―― 1668年 江戸時代中期 浅草寺裏 ――
「英二朗(えいじろう)――ほら、行くぞ」
長屋に住む友人の清太(しんた)が 英二朗の袖を引っ張って言った。
「あ、あぁ……」
彼は振り向いたものの、躊躇しているせいか足が前に進まない。二人は浅草寺裏の日本堤という通りに立っていた。
英二朗は、二十歳のべっ甲(べっこう)職人だ。べっ甲とは、タイマイ亀の甲羅を材料としたもので、オランダ船、唐船によって長崎に伝わり、やがて江戸にも進出してきた。べっ甲は主にかんざしや櫛(くし)に加工され、当時は贅沢な品として取り扱われていた。
年の割に若く見え、愛想の良い英二朗は長屋の人気者だ。仕事ぶりも真面目で、親方の俊一朗(しゅんいちろう)に非常に気にいられている。 宵越しの金は持たぬ [※その日のうちに稼いだ金を使い果たす] と言われる江戸っ子の気質に反して、彼は倹約家であった。
今日、彼は銭湯のかえりに長屋の清太から「今から吉原に行かねぇか?」と誘われたのだ。照れ屋で女遊びもしない英二朗のために友だちは吉原に誘ったのだが、しがない職人の英二朗に吉原で遊ぶ金など無い。
それは金物修理職人の清太も同じことなのだが。
「英二朗、なあんにも、花魁(上級の遊女)と遊べと言ってやがるわけじゃねぇぜ。吉原に入るのは金はいらねぇ」
「なんだ、素見(すけん) [※冷やかし] かい」
「まぁいいじゃねぇか。花魁道中が拝めたらありがてぇし、話の種にもなるだろう 」
そんなやり取りがあって、吉原とつながる日本堤通りまで英二朗達はやってきた。
日本堤には、武士や商人など様々な人々が行き交っている。この通りから 「五十間道(ごじゅっけんみち)」と呼ばれる吉原へと続く道を通っていく。この道は、吉原の入口が見えないように 「く」 の字に曲がっているのが特徴だ。
五十間道通りの左右には商家や茶屋が数十軒並んでいる。商家では、吉原のガイドブックを販売し、茶屋では編笠(あみかさ) [※ワラで編んだ日光、日よけの笠] を客に貸して、人に顔を見られることなく吉原に入れるようにしていた。
(いよいよ吉原が見える――)
緊張しながらゆっくり五十間道通りを抜けると、吉原の入口である「大門(おおもん)」が見えてきた。幅2.4mある黒塗りの冠木門が開いていた。
「あそこを通れば、別世界だぜ」
清太はワクワクしていたが、一方 英二朗はドキドキと緊張していた。
身分の上下も関係なく、遊ぶ金さえあれば一介の町人が大名のごとくあがめられ、もてはやされる世界だ。二人は大門を通った。するとすぐ右手に 四郎兵衛会所(しろべえかいしょ) という番所がみえる。これは吉原の秩序を維持する独自の警察機関だ。
「何だかおっかねぇ連中がいっぺぇいるな [たくさんいるな] 」
英二朗はやや脅えた目で番所の男どもを見る。
「あれの実態はな、遊女の脱走を監視する役目があるぜ 」
番所には、遊女のいる各見世(店)から派遣された使用人が十名ほど常駐していた。
「厳重な見張りだぁね 」
「逃げ出したくなるぐれぇ 遊女にとっては辛い場所なんだぜ」
四郎兵衛会所 向かいの左手には町奉行から派遣された 岡っ引き [※警察機能の末端を担った非公認の協力者] が詰めている番所がある。吉原で解決できない事件はここが扱うのだ。
この二つの番所を挟んで、中央に広い道がある。ここは吉原のメインストリート 仲之町だ。仲之町通りをはさんだ左右には 引手(ひきて)茶屋 があり、まばゆい輝きを放っていた。
英二朗は思わず息を飲んだ。
(まるで昼間のような明るさだな……)
大通りに面している遊女屋にはあらん限りのかがり火や灯篭がともされ、音曲の響きが客の心を惹きつける。
