【戦後中国の歴史】その3;文化大革命の始まり | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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戦後に生まれた中華人民共和国は、ずっと毛沢東を中心に動いてきた思われる方が多いのではないでしょうか。


これは大きな間違いです。

建国時の仲間でありライバルを次々に葬り去り、主席となりました。


しかしながら、大躍進政策の失敗で、一旦は隠居の身となります。


現在の中国共産党においては、一旦左遷されたりすると、もう返り咲きはほとんど不可能です。

が、この時代に毛沢東は、劉少奇や鄧小平が活躍す中、裏側で私兵部隊を作ったり新聞社、大学関係者を抑えるなどをして、足元を固め再度の復権を試みます。

それが前回の、現政府を倒せなる檄文でした。


さらにこれは、若者や学識者の中に広まっていき、当時の(実は30年くらい前までそうだったが)最重要広報機関である壁新聞に載るようになります。



当時を知る人たちの多くの証言では、この壁新聞は共産党中央を貶めるものであり、壁新聞を取り締まるだろうと思っていたようです。


ところが、なんと共産党新聞がこれを指示しました。


これは、毛沢東派が仕組んだものだったのです。


ここから、毛沢東の私兵のようなものだった紅衛兵が力を増してきて、共産党トップであるはずの国家主席やら総書記、首相の力をもしのぐようになってきます。







さらに、毛沢東はほとんど神のような存在になっていきます。

一方で、紅衛兵内部での権力闘争も激しくなり、お互いに捏造事件を作ったりして仲間の追い落としにかかったりします。


この中で、多くの優秀な人材が失われました。

鄧小平は、何度か危険な目に遭いながらも、文革の終わりまで生き抜いた数ない共産党上層部の一人です。






共産党の高官でさえ命が危ぶまれる状態になってきましたから、一般民衆の命などは軽いものでした。

元地主や金持は、身分のいらしい階級として公開の場で断罪され、自己反省させられます。

さらに財産を没収され、多くの場合には殺されたり重労働を課せられます。

この時代になると、私と同年でも自分の体験としてはっきり記憶している人たちが増えてきます。








こうした文化大革命という流れは、つい40年前まで続きました。

文化大革命の名で分かるように、これはかつての文化を否定し新しい文化価値をつくる運動でもありました。

ですから、過去の文化である仏像やら美術品は次から次へと壊されていきます。






こうしたあまりにもひどい作業に、博物館関係者などは美術品に毛沢東の写真を貼ったり、毛沢東語録を書きこんだりと相当苦労したようです。

しかしながら、そうした美術品にかかわる職業なども黒い(共産主義に不適切な)階級として、俳優や作家同様に殺されたり、遠方で重労働につかされたりしたようです。


こんな時代が、おそよ10年続きました。



一般に文化大革命の時期は、毛沢東が政権に復帰して紅衛兵が勝手気ままの行動をし始めた1966年頃から、毛沢東が亡くなり毛沢東の裏で暗躍していた四人組が逮捕される1976年頃までを言います。



この時期は、現在の共産党では無視を決め込んでいるようです。

文革40周年記念となる2006年には、中国共産党はとくに式典をしていません。

また、一部の噂では文革に触れることを制限するようであったようです。


ただし、最近の動きは第二次文革と言ってもよい動きにも見えます。


注目は、上海のドンである江ファミリーの情勢、並びに広東の李ファミリーの動きでしょうか。