「あれ」
起きたての、彼女の左の頬を見るやいなや、俺は声を上げた。
「なーにぃ?」
まだ寝足りないとでも言いたげな大欠伸をしながら、彼女は尋ねる。
「ここ、腫れてる」
あくまでも平らに、そして限りなくうっすらと盛り上がった部分を、俺は人差し指の先でそっと押した。
空気の入れ替えにと、しばらく窓を開けていたせいだろうか。
ちょっと気の早い蚊が迷い込んで、彼女の血液を少し、拝借したらしい。
「・・・ホントだ」
鏡で確認するなり、彼女は低い声でそう唸る。
「もう蚊が出てきたなんて」
ヤダヤダ、とか虫刺されの薬どこだっけ、とかひとりごちながら、さっきまで二度寝しそうな勢いだった目をぱっちりと開け、あちらこちらを探し回っている。
「そんな必死にならなくても、すぐおさまるだろ」
何気ない俺の一言に、彼女はかっと目を剥いた。
「ダメ! すぐ薬塗らないと、あっという間にかゆくなっちゃうんだから!」
そしてそう叫んだ後、「ただでさえ、顔刺されるなんて有り得ないし」と付け足す。
「そんなもんかぁ・・・?」
取り残された俺は、一応、彼女のあとを追ってみる。
戸棚や小物入れを次から次へと覗いてみるものの、お目当ての塗り薬はなかなか見つからないらしい。
「あっれ~?」と困惑気味の声を上げながらも、彼女は諦めることなく探し続ける。
朝一番のコーヒーを淹れながら、俺は黙ってその様子を見守っていたけれど。
「もういいじゃん。アロエでも塗っといたら?」
とうとう見かねて声をかける。
だけど、返ってきたのは少し苛立ったツッコミだった。
「うちにアロエなんかないでしょ!」
「・・・そうでした」
「そんなことより、一緒に探してよ」
彼女のお願い、というか命令に、俺は「ハイハイ」と返事しながら適当にその辺をいじってみる。
「・・・ないな」
2人がかりで探しているのに、どうにもこうにも見つからない。
「ま、とりあえずコーヒーでも飲んで、落ち着こう」
俺が促すと、彼女はしぶしぶカップに手を伸ばした。
左手で、刺された部分を引っ掻きながら。
俺は、熱々のブラックコーヒー。彼女は、ちょっとぬるめのカフェオーレ。
珍しく無言の彼女は、やっぱり左頬が気になる様子。
「掻いたら痕になるぞ」
「わかってるもん」
だから早いとこ薬を塗りたかったのに、と彼女は不貞腐れる。
俺は苦笑いしながら、彼女のそういう子供っぽいところも可愛い、と思う。
「蚊なんて、嫌い」
出し抜けに、彼女はそう吐き捨てた。
「そりゃ、好きな奴はそうそういないだろうな」
どこか他人事みたいな俺の言葉に、彼女はやたらむきになって、どうしても俺の共感を得ようとする。
「人の血吸って生き延びようとするなんて、図々しいと思わない?」
「まあ、それも生存するための手段だしな」
「そりゃね、イソギンチャクとヤドカリみたいな関係だったらわかるわよ。
だけど、あいつらは、あたしたちに不快な思いをさせてまで
自分たちがおなかを膨らませているのを、まるでわかっちゃいないのよ」
あいつら、という表現に、どこかなじみ深い者に対する敵意を感じた。
彼女の台詞はきっと、食物連鎖の頂点に立つ人間だからこそ言える主張だ。
もし、インパラがライオンに向かってそう主張したら、「何ほざいてんだ」とひと思いにかみ殺されるだろう。
「まあ、さ。 あいつらも、叩き潰されるリスクを背負ってまで、
こうしてやって来てんだからさ。
もうちょっとお手柔らかにしてやれよ」
時間が経って、さっきよりも腫れがおさまってきている。
だけどまだ、丸く浮き出ているのがわかる。その部分を、俺は慰めるように突いてみた。
彼女はなおも「かゆい~!」と駄々をこねるものの、だんだん落ち着きを取り戻したようだ。
「薬、新しいの買っとこうな」
「うん」
微笑む彼女の顔を見て、やれやれ一件落着だなと思った途端。
「でも、血を吸うのはメスだけ、っていうのが
何かまた許せないのよね・・・」
オンナの厳しい指摘が、再び俺に苦笑いをさせた。
蚊と人間の戦いにまつわる
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