愛知県 名古屋 丸の内 弁護士加藤英男の弁護士日誌余白メモ

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弁護士加藤英男の日々是精進気の向くまま思いつき

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【1.日本国憲法は個人の尊厳確保を目的とする】

 

憲法は、個人の尊厳確保を最高価値とします。

 

憲法は、個人の尊厳を確保するため、すべての個人に等しく人権(自由)を保障します。

 

憲法は、人権(自由)を保障するため、国民主権を宣言し、国民の代表からなる国会を国権の最高機関としました。

 

この、日本国憲法は個人の尊厳確保を目的とする、って、しびれませんか。

法律的にいえば、憲法=国家といえるので、翻訳すれば、「日本は、国民(国民以外もできる限度で)の個人の尊厳を確保するために存在する」ということ。

 

 

 

【2.三権分立】

立法(法律を作る)、

 

行政(法律を執行する)、

 

司法(行政の行為や国民間の行為の法律適合性を判断する)、

 

の三権を分立し、

 

国民の人権(自由)が政治権力によって不当に侵害されることのないようにしました。

 

 

 

【3.人権(自由)の限界】

 

すべての個人に等しく人権(自由)を保障するということは、すべての人に好き勝手を許すことではありません。

 

そうなれば、「万人による万人に対する闘争状態」となり、社会は成り立ちません。

 

 

 

【4.独裁・専制・強権の否定】

 

それは、一部の人にだけ好き勝手を許すことではありません。

 

現代でも、一部の人にだけ好き勝手が許される国々もありますが、

 

それは、独裁、専制、強権国家であり、好き勝手を許された人以外に与えられる自由はごく限られています。

 

 

【5.人権(自由)相互の調整】

 

それでは、すべての個人に等しく人権(自由)を保障するには、どうしたら良いのでしょうか。

 

ある個人が人権(自由)を主張するとき、他の個人の人権(自由)との衝突の可能性が生まれます。

 

 

 

【6.ルールの重要性】

 

あなたと友だちが学校や公園のテニスコートでテニスをしたいと思うとき、他の人々も同じように思うかも知れません。

 

そんな時、力付くでテニスコートを占拠するより、ジャンケンで決めたり、予めルールを決めてルールに従って順番を決めたりします。

 

そうやって、みんなの権利が守られます。

 

 

【7.ルール自体の公正・平等】

 

同じように、国家レベルにおいても、みんなに人権(自由)が保障されるようにルールが定められ、守られねばなりません。

ルールが作られるとき、そのルール自体が公正(個人の尊厳に適う)、公平(平等)になるような仕組み必要です。

 

 

【8.仕組みの重要性】

 

そのためには、ルールに従う人かその代わりになる人(代表)がルールを決めるのが安心です。

そして、そのルールが正しく遂行される仕組みが必要です。

さらに、ルール自体の公正、公平性と、ルールが正しく遂行されているかをチェックする仕組みも必要です。

 

 

 

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【9.仕組みとしての三権分立】

 

その仕組みが、国民主権、三権分立です。

・立法:国民が服するべきルールである法律は、国民の代表者である国会が定める

・行政:ルールの遂行は国会の信任を受けた内閣が行う

・司法:ルールの公正公平と執行の正当性の確認を国民の中から選ばれた裁判官により成る裁判所が行う

 

 

 

 

 

債務不履行・不法行為を主張する場合、その中身を考える際に、不能犯の純粋客観的危険説を基準に考えるのがよいと思っている。

 

その理由は、以下のとおり。

 

1.債務不履行・不法行為は、損害発生に対応する客観的な損害発生の危険性に関わる要件であって、その危険性は行為者の認識に影響されないこと

2.行為者の認識は、責任判断の段階で故意過失を論ずる際に考慮すれば足ること

3.債務不履行・不法行為の客観的危険性の問題と、責任段階での行為者の認識の問題を分ける方が、攻防の対象が明確化し、訴訟経済に資すること。

3.債務不履行・不法行為として、客観的に損害発生の危険性ある行為を主張できれば、責任判断の段階で故意過失を論ずる際に、その危険な行為の認識があれば、損害発生の予見可能性ないし予見ありと推定されるので(電通事件判決参照)、訴訟経済に資すること。

