プロ野球<舌口球> -2ページ目

プロ野球<舌口球>672回

名監督の恩師

 現役当時の落合博満や福本豊など、懐かしのスーパースターたちのサインボールを整理していたら「あっ、そいえばこの2人は・・・」という、あることを思い出した。それは広岡達朗(西武監督当時=写真左)とドン・ブレイザー(阪神監督当時=写真右)のボールなのだが、だからどうしたの? 

 話はずいぶん遡るが、1958年、長嶋茂雄(巨人)が本塁打王、打点王、新人王に輝いた、その年の秋、セントルイス・カージナルスが来日した。そのとき巨人の遊撃手・広岡は、その中の一人の内野手に釘づけになった。

「一人の選手のプレーに目がとまると、私の背筋に電流のようなものが走った。〝これだ!〟と思った。彼は二塁手で一番打者だった。生真面目で闘志満々。練習から試合まで、この二塁手の一挙手一投足から目が離せなくなった。”なぜあのような堅実な守備ができるのか〟私はその秘訣を何とか盗み取りたかった。ある日、はたと気がついた。前途がパーッと明るくなり、それまでの長い苦悩の日々がウソのように消え去った。〝守るのがこわい〟が〝守りたい〟に一変したのだ。流れるように連動した送球とフットワークは、投手が投球動作に移ると同時に守備態勢に入る。そのタイミングと構え方に源を発していると、その秘訣を発見できたのだ。守備もバッティング同様、周到な準備をしておくことが必要なのである。これがわかるとわからないのが、プロとアマの差といえるくらいだ。それ以来、私の守備に対する不安とスランプは解消した。私の恩師となったその大リーガーは、南海や阪神などで選手、コーチ、そして監督として活躍した、あのドン・ブレイザーである」(広岡達朗著『意識革命のすすめ』=講談社)

 ブレイザーが南海の助っ人としてやってきたのは1967年。現役生活は3年と短かったとはいえ、その後にコーチを経て、阪神、南海の監督もつとめた〝野球博士〟でもあった。野村克也が南海のプレーイング・マネジャー就任承諾の条件は「ブレイザーをヘッドコーチに」だったことはよく知られる。つまりブレイザーは野村にとっても恩師だったというわけだ。

 さて話は戻るが、1954年、15本塁打67打点、打率・314で新人王、ベストナイン、監督当時に正力賞2回で殿堂入りも果たした広岡達朗氏だが、最近、某雑誌のコラムでこう記している。 

「2月9日で私は89歳になった。89歳といっても、私は自然に逆らわないように生きているだけだ。自分の好きなことしかやらず金持ちになって長生きしたいというのは虫がいい。人間、生まれたら死ぬ。ならば、人が喜ぶことを積極的にやることが大事だと思える年齢になった。最近の私は家事を手伝っている。家内が骨折してリハビリを強いられて以来、やらなければいけなくなった。買い物、炊事、皿洗い。そこで改めてわかったのは、女性には家の中でやるべき仕事が山ほどあるということだ・・・」

 あとは省略するが、とにかく同氏が健在であることは何よりだ。そういえば、同氏と同じ2月生まれの長嶋茂雄巨人終身名誉監督も20日で85歳になったが、こちらも元気なのは嬉しい限りだ。なお、ブレイザーは2005年4月13日に亡くなっている(73歳)。