「英二朗、来て良かっただろっ? 滅多に見れねぇよ 」
「あ……あぁ……」
きらびやかさに圧倒された英二朗は正直言って良く分からなかった。清太は興奮していたが、英二朗は曖昧に返事をするしかなかった。
この茶屋は値段や遊女の取り決めをするところで、主に金持ちなど上級の客が利用する。話がまとまれば客は二階に通されてそこで遊女を待つのだ。遊女は茶屋から呼び出しを受けて、客に会うために見世(店)から茶屋へ移動する。これが 有名な 『花魁道中』 (おいらんどうちゅう) だ。
花魁道中ができるのは太夫(たゆう)クラスの上級遊女のみに限られる。茶屋で酒席が開かれ、宴が終われば客は一緒に花魁の見世(店)の部屋へ行くのだ。遊女は自分の部屋をもってこそ一人前とみなされていた。
そして見世(店)にもランクがあり、最上級クラスの見世は大見世といい、規模も大きく、浮世絵に描かれるような高級花魁がいるのだ。
「けど、おめぇ、お金のねぇ俺達はこっちだぁね 」
清太はメインストリートの仲之町から横町に入り、手ごろな遊女を選びはじめた。横町には「張見世」と呼ばれる格子のある店が並び、中に遊女が客待ちをしている。客は格子の外から遊女を選び、中を選ぶのだ。
「あの女なんていいだぁね ……でも、その隣の女性の方が器量よしだぁね …… 」
はじめから買う気もないくせに清太は遊女を批評しはじめた。張見世こちらは茶屋を通す必要がない分手間は省けるが、すぐに遊女とは遊べない習わしがあるのだ。
(客人ではありんせん……田舎から来た素見(すけん) [※格子から見てるだけの人] なんでありんしょう――)
こんな風に、孔子の向こうで客の呼び出しを待っている遊女の本音が聞こえてきそうだった。金もなく、今すぐ遊びたい客は横町をさらに突き抜けて吉原の端にある河岸へ行く。すると最も安い遊女のいる見世があるのでそこで時間を区切って遊ぶ 切見世(きりみよ) という店に行くのだ。
吉原を利用する客は大金持ちか小金持ちか二つに分かれるのだ。吉原独自の「しきたり」を重んじて、金持ちの大尽(だいじん)や遊び方を心得た通人(つうじん)と呼ばれた人々がお気に入りの妓と小粋な会話を楽しみ、そして性欲を発散し、極楽を謳歌して大門をくぐり、元の日常に帰っていく。
「やっぱり俺には縁遠い場所だっからよ……」
英二朗が清太に「帰るぜ」と言いかけた時、大通りから賑やかな声が聞こえてきた。
「花魁道中だ! 英二朗、見ようぜ!」
「ああ……」
(上級遊女が見れるのか――)
無意識のうちに大通りへと足が動いていた。
「あすらん太夫(たゆう)だぜ! 」
「どこだ、どこだ! 見せろ! 」
「おい、押すなよ! 」
メインストリートの仲之町通りの両脇には沢山の見物人と、交通整理をしている番頭でごった返していた。七~八人の集団が遊女部屋から引手茶屋までの間を移動していた。
遊女屋から提灯を持った若い者 [※店の男達] が先に立ち、15-16歳の遊女見習いの 振袖新造(ふりそでしんぞう) が二人、中央には花魁、その両脇に 禿(かむろ) [※雑用をする10歳前後の少女] 、傘持ちの男衆、後ろに振袖新造を二人従えながら歩いていた。
英二朗は集団の中央にいる花魁の美しさに目を奪われた。
「この世のものとは思えねぇ美しさだ……」
吉原一の上級太夫、 阿栖蘭(あすらん)は 艶やかで妖しげなうすい緑がかかった瞳を持ち、男を惑わせる不思議なオーラを持っていた。
あすらんの結う髪型は西洋と和が融合された新しい髪型で、それが浮世絵に描かれて評判を呼び、江戸市内の女性はこぞってその髪型を真似たほどだ。彼女は当時のファッションリーダーだった。男性ならずとも女性をも虜としていた。
