【ポジティブリスト】安全保障法制の切れ目はなくならない【ネガティブリスト】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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「安保法制の与党協議 きょう再開」 NHKニュースウェブ2015年2月13日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150213/k10015424121000.html

「自民・公明両党は13日、安全保障法制の整備に向けた与党協議を再開します。
協議では、集団的自衛権の行使や、多国籍軍への後方支援活動などで、どこまで自衛隊の活動を認めるかが焦点となり、3月中に与党としての考え方の取りまとめを目指すとしています。

安倍総理大臣は、13日の施政方針演説で、「国民の命と幸せな暮らしを断固として守り抜くため、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする安全保障法制の整備を進める」と述べました。
政府は、大型連休後の5月に安全保障法制の整備に関する法案を国会に提出する方針で、自民・公明両党は去年7月の閣議決定に基づく法案の作成に向けて、自民党の高村副総裁を座長、公明党の北側副代表を座長代理に、13日に与党協議を再開します。
13日の協議では、武力攻撃に至らない、いわゆるグレーゾーン事態への対処について議論を行い、政府・自民党が検討している、先の閣議決定で、自衛隊による防護の対象と明記しているアメリカ軍に加え、防衛協力を進めているオーストラリア軍なども対象にする案を巡って議論が行われる見通しです。
また、今後の協議では、多国籍軍への後方支援などの活動に、自衛隊を迅速に派遣できるようにするための恒久法を制定するかどうかや、集団的自衛権の行使をどのようなケースで認めるかを巡っても議論が行われます。
ただ、政府・自民党が、より積極的に国際貢献などを行うため、自衛隊の海外での活動の範囲を広げたい考えなのに対し、公明党は一定の「歯止め」が必要だとして、慎重な構えで、協議では今後、週1回のペースで議論を続け、3月中に与党としての考え方の取りまとめを目指すとしています。
(以下略)」


 今国会では安全保障法制の整備が課題となる。
 安倍晋三内閣総理大臣は「切れ目のない」安全保障法制を目指すという決意を見せる。

 しかし、始まる前からこれは不可能だと言える。
 ポジティブリスト方式をネガティブリスト方式に変えることなくして、切れ目のない安全保障法制などあり得ないわけだが、報道を見ても、そんな単語は見当たらないからである。
 国内の治安を守る警察と同じ感覚で有事法制を行っていてはダメなのである。


田母神俊雄「自衛隊の敵」(廣済堂出版、2013年)70~112ページ

GHQがつくった自衛隊

 戦後の日本はGHQに占領され、独立国家としての地位を失った。これが回復されるのは1952年のサンフランシスコ講和条約の発効以後のことであることは、ご承知の通りである。
 それまでの6年間、日本の防衛はもっぱら米軍を中心としたGHQの手に委ねられていた。何しろ憲法9条によって、日本は陸海空の軍隊を保持することを禁じられたのだから、どうにもならなかったわけである。
 この状況が変わったのは、講和条約発効の前々年の1950年のことである。
 その前年の1949年にはアメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連の4カ国の占領下にあったドイツが冷戦の激化とともに東西に分割された。そして、1950年、冷戦は朝鮮半島でさらに激化する。戦後、日本軍の武装解除ラインであった38度線を境に南北に分割されていた朝鮮半島でドンパチが始まったのである。
 ソ連の支援を受けた北朝鮮軍が38度線を越えて南下、一時は半島のほとんどを占領するが、米軍が上陸作戦によって巻き返し、その後は38度線付近で一進一退の攻防が続いた。
 この朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまでの約3年にわたって続いたが、その間、在日米軍が朝鮮半島に駆り出されたため、これに代わる組織の創設が急務となった。こうして1950年8月10日、GHQによって発令された「警察予備隊令」によって創設されたのが、陸上自衛隊の前身である警察予備隊である。
 当初の警察予備隊の仕事は、在日米軍が担っていた日本国内の治安維持活動だった。そのため軽装備であり、警察官に近いイメージであった。ところが、朝鮮戦争の激化によって、事態は変わる。
 当初はソ連対アメリカの構図であった朝鮮戦争に、1949年に誕生したばかりの共産主義国家・中国(中華人民共和国)が参戦し、いったんは取り戻したソウルが再び共産主義陣営の手に落ちたのである。
 こうなると米軍を率いるマッカーサー最高司令官も危機感を募らせる。万が一に備え、警察予備隊も朝鮮に送り込めるよう準備をしておこう、とそこまで思ったかどうかは知らないが、警察予備隊にも兵器と重装備を与え、米軍基地内で軍人並みの訓練までしたのである。
 実際には警察予備隊が実戦に駆り出されることはなかったが、こうした歴史が日本の再軍備に向けた足掛かりとなったことは間違いない。
 1952年、サンフランシスコ講和条約が発効され日本が再び独立国になると、GHQの警察予備隊令は失効してしまう。これに伴い、当時の吉田茂政権は、総理府の外局に保安庁を設置し、これを警察予備隊と旧海軍のメンバーが中心だった警備隊(海上警備隊)の管轄とした。
 その後、警察予備隊は保安隊と改称され、1954年7月1日、自衛隊法の施行によって陸上自衛隊に、同時に警備隊は海上自衛隊になり、さらに領空警備の必要性から航空自衛隊が新設された。こうして陸海空の自衛隊が誕生し、現在に至るわけである。

