中山道は江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道に対して内陸を通る

 

山岳コースであり、東海道よりも40㎞長く、宿駅も難所が多いことを反映して16宿おおい

                                                            ※参照  日本大地図帳 

 

しかし、東海道とくらべると、山沿いであるが故に宅地や市街地の開発から取り残され

 

木曽路には、馬籠や妻籠、奈良井など江戸の雰囲気を残す宿場町が残っている

 

そんな中山道の見どころを満喫できるかな?

 

 

 

 

軽井沢を出発し、思いもよらぬ寒さをワークマンで克服し、一路西進

                              ※ 参照 日本大地図帳

 

岩村田のワークマンを出て、この日は和田峠を越えて下諏訪宿まで進む予定である

 

伸びやかな下り基調の佐久平を進んでいくと

すっかり稲刈りの終わった田畑の向こうに、これから渡河する千曲川が横たわり

 

その先に、これから登るべき山岳かな?  それとも八ヶ岳?

 

 

そして、下りきったところには、千曲川の河畔の宿駅、塩名田宿に到着

 

千曲川を渡っていきます

 

反対側の河畔の八幡宿を過ぎると、いよいよ登り基調

 

振り返ると、ようやく浅間山が冠雪した姿をみせてくれ、ちょっと感激

軽井沢から追分宿、小田井宿では雲の中だったからね

 

雲がなくなり、あんなに寒かったのが嘘のような晴天の中

 

ところどころ、当時に戻ったような道が現れるので、押し歩きや担ぎが入ります

これからは和田峠に向けて登り基調のアップダウン

 

次の望月宿にかけては、じりじりと登っていく。 少しきつい坂にはちゃんと名前がついている。

 

瓜生坂を超えると一里塚があり、その先に望月宿があった

望月宿には面影をしっかりと残す旅籠が残っていた

 

一休みしたくなるけれど、風情のある道が続くので、のんびりゆっくり先を目指す

 

しかし、道はいよいよ牙をむく

弥二さん喜多さんが歩いていそうな、旧街道の風情は大変結構なのだが

 

石畳の舗装は激坂のしるし、”石割坂”の名前がつく

 

 

そして、その坂の先に芦田宿、立派な本陣が残っていた

 

芦田宿を過ぎると本格的な峠、笠取峠が待ち構えていた

峠にはすっかり少なくなってしまった当時の貴重な松並木が残っている

 

しかし、斜度はきつくはないものの、慣れない荷物の重さにHPを消耗したみたい

 

200mほどの峠なんだが、早くも疲れがみえはじめている

 

 

 

やっと峠を登りきると、当たり前ではあるが、一気にダウンヒル

 

標高1600mの和田峠に100mくらい残しといてよ、という気分ではある

 

 

下りきったところに長久保宿

ここで標高700mくらい

 

地味だけれども、北佐久郡の丘陵地を乗り越える望月宿、芦田宿、長久保宿は、適度に古い町並みが残っていて

 

この先の谷をぬう木曽路や、濃尾平野を往く美濃路とも違う、蓼科山の稜線を横切る高原の旧街道という感じ

 

 

 

いよいよ中山道一の難所、和田峠をひかえて、最後の宿場町、和田宿へ

 

”是より和田宿”

ここも非常に赴きのある街並みがたっぷりと残っていた

 

出梁造り(だしばりづくり)と呼ばれる、2階を突出させた建築とのこと

旅人の目にいかに目立つかを競って作られたものらしい

 

なるほどねえ、左の手前なんか立派そうで、つい泊ろうかなと思わせる

 

和田宿本陣着

和田宿は1861年3月に大火にあい宿場町の2/3が全焼したらしいが

 

1861年11月、皇女和宮降嫁の際の宿泊地とされていたため、大急ぎで再建されたらしい

 

どうりであたらしいわけだが、現役当時から残る数少ない本陣の一つである

 

和田宿全体も、1861年に再建されたものが多いのだろう、古いのに新しい、不思議な宿場町だった

 

 

 

