY YES”。 
 


必ず仲良しグループの中にはお調子者がいて 
「セイイエス、いっとく?」と言いながら 
「俺がこの場の空気を仕切るぜ」と言わんばかりに 
得意になってリクエストしますが、 
彼が浴びてる拍手の理由は、曲が魅力的だったとしても、 
彼自身は自分で思うほど魅力的でないのだ。 

実際僕はこの“Say Yes”ムーヴメントに若干イラッとしていて、 
歌い出しと共に「♪エボニー&アイボリ~」と歌って邪魔してみせたりしました。 

みんな同じ歌で盛り上がりやがって、 
どうせ5年もすれば見向きもしないんだろって思って 
こんな右へ習えで肯定する連中に対し、 
僕は地球上に初めて誕生する新しい言葉を生み出しました。 

“SAY YES”にちなんでこう呼んでやるよ。 

「イエスマン」 

…え、その言葉、もう地球上にあるの?(実話) 

でも僕の苛立ちの根源は、売れている事に対するものでもなく、 
ましてやあのお調子者に対してでもない。 
5年もすればどうせ捨ててしまうんだろ…ってところが本質でありました。 

これがヒットした平成3年を過去に5年戻してみましょう。 

昭和61年(1986年)にオリコン1位になったにも関わらず、 
チャゲアスのせいで誰も語らなくなっていた同名のヒット曲がありました。 



















 



そう、あの明るい応援歌! 

菊池桃子 “Say Yes!” 


歌手の菊池桃子さんにしても、作曲家の林哲司さんにしても、 
普段の都会的で洗練されたセピアカラーなイメージにはちょっと異例でもあります。 
どちらかと言うと、僕が飛びつきそうなキャッチーさ。 

すぐに気づきましたよ。このサビのメロディー展開 
ベイ・シティー・ローラーズの“恋のレッツゴー”だったんだって。 

“恋のレッツゴー”は、僕の中のローラーズ・ランキングでいうと、 
“恋のフィーリング”と“ロックンロール・ハネムーン”に次いで第3位の大好物♪ 
そりゃあ、飛びつく。 

でも、桃子さんの“Say Yes!”のその明るさは、サビだけで役目を終え、 
Aメロに入ると林哲司/菊池桃子の通常営業に戻るのだ。 

作詞は初期のチェッカーズの作品でお馴染みの売野雅勇さん。 

歌詞は辛い事や負けそうな事があっても勇気を出してという 
歌の主人公から聞き手に投げかけるタイプの「二人称」の応援歌なのですが、 
僕が一番印象に残ったのは、このフレーズでした。 

「生きるのがとても好き…」 

僕の中ではかなり衝撃でした。 

この瞬間だけ語りかけている相手ではなく自分自身の…つまり、 
「一人称」のものがポンっと出てきたからです。 
なんだろうこの視点の転換は…と思いました。 

もう1つは「生きるのがとても大切」とは言ってない事。 
「生きるのがとても好き」…まるで束縛と解放くらい違う。 

この意外で不思議なワンポイントで 
生きる事がずっと僕のそばに近づいてきた気がしました。 

確かにずっと応援の言葉を投げかけられてると、嫌味でもあるんですよね。 

メッセージソングの怖いところは相手が上から来ているという事でもあり、 
自分には余裕がないけど、この人は余裕たっぷりであるとか 
自分は知らないけど、この人は何かを知っているとか、 
潜在的に歌い手が優位に立っているような印象を与えるからです。 

ここに、この人の想いみたいなもので体重のかかる場所が変わった事で 
それがかなり緩和されたんですよ。 
何か教えようとしているのではなく、伝えようとしているというべきか。 
言葉を発してる主人公の見えない背景からくる純粋な人生観も含んでいて。 

これは僕の推測でしかありませんが、もしかしたら売野さんは 
アガサ・クリスティーの言葉から引用したのかなって思います。 

「私は生きていることが好き。 
 ときにはひどく絶望し、激しく打ちのめされ、 
 悲しみに引き裂かれたこともあったけれど、 
 すべてを通り抜けて、 
 私はやはり生きているのは素晴らしいことだとはっきり心得ている」 