自衛隊を縛る交戦規定

 「この法律は、自衛隊の任務、自衛隊の部隊の組織及び編成、自衛隊の行動及び権限、隊員の身分取扱等を定めることを目的とする」
 自衛隊法第1条はこう記され、以下、これらを具体的に規定しているのだが、各国の軍隊におけるこうした規定と比べて自衛隊法が極めて異例であるのは、その「交戦規定」(ROE)の部分である。
 日本以外の多くの国々は、自国軍の交戦規定を国際法(主にハーグ陸戦条約とジュネーブ条約)において決められた交戦規定に則ったものとしているが、自衛隊の交戦規定は全くそうなっていないどころか、そもそも明確な交戦規定に当たるものが存在するかどうかもあやふやなままである。
 自衛隊法の第90条は、自衛官の武器使用に関してP75(※)のような規定をしている。憲法9条によって国対国の交戦権自体を否定してきた我が国は、いわゆる交戦規定と言えるものを自衛隊法にも明示できなかった。ただ、武器の使用に関して基準を決めておかなければ何が起こるかわからないということで、PKOによる海外派遣が始まる以前の自衛隊は、どのような場合に武器が使用できるかについての判断を、この条文に従って行うことを要求されてきたと言える。

※ 第九十条  第七十八条第一項又は第八十一条第二項の規定により出動を命ぜられた自衛隊の自衛官は、前条の規定により武器を使用する場合のほか、次の各号の一に該当すると認める相当の理由があるときは、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。
 一  職務上警護する人、施設又は物件が暴行又は侵害を受け、又は受けようとする明白な危険があり、武器を使用するほか、他にこれを排除する適当な手段がない場合
 二  多衆集合して暴行若しくは脅迫をし、又は暴行若しくは脅迫をしようとする明白な危険があり、武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合
 三  前号に掲げる場合のほか、小銃、機関銃(機関けん銃を含む。)、砲、化学兵器、生物兵器その他その殺傷力がこれらに類する武器を所持し、又は所持していると疑うに足りる相当の理由のある者が暴行又は脅迫をし又はする高い蓋然性があり、武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合

自衛隊の交戦規定は警察官並み

 その内容だが、「明白な危険があり」あるいは「高い蓋然性があり」に続き、「武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合」といった文言が三度も出てくるのだが、おそらく読者の皆さんは何を言っているのかよくわからないのではないか。
 まったく、法律というものは、よくもこれだけ持って回った言い方ができるものだと感心するが、要するに、「多勢によってやられる危険とか、相手が一人でも武器を所持し、やられる危険が高いといった明らかな身の危険があるとわかったら、武器を使ってもいい」と言っているのだ。
 当たり前のことを言っているに過ぎない、と思った方は、おそらく差し迫った身の危険を感じたことのない、幸せな方であろう。
 逆に言えばこれは、「明らかな身の危険を感じるまでは、武器を使ってはならない」と言っているのと同じなのである。つまり、いわゆる「正当防衛」が成り立つような場面以外は武器を使ってはならぬ、と言っているに過ぎない。
 これでは警察官と同じだ。

  警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法 (明治四十年法律第四十五号)第三十六条 (正当防衛)若しくは同法第三十七条 (緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。

 またまた持って回った法律で恐縮だが、警察官職務執行法の第7条にはこうある。要するに、警察官は刑法36条の正当防衛、または37条の緊急避難に当たる場合以外には武器(拳銃や警棒)を使ってはならないとする規定である。
 自衛隊の行動基準はほぼこれに準じているのである。警察官は武器を携行し、一般の人よりは絶対的に強い立場にあるのだから、こういう基準になるのはわかる。しかし、自衛隊が武装した敵と戦う時にも、なぜこれと同じような基準を適用しなければならないのか。
 相手は自衛隊よりも絶対的に弱い立場にあって、自衛隊よりも前任なのだから、自衛隊はそういう相手にやたらに武器を向けたりしてはいけないよ。ともすると自衛隊は暴走するんだから・・・・・・というあり得ない前提に立っていると言うのだろうか。
 まったくおかしな話である。

PKO派遣でも変わらなかった交戦規定

(中略)

銃口がこちらを向いたら撃ってよし

(中略)

イラクPKOで名を売った”ヒゲの隊長”

(中略)

