2016年9月26日午前3時10分、吉田和正さんが旅立った。
10日ほど経った今でも気持ちの整理はつかないが、9年前のツアーの日記を読み返すことにした。
2007年9月、大学院生だった僕は、約1ヶ月間、吉田さんとカナダのスコーミッシュで過ごした。
吉田さんは、当時初登されて間もなかったコブラクラックを登るため、3ヶ月間ほどスコに滞在するということで、その間のビレイパートナーをブログで募集していた。
大学に進学して本格的にクライミングを始めて数年、それまでスポートルートを中心に登ってきたが、もっと広い視野で、もっと自由に、自分に見えたライン登りたいという思いが強くなり、僕はトラッドクライミングに惹かれていった。
しかし、身近にトラッドをやる仲間がいないという理由で、一歩踏み出せずにいた。
クライミングの面白さに取り憑かれ、迫り来る就職活動から逃れるように大学院への進学を選んだが、これといって将来の展望はなく、煮え切らない状態だった。
そんな折の、パートナー募集。
あのマーズの初登者、吉田和正のクライミングに触れることができる。
しかもトライするルートは当時の世界最難コブラクラック。
吉田さんとの面識などなかったが、これは千載一遇のチャンスだと思い、僕はすぐに連絡を取った。
吉田さんとの思い出は、クライミングもさることながら、一緒に過ごしたキャンプ生活が印象深い。
吉田さんは、おそらく僕が起きる3時間以上前に起床し、毎朝全身のマッサージをする。
吉田ブログでおなじみのマッサージ用小道具をはじめ、手持ち式の体脂肪計までスコまで持ち込んでいた。
吉田さんは、朝飯から大量に食べた。
長いキャンプ生活、炭水化物の摂取源として何が一番安上がりかを考えた結果、小麦粉という結論に達したらしく、前日の晩に捏ねておいた小麦粉を、朝フライパンで焼いていた。
一晩置くと、発酵して少しモチっとするらしい。
キノコに詳しい吉田さんは、カナダでもキノコを採った。
「日本の〇〇タケとほとんど同じだから、多分大丈夫でしょう。」と言いつつ、吉田さんが食べて大丈夫なことを確認してから、次の日僕にも分けてくれた。
キャンプサイトのゴミ捨て場には、使えるものがたくさん捨ててあるので、いろいろなものを拾って使った。
テントは拾ったブルーシートで覆われ、寝床には拾ったマットを重ね敷きし、キャンプ生活は快適になっていった。
吉田さんは、鍋、フライパン、ガスコンロなども拾っていた気がする。
ある時、捨ててあった欧米サイズのデカい枕(まだ綺麗なもの)を拾ってきた吉田さん。
「やっぱり枕があった方が寝やすいでしょう。でもちょっと日本人にはデカすぎるな…」ということで、ハサミで半分に切って二人で分けた。
そんなこんなで我々長期滞在のアジア人キャンプは、やたらとガラクタ(に見えるもの)が増え、相当な怪しさを放っていた。
過激な発言のイメージが強い吉田さんだが、実際はとてもやさしい人だった。
吉田さんのコブラクラックのトライは5日に1回程度だったので、ビレイに付き合ったのは数日だった。
ハングドックが長い事で有名だが、そのつもりで来ていたので、全く苦にはならなかった。むしろ吉田さんの動きを食い入るように見ていた。
ディディエが中指一本で決めていた核心は、吉田さんの指では薬指の1本で、しかも神経にかなり近い所で決めるため、力の加減が難しいらしい。
5.10代のクラックしか登ったことのなかった僕にとって理解の範疇をはるかに超えた話だったが、そんなこと構わずたくさん話をしてくれた。
僕のツアー最終日、吉田さんに1日付き合ってもらい、初めてクラックの5.11代にトライした。
Crime of Century (5.11c)
ツアーの締めくくりに11台を登って帰りたいと思った僕は、当初、同じエリアの5.11aのルートをやろうと考えていた。
吉田さんにそれを言うと、吉田さんは少し残念そうな顔をした。
一晩考え、エリアで最も目を引いた美しいフィンガークラック「Crime of Century」に目標を変えた。
トライ当日の朝、吉田さんにそれを言うと「やっぱりそうでしょう。」と言って笑った。
どうせやるなら「登れそうなルート」ではなく、自分が本当に「登りたいルート」をやれ。
今思えばこの時、吉田さんにそう教えられたのだと思う。
その日はよく晴れて気温が上がり、3、4便出すも、下部のスリッピーなスタンスに悩まされた。
日が陰るのを待って、長めのレストをとった。
ラストトライ。
下部のスリッピーなセクションを慎重にこなし、上部へ。
最後の核心でもう本当に落ちるかと思ったけど、「落ちるな!落ちるな!」という吉田さん声が聞こえ気持ちを持ち直し、RPに成功した。
(吉田さん撮影 R&S39にも掲載された。)
吉田さんは、僕がクライミングをはじめて、最初に出会ったリアルクライマーだ。
短い期間ではあるが、吉田さんと生活を共にし、クライミングに懸ける彼のマインドに触れた。
膨大な時間と労力を岩に費やし、すべてを懸けて究極に難しいクライミングを成し遂げる。
しかしその成果と引き換えに、捨てたもの、失ったものの存在もまた、僕は感じ取った。
僕の日記にはこう書いていた。
「本当のクライマーが吉田さんなら、僕は一生かかっても本当のクライマーにはなれないだろう。」
また日本に帰る直前の日記には、複雑な気持ちを、複雑なまま文章に書き留めていた。
「多くの人は現実を分かったつもりで、本当は現実を、現実と非現実に分けて、自分の知っているもの、分かっているものだけを見ているだけだ。そうなってはいけない。そうなりそうになったら、吉田さんに会いに行こう。」
それから8年と半年が過ぎた今年の2月28日、山梨県の昇仙峡で偶然にも吉田さんと再会した。
もう忘れられているだろうと思っていたが、僕の顔を見た瞬間に「あれっ!」と気づいてくれた。
吉田さんは、スクールに来ていたお客さんに「昔の友人です。」と僕を紹介し、「ソロで登ってるって聞くと、応援したくなっちゃうな〜。」と言ってくれた。
しかし僕は、吉田さんに正面向いて話せないような後ろめたさを感じずにはいられなかった。
この日、吉田さんのプロジェクト「Day Dream」のトライを、はじめて目の当たりにした。
吉田さんの登る姿は、コブラクラックをトライしていた時と、ちっとも変わっていなかった。
クライマーとは何か、プロジェクトとは何か、突きつけられる思いだった。
6月10日で途絶えた吉田ブログ。
その後、吉田さんの容態について知ったのは7月27日だった。
2月の再会が、奇跡のように感じられた。
9月26日、フェイスブックのタイムラインで、吉田さんが旅立たれたことを知った。
2月に吉田さんと再会した翌日、僕は職場に退職の意向を伝えた。
吉田さんに正面を向いて話せるように生きていこうと決めた。
9月末での退職が決まっていた僕は、吉田さんの訃報の知らせを聞いた時、既に松山に拠点を移し、新しい生活を始めていた。
吉田さんとの再会は、奇跡というよりも運命だったのではないか。
勝手にそう思っている。
これからも吉田さんと共に、プロジェクトに向き合っていきたい。
「俺はしつこいよ。」