amazarashi 『ジュブナイル』、確かな充実感を得るための手引き | おもに読書記録

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療養日記。

amazarashi 『ジュブナイル』


amazarashi は、歌詞がとても好きなんだけど、サウンドは完全にアニソンなんだよなあ。もったいないというかなんというか。


アニソンということで思い出したけど、いわゆるアニメオタクの人って、少なくとものめりこむものを一つ、確かに持っているわけだよね。ぼくには、どうやら、なにか一つの対象に本当にのめりこんだ経験がないらしい。なので、彼らにはなにか負い目を感じるな。彼らはアニメだとか漫画だとか、サブカルチャーと言われているものではあるにせよ、好きなものが確かにあるのだろう。


いや、ぼくがこのように感じるのは、離人症的な悩みというか、そのときどきでなにかに感動することはあっても、その好きという感情が持続しないことが問題なんだな。だから、なにかを好きになって、夢中でそれを追いかけるということがない。なにかを好きだと感じる、その感情体験の積み重ねが人格を形成するのであれば、ぼくには人格はない。バラバラにばらまかれた無作為の体験をくぐり抜けているだけだ。それらは、ただ通り過ぎていく。


例えば、前の記事に、椎名林檎の音楽に感動したと書いた。けれども、この体験はいっときのきまぐれのようなもので、ただ通り過ぎていくものに過ぎず、ぼくの人格の形成の役には立たない。


そうして、ぼくは自分がなにを好きなのかわからずにいる。推測はする。しかし、それは――人格を伴っていない。


(自分は生きているのか? お前は人生をなめている、そういわれてもぼくはなにも言い返せないだろう。人生をなめている、そんなことはぼく自身がいちばんよくわかっている。生きているということ、それがぼくには動的なものとして迫ってこないのだ。


木村敏が、ハイデガーの”Sein Und Zeit”という本のタイトルは、『存在と時間』ではなく、『有と時』と訳したほうが正確だと言っていた。ぼくの場合、存在はなんとなくわかるんだけど、有、ということがわからない。有、というのは動的なもので、存在、というのは静的なものだ、という話。もちろん、ぼくには「もの」がわかっても、「こと」がわからない、というふうにも言える。


ちょっとこじつけだけど、「言」というのは、「こと」と読める。「言葉」は、「こと」の葉、ということになる。「こと」、つまり動性、行為性を感覚できないやつの言葉は、「言の葉」というよりは、「物の葉」と言ったほうが正確かもしれない。ちょっと言葉遊びっぽいけど。


人生と真剣に向き合うということはどういうことか。それは、「もの」を知覚するだけではなく、「こと」を体験することなんじゃないか、と思う。


離人症というのは、この「こと」がわからなくなるという事態。でも、それがわかったとして、どうしたらいいのか? 離人症の治療論というものはない。アマゾンで「離人症」で検索してみれば、離人症に関連する書籍も皆無に等しいことがわかる。治療論ではないけど、木村敏は離人症という病気を記述している。)


生きるということはこの五分間のことだ。いまから五分間、生きることができないのなら、知覚が異常なんだ。知覚が異常ということは、要するに精神障害だ。薬物療法を受け、精神療法を受けるべきだ。ぼくは統合失調症とされている。統合失調症に精神療法は有効ではないとされている。では、薬物療法。薬物療法は、病気のある部分に対しては有効だが、限界がある。で、薬物療法によって改善できない部分はどうするのか。その改善手段は、いまのところ見つかっていない。誰も知らない。


知覚の異常と付き合いながら、社会生活を送る方法を模索するしかない。しかし、社会生活とは? 人並に働くことか? 


そもそも、われわれ人間はなんのために生きているのか? 少しでも、楽しく、幸せに生きたいと思っているのではないか? 楽しみ、幸せを感じられずに、ただ働き、消耗する生き方を、あえて選ばなければならないのか?


楽しさだとか、幸せだとか、充実感を感じられない「社会生活」にどのような意味があるのか?


より幸せな生活を求めるのは、自然で、正しいことだ。


また、生きるうえで幸せを求めることだけが正しいとも思わない。自分の無意識と調和して生きることは、必ずしも心地よいことではない。しかし、心地よさだけを求めて生きるのは、片手落ちだと思う。


ともあれ、統合失調症のリハビリテーションの方法を模索するうえでは、誰にも扱える手引きのようなものはないので、各々が自分で考えなければならない。ぼくにはまだ、リハビリテーションの方法が見つからない。


どうすればいいのか。


いま優先しているのは、少しでも楽な生活。少しでも、楽しいと、心地よいと感じられ、充実感を得られる生活の模索。そして、どのような一日の過ごし方をすれば、少しでも多く、充実感を得られるのか、経験則を理解すること。


このような一日の過ごし方をすれば、一定の満足、充実感を得られるという確かな手引きを作ること。それができるようになったときに、働くことを考えればいいのではないかと思う。実際、デイケアにいるような人たちで、就職を目指している人たちは、そのような「手引き」を、もうすでに手にしているのではないだろうか。


ぼくにとって現実は無秩序で、これを少しでも理解するためには、かなりの努力を要する。無秩序な日々を、幸せに、少しでも心地よく、後悔なく生きるために、「手引き」を自分で作らなくてはならない。