国際法によって動けない唯一の軍

 それにしても、こんな危険にさらされてまで任務を遂行しなければならない軍隊は、世界広しと言えども自衛隊だけである。
 他国の軍の交戦規定には、そもそも正当防衛の概念など存在しない。もちろん無抵抗の市民に対し無闇に攻撃をしてはいけない、といった規定はあるが、それは国際法がそう定めているからであって、相手の銃口がこちらに向くまで撃てない、などというバカなことはない。
 日本以外の軍隊は、原則的に国際法に従って行動をとれるのが当たり前のこととなっているのだが、「世界で唯一、国際法によって動けない軍」、それが自衛隊なのである。
 ここで言う国際法とは「戦時国際法」と言って、各国の軍が戦時においても遵守しなければならない交戦規定のことである。
 戦時国際法は、いくつかの条約や慣習法から成るが、その代表的なものが一章でもふれた1907年のハーグ陸戦条約、そして第二次大戦後の1949年に結ばれたジュネーブ条約である。
 戦時とは、宣戦布告を伴ういわゆる戦争だけでなく、武力紛争、武力衝突も含まれるのだが、そうした戦闘状態の中でもお互いの軍が守らなければならないことが定められているのである。

 ■攻撃目標の設定・・・・・・非戦闘員や病院などの医療関係施設、歴史的建築物などを攻撃目標にすることを禁じている。
 ■攻撃実行における規則・・・・・・軍人と文民、軍事目標(基地や陣地、兵器や軍需物資)と民用物(軍事目標以外のすべてのもの)を区別せずに行う無差別攻撃を禁止し、やむを得ない場合にもできるだけ民用物への攻撃を避ける努力をすることなど。
 ■非戦闘員の保護・・・・・・非戦闘員とは軍人以外の文民と軍人であっても降伏者、捕獲者、負傷者、病者などのことで、これらは攻撃してはならず、降伏者、捕獲者については捕虜として人道的な扱いをしなければならない。

 たとえば陸戦法規にはこのようなことがあり、このほかにも使用兵器に関する禁止規定や降伏、休戦、中立国などに関する規定も存在する。そして、これとは別に、各国の軍が独自に定めた交戦規定が存在するのである。

ポジティブリストに縛られる自衛隊

 しかし、国際法も各国の交戦規定も、ネガティブリスト(禁止規則)と言って「~はしてはいけない」という禁止事項が書いてある場合がほとんどである。ところが自衛隊の場合は違う。「~の場合は○○してもいい」というポジティブリスト(根拠規則)の形になっているのだ。
 「ポジティブのほうが積極的でいいではないか」などと冗談を言っている場合ではない。ネガティブリストの場合、「禁止事項はない」のを原則とし、例外として禁止事項が決められている。つまり「禁止事項を守りさえすれば他のことは何をしてもいい」となるわけである。
 これに対し、ポジティブリストの場合は、「すべて禁止」を原則とし、例外として許されることが決められているものだから、「○○場合に限り△△していい」という形になってしまうのだ。
 この差は大きい。当然ネガティブリストで動くほうができることが断然多く、自由度が高いわけである。
 国際法や各国の交戦規定には「相手が銃口を向けたら撃ってよし」などというポジティブリストはまず存在しない。だから、武力衝突が起こった場合、あるいは起こりそうな場合には、禁止事項さえ守れば、相手をいついかなる方法で攻撃することも、身を守るために武器を使用することも公然と許される。
 戦地では想定外の事態が起こることもしばしばあるが、ネガティブリストの場合は「~してはいけない」と書いてあることさえしなければ、あとは何をしてもいいのが原則だから、軍は状況が変わってもどんどん対応できるわけである。
 なぜ自衛隊だけがポジティブリストによって手足を縛られてしまうのかと言えば、それがまさに、世界の軍の中で自衛隊だけが国際法によって動くことを禁じられているからである。
 自衛隊の場合は国際法ではなく自衛隊法、そしてPKOなどの場合は、その時その時でイラク特措法だのテロ対策特措法といった行動基準の根拠となる根拠法があって、そこで決められたことしかできない、ということである。
 例えばテロ対策特措法によって、インド洋に行って海上給油の任務が与えられても、「自衛隊の任務は給油である」というポジティブリストになっていると、それ以外のことは一切できない。
 すると、目の前に海賊船が現れて、どうもそれにやられそうな漁船がいると自衛隊が気づいても、これを助けることができない。「ああ、やられるぞ」と見ているしかないわけだ。国際法で動いている他国の軍であれば、当然助けに行くわけだが、自衛隊だけはこの当たり前のことができないのである。
 自衛隊も他国から見れば立派な軍である。だから自衛隊が国際法で行動しても、他国から非難されることなどあり得ない。むしろ他国は自衛隊がそうしてくれるのを望んでいるくらいである。非難が起こるとすれば日本国内だけであろう。だから、少なくとも人道的な行動に関しては国際法に従って動けるように、憲法改正を待たず、今すぐにでもして欲しいものだ。
 イラクPKOのような場合には、自分や周囲の身の安全を守る行動はほとんど何でも許されている各国の軍が自衛隊と同居するのだから、危険であるのはわかりきった話である。にもかかわらず、武器使用基準の見直しが公明党の反対で見送られるなど、相変わらず自衛隊は身の危険さえ守れない状況が続いている。
 自衛隊の事情など知らない各国の軍から見れば、手足を縛られた自衛隊の行動基準は、いかにも奇妙で腰抜けなものに見えるだけなのである。

