イメージ(想像)できないことは理解できない。
「見ることは信じることだ」ですから・・・
イメージできて、それを頭の中で見なければ、分かったことにならないのだと思います。
そこで、あなたの想像力を信じて話をしてみようと思います。
あなたは、高速度カメラで移したスローモーションの動画を見たことがありますよね。
多分経験があると私は信じて話をします。
ここで、立体を移してしまう超高速度カメラを想像してください。
このカメラは宇宙全体を撮すことができます。
あなたを中心にして宇宙全体を5分程度撮影した立体フィルムがあると想像して下さい。
一コマ、一コマが瞬間の今です。
どこかの一コマの「今の瞬間」をフォーカスして見てみます。
宇宙の果てまで全ての物が止まっているのが写っています。。
これだけ見ると諸行無常ではありません。
この一こまの瞬間にはいかなる認識も起こりません。
なぜなら、認識には何らかの変化が必要だからです。
宇宙全体がストップモーションの時、感覚は働きません。
現在の今の今、「今ここ」では意識はなく無意識だけになります。
誰もそのことは知らない(顕在意識的に)という状態です。
あと、一コマ、二コマ送ったところで同じです。
感覚の閾値に達しないからです。
認識という閾値に達するには、ある程度の過去になる必要があります。
ですから、私たちが感じている今の瞬間とは、ある程度ちょっと前の過去を意味しています。
認識とは物事が一度情報化されて、つまり過去化されて初めて認識できるものです。
私たちが今と思っていることは、本当は近い過去であるわけです。
マーシャル・マクルーハンは、そのことを、私たちはバックミラーを見ながら未来に向かって進んでいると表現していました。
そして、芸術家だけが本当に今起こっていることを認識できると言っていましたが・・・
やはり、芸術家でも無理なようです。
ただ、芸術家は近い過去、最新の情報を、古い過去の情報に結びつけることなく表現する人たちのことなので、そんな意味のことを言ってっているのかもしれませんね。
生きてゆくということは情報を処理し続けることです。
身体に刺激となるものは、すべて情報です。
食べ物や、音や、知識などが外部から五感などを通じて入って来ます。
知識については、記憶の中からも「今ここ」にアウトプットされてきます。
外からの情報と内からの情報をミックスさせて処理した後に、インプットしているわけです。
たまには、外からの情報を遮断して、内だけの情報処理をしているときもあります。
思考しているときです。
思考を遮断して、新しい情報だけを処理しようと試みることもできます。
身体が今どんなモノを感じているかに集中するなどがそれです。
認識は、「今ここ」にタイムラグがありますが、身体はタイムラグなしに「今ここ」に実存しています。
本当の私たちは「今ここ」に存在していなければおかしいですよね。
そうすると、顕在意識に上らなくても承知している潜在意識が本当の私たちかもしれません。
顕在意識は潜在意識の発明品。
神様が自分自身を見たくて、私たちに与えてくれた発明品が顕在意識のようです。
だから、私たちは好奇心を持っていろいろ探求しているのですね。
この身体と顕在意識は神様から太鼓判を押されています。
思考もツールとして与えられています。
オプションで「選択の自由」もついていますが、使っていない人もいるようです。
大い活用して、楽しんで、神様に喜んでもらいましょう。
はい、私もこうして思考遊びをしています。
それではまた。
「見ることは信じることだ」ですから・・・
イメージできて、それを頭の中で見なければ、分かったことにならないのだと思います。
そこで、あなたの想像力を信じて話をしてみようと思います。
あなたは、高速度カメラで移したスローモーションの動画を見たことがありますよね。
多分経験があると私は信じて話をします。
ここで、立体を移してしまう超高速度カメラを想像してください。
このカメラは宇宙全体を撮すことができます。
あなたを中心にして宇宙全体を5分程度撮影した立体フィルムがあると想像して下さい。
一コマ、一コマが瞬間の今です。
どこかの一コマの「今の瞬間」をフォーカスして見てみます。
宇宙の果てまで全ての物が止まっているのが写っています。。
これだけ見ると諸行無常ではありません。
この一こまの瞬間にはいかなる認識も起こりません。
なぜなら、認識には何らかの変化が必要だからです。
宇宙全体がストップモーションの時、感覚は働きません。
現在の今の今、「今ここ」では意識はなく無意識だけになります。
誰もそのことは知らない(顕在意識的に)という状態です。
あと、一コマ、二コマ送ったところで同じです。
感覚の閾値に達しないからです。
認識という閾値に達するには、ある程度の過去になる必要があります。
ですから、私たちが感じている今の瞬間とは、ある程度ちょっと前の過去を意味しています。
認識とは物事が一度情報化されて、つまり過去化されて初めて認識できるものです。
私たちが今と思っていることは、本当は近い過去であるわけです。
マーシャル・マクルーハンは、そのことを、私たちはバックミラーを見ながら未来に向かって進んでいると表現していました。
そして、芸術家だけが本当に今起こっていることを認識できると言っていましたが・・・
やはり、芸術家でも無理なようです。
ただ、芸術家は近い過去、最新の情報を、古い過去の情報に結びつけることなく表現する人たちのことなので、そんな意味のことを言ってっているのかもしれませんね。
生きてゆくということは情報を処理し続けることです。
身体に刺激となるものは、すべて情報です。
食べ物や、音や、知識などが外部から五感などを通じて入って来ます。
知識については、記憶の中からも「今ここ」にアウトプットされてきます。
外からの情報と内からの情報をミックスさせて処理した後に、インプットしているわけです。
たまには、外からの情報を遮断して、内だけの情報処理をしているときもあります。
思考しているときです。
思考を遮断して、新しい情報だけを処理しようと試みることもできます。
身体が今どんなモノを感じているかに集中するなどがそれです。
認識は、「今ここ」にタイムラグがありますが、身体はタイムラグなしに「今ここ」に実存しています。
本当の私たちは「今ここ」に存在していなければおかしいですよね。
そうすると、顕在意識に上らなくても承知している潜在意識が本当の私たちかもしれません。
顕在意識は潜在意識の発明品。
神様が自分自身を見たくて、私たちに与えてくれた発明品が顕在意識のようです。
だから、私たちは好奇心を持っていろいろ探求しているのですね。
この身体と顕在意識は神様から太鼓判を押されています。
思考もツールとして与えられています。
オプションで「選択の自由」もついていますが、使っていない人もいるようです。
大い活用して、楽しんで、神様に喜んでもらいましょう。
はい、私もこうして思考遊びをしています。
それではまた。