安福河伯神社(宮城県亘理郡亘理町) | 碧風的備忘録

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安福河伯神社(あふく かはくじんじゃ)

 

亘理町逢隈田沢に鎮座。延喜式内社。旧社格は郷社。

御祭神として河口の女神である速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を祀る。

安福河伯神社と同じ祭神の速秋津比売神を祀る、

淡路国(兵庫県洲本市由良)に鎮座する由良湊神社の御朱印帳。

速秋津比売神の御神影が美しく描かれています。

 

相殿神として経津主神、猿田彦命、大年神をお祀りしている。

その他に、逢隈田沢字浜道に鎮座する

森房早川神社(祭神:天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)と

宮原に鎮座していた水神社(祭神:水波能売神)を合祀している。

 


由緒によれば、景行天皇41年(111年)8月6日に勧請されたと伝わる。

日本武尊による東征の折、水軍と陸軍が『稲葉の渡し(現在の田沢磨崖仏付近)』で

合流した。その際、景行天皇の勅令を受けた日本武尊により、庶民の福祉と

水陸の交通安全の守護神として祀られたという。

 

清和天皇の御宇である貞観4年(862年)6月25日に官社に列し、

正五位上の神階を授けられた。

往古は田沢地区一円を神領地としていたが、鹿島緒名太神社と同じく、

戦国時代真っ只中であった天正年間に戦乱が相次ぎ、神領地は廃絶した。

 

慶長7年(1602年)には亘理伊達家当主である伊達成実公により

社殿が造営され、祭祀料として一貫二百六十六文、また神主料として

八百八十文を寄進された。寛政5年には十二石六斗九升が寄進されるなど、

代々の亘理の領主から篤く崇敬された。

 

「延喜式神名帳」には『安福河伯神社』として表記されているが、

元々の社名は『阿福麻河伯神社』で、「貞観紀」には『安福麻水神』

「封内風土記」には『阿部隈明神社』という社名で記されている。

 


また、安福河伯神社と阿武隈川に関する言い伝えがあります。

 

安福河伯神社の西側、鹿島緒名太神社の鎮座する山で

神様が畝(うね)を立てていました。

神様は畝を七本立てたので、それに因んで、その山の名前を

『七峰山(ななうねやま)』と呼ばれるようになりました。

そして、残った土が三つかみあったので、それを

放り投げてできた丘だから、安福河伯神社の鎮座する山を

『三掴山(みつかみやま)』というようになったという。

 

また、他にも山の神様と川の神様の話があります。

 

ある日、阿武隈山地の神様と阿武隈川の神様が出会いました。

山の神様は、

『ここまで山を作ってきたんだ、せっかくなんで

もう少し北まで山を伸ばしてみたいんだよね』と申しました。

川の神様は、

『私はこの付近で川を海の方へ流したいのですよねぇ』と申しました。

 

双方ともお互いの意見を主張して結論が出ないので、

川向かいにある深山という山(千貫山)の周囲を10回早く廻った方

の意見に従おうという協議がまとまり、山の神と川の神は

一斉に深山のまわりを廻りはじめました。

 

どちらの神様も負けまいと、一歩も譲らずに深山のまわりを

まわり続けていましたが、七週目に入った時、

山の神様がちょうど深山に咲いていたツツジの花々に目を奪われ、

その拍子にツツジの根に足を取られて転んでしまいました。

山の神様が転んでいる間に川の神様が猛ダッシュして

深山のまわりを10周まわって勝利しました。

 

それからは、阿武隈川の神様の希望通り、

亘理町の烏鳥屋山と深山(千貫山)の中間地点で

阿武隈川は東へ流れて太平洋の方に向かうようになりましたとさ。

 


亘理郡鎮座の延喜式内社の御紹介もラストになりました。

4社目は阿武隈川の水神を祀る安福河伯神社です。

 

安福河伯神社が亘理の地に勧請された当初は、

現在の宮原地区の常磐線の線路から西に200mほどの場所に

鎮座していたそうです。その後、安福河伯神社は

宮原の鎮座地から現在の水上山へ遷座されました。

勧請当初の鎮座地付近は、現在は「おおくま花畑」という場所に

なっており、逢隈地区まちづくり協議会の方々によって

ヒマワリやクリムゾンクローバーなどの四季の花々が

栽培されています。

 

安福河伯神社鳥居。

 

鳥居の前には桜の木があります。

春は鎮守の森の緑色と桜の淡いピンク色の対比が美しいです。

 

安福河伯神社参道。

参道には舗装された113段の階段があります。

その先、水上山の頂上に安福河伯神社が鎮座しています。

 

安福河伯神社拝殿。

拝殿は瓦葺・入母屋造のものです。

 

拝殿の扁額には『勅宣勲十等 安福河伯神社』と書かれています。

清和天皇の御代である貞観年間に勲等を授与しているようです。

 

拝殿脇には、おそらく明治40年奉納の三角扁額。

三角扁額がある神社は、水や津波と関係があるとか…。

 

安福河伯神社御本殿。

一間社流造の御本殿は安政5年(1858年)に造営されたもので、

シンプルな外見ながら、所々にある龍や花の彫刻が見事です。

江戸時代後期の建築物として亘理町指定文化財となっています。

 


 

境内社の子安神社。御祭神は木花開耶比売神です。

 

子安神社の背後には、子安観音と山神碑が。

 

御本殿の裏手には、石祠と亀の甲羅を模した石像と

磐座のようなものが安置されています。

 


安福河伯神社の御朱印ですが、こちらの神社も

鹿島緒名太神社や鹿島伊都乃比気神社と同じく

亘理神社の兼務社となっています。

2016年末現在、御朱印には「宮城縣亘理神社之印」を

押して頂けるようです。なお、拝受希望の場合は

亘理神社へ事前連絡しておくことをおすすめ致します。

 

追記:2017年6月現在、亘理神社では宮司不在ということで

   御朱印の授与を停止しているようです。

   祭典前などに事前連絡して伺うほうが良さそうです。

 


 

なお、安福河伯神社の北側には「稲葉の渡し」や田沢磨崖仏が

あるわけですが、そこには、亘理町で唯一の猫神様の石碑があります。

猫神様の石碑

 


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