前回は、次のように、書きました。

 

 

『民法では、未遂ではなく、個々の結果、個別具体的な結果(例えば、殺人を意図して、瀕死の重傷を負わせた場合には、殺人未遂としてではなく、瀕死の重傷を負わせたという具体的結果についてだけ考えれば十分である)を考えるだけでいい。』

 

 

 

だから、逆に、刑法よりも、民法の方が、「純客観的」に危険性判断ができるし、

そうしなければ、法的安定性、公平性は保てないのではないかと思います。

裁判官の判断に、一定の規則性、安定性を保たせるためにも、民事事件においてこそ、 「純客観的」であること  は強く意識されねばならないように思うのです。

 

 

昔から、民法は、所詮国民経済のこと、だから、社会通念で柔軟に、妥当な解釈を、という考えだったように思います。

 

 

刑法では、きっちり理論を論じられているのに比較して、

民法では、ぼんやりとしていて、一定の指針(動的安全重視か、静的安全重視か、とか)ある個別具体的な利益衡量がされているだけでした。

悪いことに、一定の指針の中身すら、記述されていない基本書も少なくありませんでした。

 

刑法理論が、カラヤンの田園のように、きちんと整理されていたのに対し、

民法理論は、フルベンの田園のような感じでした。

民法の不法行為論、債務不履行論では、刑法理論以上に、客観説で考えなければいけないのではないか。

客観説的に考えた方が、安定的に妥当な結論を導けるのではないか。

 

 

弁護士登録依頼、ずっとそんなふうに考えています。

何をもって、刑法上の実行行為とするべきか。

 

何をしたら、民法上の不法行為(権利侵害行為)か、債務不履行か。

 

同様の考え方で臨むべきである、とは、思う。

 

 

しかし、刑法では、未遂犯処罰を考えなければならないから、

むしろ、民法におけるよりも、抽象的、規範的に、解釈をしなければならないと思う。

 

民法では、未遂ではなく、個々の結果、個別具体的な結果(例えば、殺人を意図して、瀕死の重傷を負わせた場合には、殺人未遂としてではなく、瀕死の重傷を負わせたという具体的結果についてだけ考えれば十分である)を考えるだけでいい。

 

だから、民法での、不法行為(権利侵害行為)論、債務不履行論は、刑法におけるそれよりも、事実的、客観的に解釈、判断できるし、すべきことになる。

 

 

法律は、法律解釈は、面白い。

刑法では、犯罪行為が行われたかどうか、実行されたどうか、が、非常に重要です。

 

それは、刑法では、実行さえされれば、結果が発生しなくても、未遂犯として処罰されることがあること、が、関係しています。

 

実行の着手があったかどうか。

実行の着手があれば、未遂犯不処罰とされる犯罪を除いて、未遂犯となります。

 

 

そこで、実行行為とは何か、どの段階になったら実行の着手か、が、厳しく議論されています。

 

 

では、民法ではどうでしょうか。

 

債務不履行とは何ぞや。

不法行為とは何ぞや。

 

そういったことが、学問レベルでは、つまり、学者レベルでは、ほとんど議論されていなかったのではないでしょうか。

 

 

しかし、実務では、案外、そうではないのです。

 

例えば、裁判になれば、「安全配慮義務違反(行為)」による債務不履行責任を追及する場合、「安全配慮義務違反(行為)」を裁判官から具体的に説明させられます。

 

 

何が義務とされていたか、期待された行為は何だったか。

どうすべきだったのか。

何をしなかったから、「安全配慮義務違反(行為)」といえるのか。

 

裁判の出発点として、その部分を特定させられるのです。

 

そのことは、私は、駆け出しの頃から感じていましたから、もう、30年くらいになるわけです。

 

 

30年くらい経過した現在でも、民法の学説レベルでは、債務不履行(行為)や不法行為とは何ぞや、と、解説した基本書に出会ったことがないのです。

 

それはそれでよいのだろうか、という、疑問を、私は抱いています。

 

この出発点となる、行為論をしっかり固めなければ、裁判になりません。

学説も、実務を裏付け、リードするものでなければならないはずです。

 

ならば、民法の学説レベルでも、債務不履行(行為)や不法行為の「行為論」をしっかり議論すべきなのではないか、と。