髪には当時、ぜいたく品とされていたべっ甲のかんざしを左右三本ずつ、都合六本指している。櫛もべっ甲の大ぶりなものが三枚もさしてあった。
あすらんほどの最上級の遊女になると後ろにもかんざしを左右三本ずつさしていた。その他、笄(こうがい)と呼ばれる髪飾り、銀かんざしなど総計十本以上もの髪を派手に飾っている。江戸庶民から見たらどれも手がとどかない高級品だ。
(親方の店でも、あれほどの数のかんざしをさすお客さんはいねぇ)
着物は、高級な打掛(うちかけ)を二枚重ね着し、上の打掛は絹織物に金襴緞子(きんらんどんす)の刺しゅう入りのものを優雅に着て、襟は花嫁衣装の時に使う高級な布の白綾(しらあや)を用いている。
打掛の上から結ぶ帯は、錦緞子(にしきどんす)を使い、前結びにしてそのまま垂らしている。まさにあすらんは女性の願望をすべて満たした格好をしていた。
「すげぇなぁ――。でもあれらの調度品はすべて遊女みずからの金品でまかなうんだよ」
「え? 見世(店)が支払うわけじゃねぇのか ? 」
英二朗は驚いた。
「反対さ、遊女は見世から借金して自分を着飾ってやがるのさ 」
「遊女の意地か、金持ちの贔屓があればいいだろうが、それがねぇ遊女は借金で、えれぇ[※大変] だろ」
男達はあすらんの若さと美貌、官能的な雰囲気に魅了され、見とれていた。そして顔や体つきだけでなく、彼女の高下駄に注目している連中が多くいた。
高下駄とは 歯が一本の「一本歯下駄」のことで、高さは15cmほどある。これを履いての外八文字(そとはちもんじ) [※吉原遊女の歩き方] をするにはかなり修練が必要で、美しく八文字を踏めるようになるまで三年かかると言われる。もちろん道中で躓いたり、下駄を外したりすることは大変な恥とされる。
気位の高いあすらん太夫はニコリともせず、むしろやや冷めた表情で外八文字で歩く。その粋でキリッとした凛々しい歩き方が、男どもを虜にするのだ。
その時、見物人の誰かが後ろから押してきて、英二郎は行列の最前線に突き飛ばされてしまった。
「うわっ……アイテテテ……」
あすらんは自分の目の前に飛ばされてきた英二朗をチラリと見た。
「……」
「あ……」
英二郎は呆然として あすらんを凝視した。
(なんて綺麗な緑色の瞳なんだ……)
それはほんの一瞬の事で、あすらんは何事もなかったかのように視線をそらして歩き出した。だが、それが二人の運命を変えることになった。
おはようございます!らぶばなです。拍手ボタンからメッセを下さった方へのお返事は、昨日の記事のコメント欄に書いておりますので心当たりのある方はご覧くださいませ(^^)
さて、今回は江戸時代中期を舞台に、花魁の阿栖蘭(あすらん)と江戸職人の英二朗が吉原遊郭で出会うまでのストーリーを書きました。(前世のお話なので、それぞれ名前&漢字を変えています。)
説明が多いので読み疲れたかもしれませんが、吉原がどんなところか少しイメージできましたか?あすらんを通じて遊女の実態も今後載せていくので、より感情移入して読めると思います。
あすらんは男女問わず大人気のようです。カリスマ的なクールビューティーで、ファッションリーダーでもある彼女の性格や内面はどうなのでしょう? そして人気者のあすらんに一目惚れをしてしまった英二朗はどうするのでしょう? 次回以降少しずつ明らかになってきますよ。
コメント・ご感想・ご意見は、記事の右下(なうで紹介・mixi チェック・ツイートする 各ボタンの下)に 「コメント」があるのでそこからお気軽にどうぞ。ぜひこのパラレルのご感想を頂けたら嬉しく思います。
メールマガジン 配信中
(無料) ⇒ ブログでは語りきれないバナナ魚