1975年6月8日仙酔島から出帆
耳無し船長、太平洋を渡る その4
中途失聴者 石川雅敏(福山市)
「女と一緒なら楽しいだろうなぁ」
出発の年のゴールデンウィークに四国一周単独テスト航海に出た。 気象や海況に一喜一憂。喜怒哀楽の起伏の多い航海だったが、苦労の多いのも、一人身の辛さだった。
そんな折も折、悪天候の後に訪れた快晴に恵まれた最高の帆走日和で出くわした時、ふと寂しさに襲われた。こんなとき、抱き合って喜びを分かち合う友人が居たら嬉しさも倍加するだろう。
いみじくも、ある中年の独身で著名な女流作家が、雑誌の対談で語っていた本音を思い出した。
「悲しいときは、酒があれば癒すことも出来ますが、嬉しいことがあった時、つくづく独身は寂しい。結婚したいなぁと思います」
私には、その頃付き合い始めていた彼女が居た。ゴールデンウィークでもあり、四国の南岸、足摺岬に他の友人と彼女を呼び寄せて、一昼夜の太平洋のクルージングを楽しんだ。
足摺岬から高知湾の東に突出する室戸岬へ向けて、暗闇の夜の海を灯台を目指して走り続けた。交代で舵取りをする男供に、揺れ動くヨットの中で、温かいコーヒーを入れてくれた彼女を見たとき、長年の決意に変化を来たした。
「こんな乗組員が居たら太平洋横断も楽しいだろうなぁ。」・・と。今まで、ずーと長い間、一人で渡ることのみを考えていた。勿論、冒険に共鳴して賛同して行動を共にする仲間が居なかったから、意地でも単独でやる・・と決めていただけの事だ。
急遽、シナリオを書き換えた。
彼女に熱烈に夢を語り、将来を語り、ヨットで行く太平洋横断のロマンを捲くし立てて、一緒に行く事の楽しさを餌にして掻き口説いた。
怖さを知らない者は強い。 信じる者は救われる。
やがて彼女は首を立てに振った。
ところが、ここで更なる難問が立ちふさがった。
彼女はOKしたが、彼女の両親を口説かなければならない羽目になった。要は、結婚の申し込みであるが、相手の反応は、理解できなくも無かった。
「結婚には異存はないが・・・何故、うちの娘が太平洋横断と言う危険な事をしないといけないのか、納得がいかない。行くのなら、あんた一人で行きなさい。」
・・・とは言え、二人の決意は頑なな彼女の両親を説得した。
「何故か、結婚式」
当初私は、結婚式なんかしなくても良い。アメリカへ着いて、向こうの教会で、知り合ったヨットマン等に祝福されながら、ささやかだが中身の濃い式を挙げれば良いではないか・・・と考えていた。
長い航海だ。途中で気が合わなかったら、そのまま、サンフランシスコで東と西に袂を分かつのも良いではないか・・と考えていた。これが一番すっきりしたやり方だ・・と考えていたが、母親の一言で結婚式を挙げることにした。
「太平洋横断は、失敗した人は少ないかも知れんが、成功が保障されているわけじゃない。せめて、お母さんの目の前で式を挙げてくれんか」
不吉だが、今生の別れかもしれないとの思い、母に妥協した。
出発までにおよそ一月も無かった。
出発は鞆の浦の仙酔島の桟橋から・・・と決めていた。そこで、結婚式はより近くのホテルで挙げることに決めた。
都合の良いことに、そこの社長はヨット仲間だった。
「太平洋横断・新婚旅行・・出帆」
式を挙げて、そのままの足で、目と鼻の先の仙酔島の桟橋へ行くと、仲間が作ってくれた、「石川夫妻・祝太平洋横断」の横断幕が風にはためいていた。
当時、既に、駅の新婚旅行の見送りでは、打ち鳴らすコメツトや投げかける紙テープは禁止されていた。船の出発には、そんな規制が無い桟橋で大胆にしかも華麗に演出が出来た。
既にマスコミで騒がれていただけに、乗り組んだヨットの出発式には、大勢の人々が集まり、古い桟橋が転覆の危機に見舞われた。
人々が投げかける数百本の紙テープを括り付けた二人のヨットは、一旦沖に向い、再び挨拶の為に桟橋に向けて反転し、航跡がループを描いて、やがて人々の前から消えて行った。
黒山の人だかりの中に、埋もれるようになってハンカチを振っている母親を見付けた。
目と目が合った。
「行ってきま~~す」
元気の良い大声が、泣き声に変わっていた。
ハワイ州マウイ島の新聞
福山市立石市長から託された福山特産ミニ琴をサンフランシスコ副市長に手渡す
福山市の地元新聞に載った、シスコ市長からの返礼
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以上、瀬戸内海族・石川様からご寄稿いただきました。
ありがとうございました。
蛇足ながら、「あれ?航海の結果はどうなったの?」という方は、最初に戻って
http://ameblo.jp/bcs33/entry-11445208169.html
を見てください。