…なんか桃子さんの“Say Yes!”を要約しているようです。 


実際、“Say Yes!”の歌詞全体は30年経った今、どんなものだったか 
ハッキリ思い出せません。ザックリと頑張れよ的なものだろうくらいにしか。 

それは歌詞の良し悪しではなく、あのワンフレーズで満たされていたからです。 
「生きるのがとても好き…」が全部を包んでた。 

今でも僕はこの言葉を胸の奥にしまっています。 

僕は桃子さんにあえて言いたい。「余計なものなどないよね。」 

 

当時「生きるのがとても好き…」と思わずの言葉を口にしてみたくなり、 
あの時自分で言ってみたら本当に僕の中の何かにスイッチが入りました。 

これはヤバイ… 

ついに僕は「幸福の桃子」に出家してもいいとすら思ってしまい 
頭に手をかざして、桃子さんの別の名言を口にしてみました。 

「桃子…ウサギの耳に、なりたい…な。」 

…何も起こらなかった。余計なものだった。 


そうそう、ベイ・シティー・ローラーズで思い出したことがあるけど 
90年代にニルヴァーナのカート・コバーンが自身の音楽を説明する時に 
ベイ・シティー・ローラーズも含まれていました。 
冗談なのか本気なのか…でもセックス・ピストルズは影響下にあったようです。 

リスペクトなのかどうかはわかりませんが、ニルヴァーナのせいで 
ロックの歴史に残る同名のアルバムが2つ存在する事になります。 

ピストルズの“ネヴァー・マインド”と、ニルヴァーナの“ネヴァーマインド”。 

実際はピストルズの方がもっと長いタイトルだし、 
「ネヴァー」と「マインド」間のスペースの有無の違いもありますが、 
なんとなく略称で呼んでいると音だけでは同じになります。 

でも我が国では心配御無用。 
ホラ、ピストルズ側には、有名な邦題があるじゃないですか! 























そう、『勝手にしやがれ』です。 

…がーん! またかぶった!どうしてくれるんだよ! 

 

沢田研二 “勝手にしやがれ” 

 

 

 

これらのレコードは両者とも1977年。ジュリーが半年早い。 


ジュリーの方は、作詞家の阿久悠さんが1959年のフランス映画を元ネタにしてると 
ご本人も語っており、シチュエーションは違えど、未来のない男と 
心が離れていく女の構図はなんとなく遠からず理解できるものではあります。 

ピストルズの方は、偶然なのか意図的なのかわかりませんが、 
もし意図的だとしたら、ピストルズを扱う日本のレコード会社が 
パンクというのをどう解釈したかの興味深さは、ここに感じます。 

別にふざけて困らせたわけじゃないとは思いますが、 
今まさに日本でヒットしているレコード大賞曲と同名のものを悪戯に扱う事で 
メインストリームのものをバカにしたり抵抗している感じは、 
疑似的に出せているのではないのかと思います。 


さて、ピストルズのジャケットに代表されるような 
パンク系でよく見かけるこの新聞の切り抜き字体をご覧ください。 

 


そもそもは筆跡を追跡されないようにと使われた手法でして 
犯罪者が脅迫文として用いてたものでありましたが、 
パンクの持つフラストレーションと暴力的な音楽から来る 
反社会的イメージを強く印象付けるものでもあるし 
チグハグした感じも体裁を整えたがる人たちに対する 
アンチテーゼにも思えます。言葉ではなく字体で伝えるってすごい。 


やがて、パンクのスタイルも大きな産業に飲まれ、80年代になると 
ファッショナブルなものとして大衆を味方につけます。 

これは我が国の80年代。僕が好きだったラフィンノーズのシングルジャケット。 
なんだか色とりどりでフラストレーションという感じもなくなりました。 


そのラフィンも、77年にピストルがジュリーと同名の曲でおちょくったように

(勝手に既成事実にしているけど…)、 
彼らは1986年のアルバム『Laughin' Roll』の中でA面1曲目に 
チェッカーズの同年のヒット曲と同名の“SONG FOR U.S.A.”というのがあり 
2曲目に明菜ちゃんの同年のレコード大賞曲のパロディかもしれない 
“R & R DESIRE”が居座っています。 