憲法9条さえなければ・・・・・・

 こうしたおかしな話になるのも、結局は軍の保持や交戦権を認めないとしている憲法9条に配慮する形で自衛隊法や特措法などが成り立っているからである。
 そもそも憲法9条ができた時、自衛隊はまだ存在しなかった。そして憲法9条を作ったのと同じ人物が、憲法と矛盾するのを承知で自衛隊をつくったわけである。これがそもそものボタンの掛け違いと言うか、アメリカらしいご都合主義のゴリ押しであったのだから、あとからいろんな矛盾が生じるのは当たり前である。
 本来ならば、朝鮮戦争に注力しなきゃいけないから自衛隊をつくりました、面倒を見切れないから日本は自分で防衛してくれ、と自衛隊をつくったのなら、GHQは憲法9条を改正し、日本も「軍を保持する」と書き換えるように働きかけるのが筋であろう。
 ところが、日本に再軍備をさせないために押し付けた憲法は変えたくないものだから、矛盾を正そうともせず、なし崩し的に自衛隊をつくってしまった。そのおかげで自衛隊は憲法と矛盾した存在として現在に至ってしまったわけである。
 もっとも、憲法を改正しようにも、自分たちが押し付けた「3分の2条項」が効きすぎて、できなかったかもしれないが、いずれにしても、憲法9条があったことで、自衛隊という紛れもない軍が結成されても、日本政府はこれを「日本の正規軍である」とは言えなかった。そして、言えないことで自衛隊は海外においてさえ、「国際法で動けない唯一の軍」となってしまったわけである。
 このことは正式に自衛隊ができた1954年以来ずっと変わらない事実であったにも関わらず、日本国民は長くこうした矛盾に気づかずにきた。いや、気づいていても気づかない振りをしていたと言ってもいい。
 それは、自衛隊が海外に出て行くことになったからである。海外に出たことで否応なく他国軍との比較にさらされてしまい、こうした議論が活発になったのであるから、結果的に自衛隊PKO派遣はよかったのである。
 自衛隊の矛盾が国民の間にもはじめて強く認識されたのは、1990年の湾岸戦争の時であろう。クウェートに侵攻したイラクに対し、アメリカは国連を使って34カ国からなる多国籍軍を結成し攻撃を開始、戦闘はわずか100時間余りで多国籍軍の圧勝に終わったが、空爆の様子を中継で放送したり、ステルス戦闘機の登場など、覚えている方も多いはずだ。
 あの時、日本はアメリカから同盟国として支援活動のための自衛隊派遣を要請されたが、当時はまだPKO活動のために自衛隊を海外に派遣するための法律がなく、日本政府は135億ドル、当時のレートで約1兆8千億円という巨額の戦費を拠出した。最も多くの戦費を拠出したサウジアラビアが400億ドルというから、日本とサウジでほとんどを賄ったわけだ。
 にも関わらず、日本は金だけ出して済まそうとする姿勢を「ショウ・ザ・フラッグ!」となじられたばかりか、戦後にクウェート政府から参戦国に対して出された感謝状も届かない、という屈辱を味わうことになった。
 その後、PKO協力法が成立、海上自衛隊が機雷除去の任務を負ってペルシャ湾に派遣されたのだが、「憲法9条さえなければ」というのが屈辱を味わった自衛官たちの本音であったことは言うまでもない。

