「娘と」考える、屠るということ。 | ひとり娘にボンボヤゲ!+DWE

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小学2年生の娘のこと。
通年のテーマ、低迷しているディズニーの英語システム(DWE)を細々でいいから継続頑張りたいよ!!のブログ(笑)

「食育」という言葉が浸透して久しくなりました。

(私の古Macさんは「食育」を変換できません)

 

学校で食育の時間があった日、

食卓の上にある、生き物だった食べものを見た娘は、


「私達のために『死んでくれた』んだよね『おいしく食べてね』って思ってるんだよね」と・・・「学校で、そう習った」と言います。

 

おやおやにやり

 

「本当に「死んでくれた」と思う?死んで美味しく食べてもらいたい。と思ってたかな?」と、娘に問うと、しばらく考えて、

 

「死にたくなかったと思うぐすん」と、目に涙をためて言います。

 

そうだよね。

 

食べるために殺した。体よく言っても「死んでもらった」

 

たとえ産業動物である事を選んで生まれてきたとしても、

本能は「殺されたくなかった」と思うのです。


生きものが食べものになる瞬間は、壁の向こう側に隠されています。
ましては、食べ物になる生きものも、この学区では遠いところにあります。

身近にあるのは「生き物だった食べもの」だけ。

学校の教育ですから「殺した」と、言いにくいのは承知しています。
でも、自分のために「死んでくれた」というのは、とてつもない驕りだと思うのです。


生きものを食べものにするということ。

 


せめて、生きものである間は、愛情たっぷりのびのび生きて欲しい・・・
私は、そういう生き物であった食べ物で娘の身体を作りたい。

娘には、自分のため、動物のため、社会のため、
そういう「食べもの」を選んで欲しいと思うのです。