糸魚川ジオパークの紹介139 糸魚川市街地での火災の歴史 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ

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日本で最初に世界ジオパークに認定された糸魚川ジオパークの魅力や出来事などを紹介します。

 旧糸魚川市街地は加賀藩の参勤交代の宿地でもあり、北前船の寄港地としても江戸時代から栄えた所です。18世紀(1,700代)から19世紀(1,800年代)の歴史を見ると松平家の殿様が在府時代で横町の代官所が権力を振るっていた時代です。


 この時代の癌はなんと言っても火災との闘いだった様です。糸魚川市史の第4~5巻を見ると詳細に記述されています。その続きが昭和中頃まで続いていたのですからなんとも怖い話です。


 火事の原因として、今でも煙草の不始末が多いのですが、江戸時代の火災原因の特徴に「雪隠火災」が多いことです。昔の生活では暖房と言えば炭を使用していましたが、そのとり灰をトイレ(雪隠)に入れていたようで糞灰から火災を起こす例が多かったようです。


 糸魚川はジオ的環境から、冬の季節を中心に北西方向からの強い季節風が吹き荒れます。また、年中で一番多い風向きは南風です。この南風、「北国の春」の南風とは異なり歓迎されません。地元では「じもん風」と称せられ「ジモノ」の事からきています。焼山おろしとか蓮華おろしとも言われます。

 糸魚川の火災の焼失図をみるとこの二つの方向がみられます。




 当時の火防器具もいまから考えるととてもお粗末でした。大桶の調達もままならず、手桶、鳶、はしご、のこぎり、綱・・・・江戸の火消し集団ほどは洗練されていない町の衆の集まりでした。中には大団扇(うちわ)なんて言う道具もあり、火を風で追い返すんだそうです。大きな火の時には破壊防火が常でしたので

焼け無くても壊された家もたくさんあります。水鉄砲のような龍吐水なんていうおもちゃのような火消し道具が配置されたのはずつと後からでした。いまでも消防署に飾ってあります。


 とにかく、火災を出した家は大変。手錠はもとより、寺入りと称して寺に監禁されたようです。それを許してもらうには多くの方々から嘆願書を出してもらったりです。火災の時には代官所は火元の吟味だけでなく、消火活動の働きに不届きがなかったかとか、庄屋や町の組(五人組などがありました)の取り調べ、年貢の軽減をしたり、食糧の貸し出しをしたりで権力を振るっていたようです。


 江戸時代が過ぎ、明治~昭和にかけても大火の連続でした。ですから、糸魚川には、古い建造物は残っていません。 以下に糸魚川市史の大火の表一部を載せておきます。




 昭和時代になってからも大きな火災が三度ありました。その時の焼失図があります。

昭和3 年、7年、 29年の火災の図を纏めますと次の通りです。昭和7年の暮れ、横町から出火した火災が中心市街地の大部分を焼失したのが判ります。






 昭和29年の8月駅前商店街の大火以来60年が経ちましたが、幸いな事に大きな火災がなくなりました。

糸魚川市街地の町あるきには、火災の歴史を念頭に見て頂くのがよいかと思い、今回は市街地火災の歴史をたどりました。