軍であり軍でない自衛隊

 その後、自衛隊はカンボジア、モザンビーク、東ティモール、アフガニスタン、イラク、ネパール、スーダン、ゴラン高原、ソマリアなどへPKOだけでなく、難民救援、国際緊急援助(地震などの災害救助)、海上警備(海賊の監視など)、化学兵器処理など、さまざまな目的で海外派遣されるようになり、国際社会でも高い評価を得てきた。
 しかし、それでもこれらの活動はやはり憲法と自衛隊法によって制限されていたため、先ほど述べたような不自由と身の危険を強いられていたことに変わりはなかったのである。
 こうした自衛隊の抱える矛盾やジレンマを取り除くため、安倍政権が掲げたのが憲法改正であり、自衛隊の国防軍化であることは言うまでもない。
「自衛隊は国内では軍隊と呼ばれていないが、国際法上は軍隊として扱われている。このような矛盾を実態に合わせて改称することが必要だ」
 安倍総理は国会でこう発言したが、自衛隊の抱えるジレンマは、まさにこのことに尽きるのだ。
 つまり、自衛隊は「軍でありながら軍でない」という状態にもう60年もの間置かれ、これまで述べてきたような日陰者の扱いを受けたり、法を遵守したら自分の身の危険を守れるかどうかわからないような厳しい環境に身を置いてきたわけである。
 自衛隊の使命はまさに国を守ることにある。しかし、これまでは国を守るためなら時に命を投げ出さなければならない可能性のある自衛隊員であるにも関わらず、国民から非難されたり、その存在を否定されたりしながらも長年じっと耐えてきた。このことを国民はよく考えて欲しい、というのが私の切なる願いである。
 自衛隊60年の歴史の中で、自衛隊員たちが一度でも「俺たちのおかげで日本は平和なんだから、少しは感謝しろよ」といった傲岸不遜な態度をとったことがあっただろうか。あるいは、東日本震災で瓦礫の中に身を投じ、人命救助に当たった自衛隊員たちが一度でも弱音を吐いただろうか。
 仮にそういうことがあったなら、私は元自衛隊幹部の一人として頭を下げるしかないが、少なくともそのような報道を耳にしたことはない。国のため国民のために働くことを使命とし、生き甲斐としている彼らが、そんな態度をとるはずがないのである。
 そういう彼らの行動を見てきた日本国民であれば、そろそろ「自衛隊は違憲だ」式の意固地な考えは捨て、自衛隊がこれまでしてきたことをまともに評価してくれてもいいのではないか。そして、反日サヨクが宣伝してきた、自衛隊があると戦争になるという考えがいかに間違っているか理解していただきたいと思うのである。

「集団的自衛権の行使」を否定してきた日本

(中略)

集団的自衛権の行使なき同盟国とは何か

(中略)

集団的自衛権の行使こそ自主防衛への道

(中略)

自衛隊には平時は個別的自衛権もない

(中略)

自民党の憲法改正草案はどうなっているか

 ところで、自民党が作成した憲法改正草案(P107参照※)において、9条派どうなっているか。
 最初の「日本国民は」から「用いない」までは現行憲法とほぼ同じであるが、現行憲法でその次に置かれた一文が削除されている。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
 この一文である。そしてこれが、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする国防軍を保持する」と置き換わっている。
 そして、それに続く三番目の部分が集団的自衛権にふれるところで、具体的なことは法律によって決めるが、国防軍は国際社会の平和と安全を確保するための国際的活動を行うことができるとしているわけである。
 国防軍を保持するのだから「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という一文が消えたのは至極当然のことだが、「国の交戦権は、これを認めない」の部分を消したのも評価できる。
 そもそも「国の交戦権を認めない」というのは、字句通り解釈すれば、「攻め込まれても戦わない」と言っているのに等しい。いわば、国民の命を自らが守らないと言っているのに等しく、GHQに押し付けられたとはいえ、よくもこんな無茶苦茶な一文を後生大事にしてきたものである。
 逆に言えば、国家というのは、自分たちの国を自分たちで守るために戦う権利があるからこそ国家なのである。その権利を国家主権と言って、どの国も他国との関係は対等であって、他国に侵略されたり従属したりすることを良しとしないからこそ独立国家なのだ。従って、自国を守るために戦わない国は、もはや国家とは言えないのである。
 もちろん現行の憲法下でも、他国が攻め込んできた時に日本が無抵抗ということはあり得ないし、そもそも「交戦権」という言葉自体が厳密に何を意味しているのか、作ったGHQの人間でさえよくわからない、というお粗末なものだ。おそらくは、一章で見てきたように、マッカーサー三原則にあった「日本は紛争解決の手段としての戦争に限らず、自国の安全を守る手段としての戦争も放棄する」という日本を馬鹿にした一文の断片がここに残滓として残ってしまったのである。
 その意味で、自衛隊を軍に昇格させ、国を守る国防軍として位置づける、そして日本は自ら戦争を仕掛けたりはしないが、やられたら戦うぞと、きちんと記すことは重要である。単なる言葉の問題ではなく、日本が世界的に見て極めて異常な戦後レジームから脱し、普通の独立国となることを宣言する意味で大きいのである。

※ https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

自衛隊員は捕虜にもなれない?

(中略)
 一日も早く憲法を改正し、自衛隊が国防軍となる日を願うばかりである。」

自衛隊の敵 (廣済堂新書)/廣済堂出版
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※ 田母神俊雄氏は元自衛隊航空幕僚長で、現在は次世代の党所属の政治家。

