こんなニュースがありました。(読売新聞から)

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081129-OYT1T00510.htm?from=main1


「天誅、文科省局長ら殺害」と東大卒の男がブログに、逮捕

 文部科学省局長らの殺害予告をインターネットのブログに書き込んだとして、警視庁は29日、東京都文京区本駒込、無職前田記宏容疑者(25)を脅迫の疑いで逮捕した。

 同庁幹部によると、同容疑者は東大を卒業後、定職には就いておらず、「理想を持って勉強してきたが、教科書で勉強したことと社会の現実が違っていたことを思い知り、文科省にだまされたという感情が高まった」などと供述しているという。

 発表によると、前田容疑者は今月20日、自分が開設したブログに「1週間以内に次の者を、その自宅において刺殺する」などと書き込み、同省局長や課長クラスの実在する幹部職員10人の名前を列挙して脅迫した疑い。

 同庁幹部によると、前田容疑者は「目的は詐欺教育に対する天誅(てんちゅう)。国民主権を回復し、抵抗権を行使して悪を殺害する」などとブログに書き込んでいた。

 今月2日ごろ、インターネット上のウェブサイトに、現職の東大教授を名指し、「殺害する」などと書き込んでおり、同庁が通信記録などを照会した結果、文科省幹部の脅迫も判明した。

(2008年11月29日19時17分 読売新聞)


 もしかしたら本質は、最近よく見られる、自分が思い通りに行かないことは、全て他人が悪いんだという、「卑怯な了見」による事件に過ぎないのかもしれません。

 流石東大卒ということで、何学部はは知りませんが、小難しい言葉を使っている感じに、むしろ小ささを感じてしまいます。

 ボクは、この記事と関連記事しか見ていませんが、大体、自分の体験と考察からだけで、国民主権が侵害されている、という表現自体が、かなり一方的ですし、それを国家への抵抗権にするというのも、民主主義以前の時代なら兎も角(ホッブス以来の社会契約説系の発想)、自らの正当化の為に、もしも書いていたのだとしたら、政治思想を愛するものとして、東大卒のレベルに涙が浮かぶ思いです。

 尚、ボクは東京大学で3年間学んだ経験があります。大学院生時代に研究生をしていたので、正式な院生ではありませんでしたが、指導教授の先生以下に大変お世話になった思い出がございます。(と言いつつ、雰囲気に馴染めなかったのか逃げ出しましたが。。。)

 

 話が横道に逸れましたが、今回問題としたいのは、「大学とは何なのか」ということです。

 これはとってもとっても難しいテーマで、当然一言で言える代物ではないと思います。

 ボクは高校時代、気持ちがやさぐれていて、大学受験を止めて、働こうと決めていた時期がありました。

 詳しくは、別の機会に譲りますが、結局大学受験をすると決めて、それなりの勉強を再開した訳ですが、大学に行くことが何故必要なのか、については、他人様よりは考えたような気がいたします。


 だから、こういう事件に接してみて、ボクが偶さか大学の教員をしているから思うのではなく、大学受験に取り組む過程から、ボクには大学への意味づけという課題が、ずっと背負わされていたようにも感じています。


 そんなボクが、現在取り敢えず断言出来ることは、「大学は本来、あなたに卒業資格を与える場所なのではなく、あなたの溢れる才能や感性を受け止める場所なのだ。」ということです。

 私は勉強も得意じゃないし、取り立てた才能もありません。と言う大学生もいるかもしれません。

 しかし、それでも高校までとは全く違った雰囲気や枠組みで、友達と接したり、学問と接したり、アルバイトもまた違う分野や違う時間帯で取り組んだり。。。。と、自分さえ好奇心があらば、多様な可能性が実現出来るのが、大学時代の醍醐味であることは確かです。

 そういう面で、大学生という「地位」が利用出来る場面が多彩であることは、社会人の比ではないと思います。


 ですから、上記の東大の卒業生の方が、苦労して合格させてくださり、卒業までした東大というものを、何だと考えていたのかに、どうしても疑問が湧いてしまうのです。

 何故なら、社会が教科書通りでは無いから、大学では大抵「正解の無い問題」を取り上げます。丸暗記で教科書を覚えるという世界では無いと思うからです。

 また、社会が教科書通りで無いからこそ、大学生は大学にしがみつくより、社会に接点を見つけ出そうとしているように、ボクには見えます。そして、好奇心さえあらば、そのチャンスも沢山与えられることだと思うからです。


 もしかすれば、この人は、大学も自動販売機のようにお金を入れてボタンを押せば、何も考えずに、苦労や努力は抜きにして、ジュース(期待した結果)がゴトンと出て来てくれると考えたのではあるまいか。。。とすら考えてしまいます。


 因みに、先日40歳を過ぎたボクの大学時代の同級生が、ボクも知る頭の良い(だけの)友人について語っていました。

 「あいつ、あんな自分勝手なことばっかり言って、いい歳して自分の思い通りに何でも成るとばっか考えていると、今沢山いる変な行動するヤツ等と同じになっちゃうんじゃないかと、心配なんだよな。。。。」と。


 知識も学問も大切です。それをきっかけに社会は進歩していくからです。

 しかし、それを単なる他人より上位に自分を位置づける道具なのだと、どこかで感じ始めてしまうと、ボタンを掛け違えてしまう虞があります。

 知識や学歴があるのに、思い通りに行かない。立場が上のはずの自分が、他人様から一目置かれない、等々。。。

 それは、自分をここまで連れてきてくれた知識を活用せずに、自分で自分を傷つける道具に変化させてしまったことになってしまうと、ボクには感じられるからです。


 大学であれ、職場であれ、最終的には、自分自身が周囲の状況を感じ取って、好奇心を持って挑戦してみることで、自分の世界が広がり、結果他人様も信頼してくださる、という、「舞台」に過ぎません。

 みんな自分自身を主人公の位置に置きながら、懸命に役割を果たし続ける(play a roll)ことで、その舞台を通じて多くの方々との接点を見つけていくものだと理解していれば、もっと、大学も職場も活用の道が開けるものだと、ボクには感じられてなりません。

                                雪風拝