「食育」という言葉が浸透して久しくなりました。
(私の古Macさんは「食育」を変換できません)
学校で食育の時間があった日、
食卓の上にある、生き物だった食べものを見た娘は、
「私達のために『死んでくれた』んだよね『おいしく食べてね』って思ってるんだよね」と・・・「学校で、そう習った」と言います。
おやおや
「本当に「死んでくれた」と思う?死んで美味しく食べてもらいたい。と思ってたかな?」と、娘に問うと、しばらく考えて、
「死にたくなかったと思う」と、目に涙をためて言います。
そうだよね。
食べるために殺した。体よく言っても「死んでもらった」
たとえ産業動物である事を選んで生まれてきたとしても、
本能は「殺されたくなかった」と思うのです。
生きものが食べものになる瞬間は、壁の向こう側に隠されています。
ましては、食べ物になる生きものも、この学区では遠いところにあります。
身近にあるのは「生き物だった食べもの」だけ。
学校の教育ですから「殺した」と、言いにくいのは承知しています。
でも、自分のために「死んでくれた」というのは、とてつもない驕りだと思うのです。
生きものを食べものにするということ。
せめて、生きものである間は、愛情たっぷりのびのび生きて欲しい・・・
私は、そういう生き物であった食べ物で娘の身体を作りたい。
娘には、自分のため、動物のため、社会のため、
そういう「食べもの」を選んで欲しいと思うのです。