倉山満「「軍国主義」が日本を救う」(徳間書店、2014年)34~72ページ

”自衛隊は軍隊”という嘘

 次に日本人が認識しないといけないのは、自衛隊が軍隊ではないということです。なぜなら、自衛隊は致命的に軍隊の要件を満たしていないのです。
 軍隊の要件としては、まず、有事法制が許可事項列挙型のポジティブリスト方式でなく、禁止事項列挙型のネガティブリスト方式であることが絶対条件です。
 そして、軍隊は自己完結した組織である必要があります。これは二つの意味があります。つまり、物理的と法律的に自己完結しないといけないということです。
 物理的というのは、食料その他もろもろの物資を自給自足して生存できなければそれは軍隊とは言えないということです。「財務省が予算をつけてくれないから、自衛官が全員餓死しました」では話になりません。だから、軍隊は予算を取ってくる努力をしなければなりません。そして、いざとなれば物資を現地調達するのが軍隊なのです。東日本大震災でコンビニに通う自衛隊は軍隊として最低の行動です。
 法律的に自己完結するというのは、政府機能が麻痺した時に軍隊が政府機能を回復させるべく行動できないといけない、という意味です。
 許可されたことしかできないポジティブリスト方式では、政府の命令がないと動けません。関東大震災や二・二六事件のように政府機能が麻痺するような真の有事にこそ、軍隊は政府機能を回復させるべく行動する必要があります。決まったことしかやりません、命令がなければ何もしませんというお役所仕事では困るのです。
 そのため、これだけはやってはならないということだけを記述して、あとは軍の裁量に任せるようにしておかないと、いざという時に軍隊が機能しなくなってしまうのです。
 ここが軍隊と警察の最大の違いです。警察は捜査と逮捕しかやってはいけないのです。犯罪者(無実かもしれない人)相手にはこれで十分です。
 しかし、軍隊が相手にするのは一般市民ではなく敵です。敵は何をしてくるか分かりません。だから、「これしかやってはいけない」のポジティブリスト方式では、何もできないのです。むしろ私が敵なら、そのポジティブリストを読み込んで、「じゃあ、こいつらはこれしかやれないんだな」と研究します。自衛隊は外国に研究されていないのでしょうか。
 そして、法的な完結として軍隊は軍法会議を開ける必要があります。軍法会議とは一審制の裁判<国により例外ありですが>で、軍刑法に基づいて軍人を裁く裁判です。反乱者などを即決裁判で死刑にすることもできます。
 そして、軍刑法が一般の刑法に優先する事態を戒厳令と言います。つまり、軍人以外の国民にも軍刑法が適用されるということです。関東大震災や二・二六事件のように政府機能が麻痺した時に、もし反乱を起こす人間がいれば、問答無用で押さえ込まなければ秩序を維持できません。
 以上のように、ネガティブリスト方式の有事法制と軍法会議があることが、法律的に自己完結した軍隊の必要条件なのです。ところが自衛隊には、できることだけを明記したポジティブリスト方式の有事法制があるだけ、そして軍刑法はありません。だから、自衛隊は軍隊ではないのです。
 もっとも、有事の際に政府機能を回復できるということは、裏を返せば、政府の命令がなくても動けるということになります。それはクーデターによって政府を倒せるという能力でもあります。言い換えれば、クーデターを起こせる能力を持つのが軍隊、とも言えるわけです。
 ちなみに、警察は政府の命令がないと動けないので、堤真一さん主演のドラマ『SP』(フジテレビ)みたいに、警察がクーデターを起こすということは、概念としてありえません。もしやったとしたら、その時点で警察ではなく軍隊だということになります。
 ところが自衛隊は法制度上も組織上も創設時の警察予備隊のままなので、政府の命令がないと何もできません。法的にクーデターは絶対に起こせないのです。
 昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日、三島由紀夫が自衛隊にクーデターを呼びかけた後に割腹自殺するという事件がありましたが、三島は日頃から自衛官と接していて彼らが軍人でなくサラリーマンだと知っているのに、なぜクーデターを呼びかけたのかと、事情通は疑問に思ったそうです。この頃はすでに、自衛隊はクーデターを起こす能力も意思もない組織になっていたのです。
 また、自衛隊の名称を「自衛軍」にするという話がありますが、そもそもこの名称も問題です。自衛隊の英語訳は「Self-Defense-Force」なのですが、Self-Defenseというのは自分の部隊だけを守るという意味なので、正確には「保身軍」なのです。
 では「国防軍」にしようという意見もありますが、名前を変えただけでは軍隊にはなりません。有事法制と軍法会議を整備し、予算をつけて、装備と訓練と人数を揃えて、何よりも戦う魂がないと軍隊にはなりえません。
 また、政治と軍事の関わり、つまり政軍関係の研究もされていないため、自衛官が政治を分かっていないという実態もあります。
 本当に政軍関係が分かっている人は、むしろそのことを書けないのです。なぜなら政軍関係の研究をする場合、過去の失敗などを反省する必要があり、どうしても先輩批判をしないといけなくなるのですが、それをすると出世ができなくなるため、自衛隊ではできないのです。だから、本当の意味での戦史研究も防衛大学校や防衛研究所では許されていません。

軍隊は直接国民を守ってはいけない

(中略)