さらに偶然でしょうが、B面2曲目のタイトルが“I AM I”。 
これは沢田研二さんの“TOKIO”のB面曲と同名であります。 
ラフィンはさすがに「ブルーバード、お前の時代だ。」とは言ってませんが 
またしてもジュリーが標的に。 


丁度この頃のラフィンは「Vapレコード」というメジャーなレコード会社から 
リリースしていまして、フルアルバム2枚とミニアルバム1枚が出ました。 
後はシングル2枚かな。丁度『Laughin' Roll』がVap最後になるはずです。 

そして当時、Vapレコード所属のある女性アイドルのシングルジャケットに 
この切り抜きデザインが使われたのです。ついにアイドルにも扱われる事に。 

きっとラフィンのジャケットデザインを担当していた方か、 
ついでにと頼まれたんでしょうね… 

それはパンクとは縁のなさそうな、おっとりしたタイプの女性アイドルで 
ましてや脅迫文なんて想像もつかない方です。 




























やっぱり、ここにたどりり着いたか! 
 


「菊池桃子はラ・ムーからロックに転身した」なんて語られていますが、 
すでに桃子さんのロックのキャリアはここからスタートしています。 

反社会的なのかと思わせて、 
ローラーズののようなブリットポップ風のコード進行に乗せて 
「生きるのがとても好き…」と裏切ってくれるのもロックであり、パンクである。 
もはや、音楽シーンの要。 

桃子さんにあえて言いたい。何度も言うよ、残さず言うよ、君が溢れてる! 



“勝手にしやがれ”で、思い出したけど、 
ジュリー最後の紅白歌合戦というのを覚えている人は何人いるだろうか。 
1994年、“HELLO”という曲で出場したのが最後。 

1989年以来、5年振りの再出場でしたが、このカムバック劇は紅白側の意向らしく 
この年西城秀樹、郷ひろみ、島倉千代子、松田聖子など復活出演が出揃いました。 

しかし面白いのは、この時の紅白に初出場したあるグループなんです。 

紅白の顔と言ってもいいこのグループとジュリーが、 
たった一度だけこの年で共演している。まばゆい歴史の交錯。 

そのグループは、ジュリーのヒット曲と同名の「TOKIO」なんですよね。 

紅白の出場リストから「沢田研二」の名前が消えようとしていたあの年から 
ずっと沢田研二のヒット曲と同名の「TOKIO」という文字が刻まれている。 
ジュリーが出ているかどうかではなく、ジュリーの影響が出ているのだ。 

1979年の紅白では、石野真子ちゃんが、沢田研二さんご本人の前で 
“ジュリーがライバル”を歌っていますし、 
タケちゃんマンの衣装の原案はジュリーの“TOKIO”の衣装だそうで、 
そういうのを一つずつ振り返ると、ジュリーの足跡はどれもこれも 
利用されて、蝕まれているようでいて、実は我々の共有財産として 
我々の方がジュリーなしではいられないほど支配されているのかもしれません。 


…という事で2/19(日)のジュリーマニアのレポートをしようと思ったのですが 
前置きが長くなりましたので、今日はここでおわり。 

タイトルに「Julie Mania」と書いて一言も語らずに、どろんします。 


でもしっかりライブ告知。 

3/11(土) 14:30~ 
練馬BE-bornで東日本大震災のチャリティーライブを行います。 
『やり続ける事が大切なツアー』僕はRUBBER SOLTSとして出演します。 
チャージ料とドリンク収益の一部が義援金として東北の方に行きます。 
これで6年目、最近はどんどん関心が薄くなっていますがずっと続いています。 
お時間のある方はどうぞよろしくお願いいたします。 

4/7(金) 20:45~ 
渋谷GABIGABIで昭和歌謡ナイトに出演いたします。 
去年の年末に実家に帰ろうかと思ったら、作りかけの作品のアイディアが閃き 
出発を二時間遅らせて完成させた『ラブソングの王様』を歌います。 
これを含めて3作品未発表のものがあって、世の中ではよく 
「生産が追い付かない」といいますが、僕は「消費が追い付かない」状態です。 

 

The Beatles“Movie Medley”