この時点で13時

 

朝、新幹線でパンを食べて以来何も食べておらず、いい加減お腹が空いてきた

 

適当な店がないままに和田宿を通過してしまい

 

持参したブラックサンダーを4個ほど食べてお昼ご飯とした

 

自分の悪い癖だが、自転車に乗っていると進むことばかり考えていつも補給がおろそかになる

 

それも計算に入れて大量にリュックにいれていたブラックサンダーが、やっぱり役にたったよ

 

 

 

 

お腹も膨れて、いよいよこの日の最大にして最後の関門、和田峠への登りが始まった

正面の稜線はまだはるか彼方、まだ斜度は緩めだけれども

 

ここからおよそ800m、分かりやすく言えば東六甲を登らねばならないよ〜

 

国道は車が多く、すれすれを通るトラックが怖い・・・

 

 

国道から旧道に分岐し車が一気にへって一安心、その奥には本物の旧中山道が始まるが・・・

 

いまや、峠を登ることが精一杯、自転車を担いで山道を登る余裕はない

 

舗装路の旧国道で勘弁してください 

 

標高が上がってきて、ずいぶんと冷え込む中、淡々と登る

登っても登っても曲がった先は登坂が続く

 

次の曲がり角までは頑張る、を繰り返し、もはや限界を迎えた時

 

藁ぶき屋根の建物が!

辛抱たまらず脚を止める・・・肩で呼吸をしていると

 

”美味しい水があるからぜひ汲んでいって”と声をかけられた

ここは

 

「永代人馬施行所」 (接待茶屋跡)
この施行所は中山道の旅の難儀を助けようと、江戸の豪商かせや与兵衛の寄付金により設けた接待茶屋跡で、文政十一年(1828)に設置され、峠を越える旅人に冬の間、粥と焚き火、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施した。明治三年(1870)まで続けられ昭和58年に復元された。

 

ここまで荷物をしょって喘ぎながら坂を登って来た自分にとっては

 

接待茶屋のありがたさが本当に身に染みた

 

 

声をかけて下さったのは80歳くらいの男性で

 

  先ほど通過してきた和田で生まれ育ったこと

 

  若い頃は、下諏訪で働いていたので、中山道を通って盆暮れ正月は和田に帰省していたこと

 

  今もある下諏訪の旅館の娘さん(今はそれなりのお年でしょうね)と縁談があったが、立ち消えになったこと

 

戦後まもなくの頃で自家用車もなかったころなので

 

”交通手段は徒歩ですか!?” と聞いたら

 

”当時はバスが走っていた”

 

と教えてくれた

 

 

 

美味しい水を飲み、汗冷えで体も冷えてきたので 

 

挨拶をして再び自転車にまたがる 

 

 

のろのろと、でも着実に少しずつ登っていくと

 

”東餅屋跡”を過ぎる

 

このあたりには力餅やが数件あったそうだが、今はすべて廃虚となっている

 

旅人にとっては本当に長い長い峠道だったのだろう

 

 

 

ヴィーナスラインをくぐり、トンネルが見えるとようやく峠である

よほどうれしかったんだろうな、ここでこの旅で唯一の自撮りをしてた・・・(出しませんが)

 

ここからは下諏訪宿まで800mの高低差を下っていく

下りは楽だといいたいけれど

 

体力だけでなく、精神的に疲れ切った時は要注意

 

慎重にダウンヒルしながら、時には握力の限界を迎える前に立ち止まって

 

ようやく諏訪の街と諏訪湖が見えてきた

下諏訪は中山道唯一の温泉街でもある

 

 

下諏訪の本陣や諏訪大社を見学したかったのだが

疲れ切った身体は温泉を欲しがっていたようだ

 

宿の好意で玄関に自転車を置かせていただき

さっそく温泉に思う存分使って疲れを癒したのは言うまでもない

 

 

 

・・・ただ、夕食を付けていなかったので

 

少し離れた下諏訪駅近くの居酒屋まで足を引きずりながら歩いていくのであった・・・