孝霊天皇皇女 倭迹迹日百襲媛命 大市墓(箸墓古墳) | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成26年9月6日(土)参拝】

今日は雨予報も朝から晴れてたので思い切って卑弥呼に会ってきました。

正式には、陵墓名=孝霊天皇皇女「倭迹迹日百襲媛命大市墓、考古学名= 箸墓古墳なのです。

先週「孝霊天皇陵」を参拝して、次はもう一度箸墓古墳に行こうと決めてたんです!

前回のときはウォークで通過しただけでしたので今日はぐるりと一周してきましたよ。

一周してその大きさをあらためて痛感しました!

とにかくデカい!(日本で11番目、奈良で3番目、全長278m)



箸中大池側から(箸中大池はため池100選に選ばれた)




拝所は前方部、西向きに配置されてます。


                               ここの制札の文字は丁寧に書かれていて綺麗です。





倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳(生年:紀元前92年以前) - (没年:紀元前88年以降))は、孝霊天皇の皇女。『日本書紀』では、母は、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命らが、異母兄弟に孝元天皇がいる。

『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそひめのみこと)。母は、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)、別名蠅伊呂泥(はえいろね)、同母兄弟に日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命、倭飛羽矢若屋比売がいる

【名の由来】
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

【巫女としての神話】
巫女的な性格をもつ。崇神七年に崇神天皇に頼まれて、災害がつづく理由を占うと、三輪山の大物主神が神懸かりして、我を祀れば国は治まるといった。そこで崇神は、神の娘大田田根子を大神神社の神主にすると、平和になったという。崇神十年には、四道将軍の一人、大彦命がきいた童歌から武埴安彦命の反乱を予言したうえ、彼の妻吾田媛と二手に分かれて攻めてくるとも予言し、的中させている。

【箸墓伝説】
崇神紀十年の条に有名な箸墓伝説が記されている。倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。

どうも父親である孝霊天皇との年代が100年ほど合わないのですが…。
卑弥呼となればさらにそこから300年ほどズレてるし、箸墓古墳の築造年代から考えると卑弥呼説の方が理に適ってるんですが…。




いづれにせよ現在は宮内庁管理のため当分は謎のままか…www。