日本の有事法制では戦争は不可能

 これまで述べてきたように、自衛隊法をはじめ日本の有事法制は、許可事項だけが列挙されたポジティブリスト方式になっています。しかも、その条文や解釈があまりにも複雑なために、自衛隊法は行政法の学者でもお手上げという代物なのです。だから、自衛隊のことだけ詳しい人は、軍隊というものが分からなくなってしまうのです。
 なぜ軍隊はポジティブリスト方式ではダメなのでしょうか。有事にはどのようなことが起こるのか、事前に想定することが極めて困難です。許可されたことしかできないのであれば、想定外の事態に対して軍隊は何もできなくなってしまうからです。加えて、現在の自衛隊法では政府の命令がないと自衛隊は何もできないようになっています。
 政府機能が麻痺した時にそれを回復することが、軍隊の重要な役割なのです。しかし、自衛隊にはそれができません。
 またポジティブリスト方式では、戦争・紛争が生起した際に、どういう状況ならどこまで武器を使えるのかを、その都度確認しないといけないので、現実には戦えないのです。
 戦争では相手がどのような戦力を持っているか分からないので、疑わしきは全力で排除する必要があります。ところが、自衛隊にはそれができない。
 例えば自衛隊法には、交戦規定を示すものとして、次のような条文があります。

  自衛隊法第七十六条(防衛出動)
  内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という。)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律 (平成十五年法律第七十九号)第九条 の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。

  2  内閣総理大臣は、出動の必要がなくなつたときは、直ちに、自衛隊の撤収を命じなければならない。

 自衛隊法七十六条は法律の解釈が極めて厳格にできていて、すぐに自衛隊が戦えるわけではありません。
 防衛出動の次に武力行使についても法律で規定があります。

  第八十八条(防衛出動時の武力行使)
  第七十六条第一項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる。

  2  前項の武力行使に際しては、国際の法規及び慣例によるべき場合にあつてはこれを遵守し、かつ、事態に応じ合理的に必要と判断される限度をこえてはならないものとする。

 自衛隊法八十八条では、国際の法規及び慣習の制約内で基本的には無条件・無限界に戦力の発揮を認めるとしています。これを武力行使といいます。
 ところが、この武力行使は七十六条の防衛出動の下令だけでは不十分とされています。なぜなら、「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態」でも防衛出動を下令することができるので、その場合、実際にはまだ外部からの武力攻撃が発生していないからです。この「明白」がクセ者で、誰がどうやって判断するのか。総理大臣が菅直人氏だったらどうするのか。自民党内閣だって、内閣法制局におうかがいを立てています。つまりは誰かが死ぬまで武力行使をしてはならないという法体系になっています。
 ちなみに、この自衛権の発動が認められるまで、自衛隊は警察比例の原則による制限された範囲での武器の使用しか認められていません。
 このように、有事が起きた際に、自衛隊は何をどうしたらいいのかがすぐには分からない煩雑な内容になっています。自衛隊が有事即応することは、まず無理なのです。

敵にやさしい武器の使用基準「警察比例の原則」

 さらに、陸上自衛隊の教育課程で使用される教科書『防衛関係法令』によれば、防衛出動について以下のように逐条解説されています(一部抜粋)。

  内閣総理大臣が防衛出動を命ずるのは、「外部からの武力攻撃が発生した事態」又は「発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態」に際してである。
  (1)「外部からの武力攻撃」とは、外国軍隊のわが領域への侵入、外国軍隊のわが国領域等に対する攻撃、外国からの武装部隊(たとえば義勇軍)のわが領域への侵入、外国からのわが領域内における内乱者に対する大量の武器の供与により内乱を発生させ、又は拡大させ実質的にわが領域に侵入したと同様に考えられる場合等をいうのであり、直接侵略よりも広い概念である。国際連合憲章第五十一条に規定している武力攻撃と本条に規定する外部からの武力攻撃とはほぼ同意義である。

  (2)外部からの武力攻撃と間接侵略とは、ある部分においては競合する概念である。
  間接侵略は、一又は二以上の外部の国の教唆又は干渉によって引き起こされた大規模の内乱及び騒じょうをいうのであるが、例えば内乱者に外部の国が大量の武器を供与することにより内乱を発生させ又は拡大させる場合においては、本条の規定により防衛出動を命ずるか又は第七十八条の規定により国内治安維持として命令による治安出動を命ずるかは、その事態に応じて、内閣総理大臣が判断し、国会の承認を受けるべきものである。

 この解説に対する解説が必要でしょうが、頭が痛いのでやめます。
 ちなみに、この解説はほんの一部であって、実際は事細かに解釈が決まっています。
 外部の国からの武器供与や扇動により引き起こされた内乱や騒擾といった間接侵略については、次の治安出動で規定がなされています。

  自衛隊法 七十八条(治安出動)
  内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもつては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。

  2  内閣総理大臣は、前項の規定による出動を命じた場合には、出動を命じた日から二十日以内に国会に付議して、その承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合には、その後最初に召集される国会において、すみやかに、その承認を求めなければならない。

