避難までの道のり④ ~プルトニウムと肺
5月に入り、義父の咳がひどくなってきました。
農業をする傍ら、役職を持つ義父は、体を休める暇もなく、会合へでかけていました。
中旬になり、血痰の混ざる咳をするようになった義父は、猛暑なのにファンヒーターで暖をとり、袢纏を羽織っていたり、そうかと思えば、暑い、暑いといって、下着姿のままベッドで横になっていたり、だるいといって、ベッドですごすことが多くなってきました。
食も、以前は健康診断の前日でさえも好んで飲んだお酒を口にもしなくなり、吐き気がする、と言って、お粥でさえ受け付けなくなっていました。
そんな最中、JAの農業者に対する損害賠償の手続きについての説明会があり、点滴しながら会場へと足を運んでおりました。
かなり無理していたため、医師からすぐ入院するようにと言われました。
診断は、肺炎で2週間で退院できるであろう、ということでした。
ところが、1週間後、義父の様態は急変し、息つぎさえも困難になっていました。
ICU(集中治療室)へ運ばれた義父は、肺に穴があき、酸素マスクだけでは酸素が体内に行き渡らずに足りないため、気管へ直接チューブを通さないと延命できない状態にまでなっていました。
様々な処置が施されましたが、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
葬儀では、近所の人などに、
「最近まで畑に出ていたのに・・」
と、驚かれました。
畑に出ていた・・・
それが原因のような気がしました。
震災直後から、ジャガイモのタネ芋の時期だから、と言って、毎日何時間も外に出て農作業していたし、
政府から、土の掘り起こしをしないようにと通達が来ていたのに、掘り起こしていた。
毎日、畑で収穫した野菜を食べ、畑の雨水をなんとかろ過して飲めないかと、コーヒーフィルターなどで濾して飲んでみた義父。
私には、すべてが放射能のせいに思えて、仕方がありません。
それでも、家族の前で、この話題をするのは、タブーのように思え、結局、口に出すことはできませんでした。
医師には、最終的には、肺水腫と診断されました。
「なんでこだになっぢまっだんだべな・・・」
(どうしてこんなことになってしまったんだろうか・・)
義父が私に向けた最期の言葉でした。
(避難までの道のり④ ~プルトニウムと肺 ) 完
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