  3  内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があつたとき、又は出動の必要がなくなつたときは、すみやかに、自衛隊の撤収を命じなければならない。

 最も問題になるのは、この治安出動と防衛出動では自衛隊の武器の使用基準が大きく異なるという点です。前述の通り、防衛出動の場合、国際法で認められる範囲内で無制限の武力の行使が認められていますが、治安出動の場合は警察官職務執行法で定められた「警察比例の原則」での武器使用しか許されません。
 この「警察比例の原則」とは、警察は無実の推定を受けている国民の権利を制約する可能性があるので、疑わしきは罰せずという態度で行動しなくてはいけないし、捜査して逮捕する時も人権侵害に気をつけないといけない、ということです。
 もし、相手が抵抗した時も相手が素手なら警察官は素手か警棒というように、相手より一段上の力までで対処しないといけないというもので、現実の運用においてもおそろしく厳格な基準なのです。
 自衛隊は防衛出動が下令されるまでは、この警察比例の原則に準拠して武器を使用することになります。前出の『防衛関係法令』では次のように解説されています。

  自衛隊の治安出動に関する訓令(昭和三十五年防衛庁訓令第二十五号)
  出動を命ぜられた自衛官は、前項の規定により武器を使用する場合のほか、次の各号のいずれかに該当すると認める相当の理由があるときには、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。
  (1)職務上警護する人、施設又は物件が暴行又は侵害を受け、又は受けようとする明白な危険があり、武器を使用するほか、他にこれを排除する適当な手段がない場合
  (2)多衆集合して暴行若しくは脅迫をし、又は暴行若しくは脅迫をしようとする明白な危険があり、武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合
  (3)前号に掲げる場合のほか、小銃、機関銃(機関けん銃を含む。)、砲、化学兵器、生物兵器その他その殺傷能力がこれらに類する武器を所持し、又は所持していると疑うに足りる相当の理由のある者が暴行又は脅迫をし又はする高い蓋然性があり、武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適切な手段がない場合

 これだけでもがんじがらめですが、実はこの解説も序の口で、実際にはさらに事細かに規定がされています。
 では、防衛出動が下令されれば無制限の武力行使がすぐに認められるかというと、そうではありません。次に自衛権の発動が認められて初めて自衛隊は無制限の武力行使が可能になるのであって、自衛権発動前の武力攻撃が予測される事態などでは、やはり警察比例の原則での武器使用しか認められていないのです。
 そして、自衛権の発動としての武力の行使については以下の三要件に該当する場合に限られています。これは「自衛とは何か」という議論をする時に必ず出てくる「自衛権行使の三要件」ですので、しっかり覚えてください。

 一、我が国に対する急迫不正の侵害があること
 二、これを排除するために他に適当な手段がないこと
 三、必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

 しかも、前出の自衛隊法七十六条2項では、目的を達成したら直ちに撤収しろと書いてあり、保障占領(休戦協定や講和条約など一定条件の履行を相手国に強制するための占領)もできない。国内法が極端に国際法と乖離しているのです。
 これまでご覧いただいたように、自衛隊法などの条文や解説書を確認しないと、何をしていいのかが誰にも分かりません。

軍法会議すら開けない自衛隊

(中略)

「疑わしきは滅ぼす」が世界の常識

(中略)

日本人が知らない「パーマストンの原則」

(中略)

シビリアン・コントロールを勘違いしている日本人

(中略)

軍政と軍令が一体化している日本のおかしさ

(中略)

政治が分からない高級軍人ほど危ない

(中略)
 クーデターを起こすことができる強力な軍隊をどうやって政治の力で制御していくかというのは、その時代ごとに常に試行錯誤していくしかない問題であり、世界中の人々は常に悩みながら運用しているのです。絶対の解決策というものはありません。」

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※ 倉山満氏は、憲政史家で、次世代の党の自主憲法起草委員会の顧問(http://jisedai.jp/news/20150119.html)。


 切れ目のない安全保障体制を実現するのならば、やはり軍隊を持たねばならない。
 しかし、軍隊不保持を定める日本国憲法9条がこれを阻む。

 安全保障法制を整備すること自体に異議があり、与党間の一致も難しく、政治的駆け引きが発生するということ自体が異常だ。
 特に、2675年も歴史を紡いできた我が国が、自国に愛着を持たず、これを守り継いでいこうと考えず、国防を疎かにして滅ぼされても構わないという自殺傾向のある国民で溢れているのは極めて異常だ。

 日本は70年近く、軍隊を持たず、滅亡の危険を背負って、十分に戦争の反省をした。
 その間、国民は北朝鮮に拉致され、領土も韓国やソ連・ロシアに不法占有されてきた。
 もうそろそろ、軍隊を持ってもよいではないか。
 死ぬまで反省するという道理はない。

 軍隊を保持すべきだと言っていい。
 軍隊保持反対というきれい事に塗り固められた思考停止から、日本国民は脱却すべきだ。