聞くところによると | 大石眞行の玄学ライフ

大石眞行の玄学ライフ

大石眞行が占いの観点から日常を観察します。

10月から吉祥寺の占いスクール「カイロン」さんで
四柱推命上級と九星術初級の講座を
やらせてもらっている。
月に一度の講座なので先月一回目を終えて
今月これから2回目の講座がある。
聞けば、2回目からの受講生が数名増えたとのこと。
ありがたいことである。
通常、このような連続講座には
歩留まり率というものがあり
立ち上がりから徐々に人数がこぼれていくのが
普通なのだが、なんと今回は増えたそうである。
ま、これはカイロンさんの
日ごろからの真面目な運営方針のたまものでしょう。
プラスアルファとして、うれしかったのは
真正な九星術へのニーズがちゃんとあるのだということ。
九星術くらい誤解されている占術も珍しいのではないか
と常々考えているのだが
実は九星術はとても肌理の細かい恐るべき占術なのである。
さて、今月は暦法論ですな。
年月の九星でお茶を濁しているのなら
暦に対して何の問題も疑問もないだろうが
我々のように日時の九星を多用するものにとって
暦が分かっていないのは致命的なのである。
そのあたりを、とくとご説明しようと思っている。

ちなみに九星ばかりでなく四柱上級もやってるのだが
こちらは初級・中級を経て、やっと皆さん待望の
実践鑑定論に入っている。
分析・読み取り技術にも磨きをかけるのは当たり前だが
鑑定とは徹底してアウトプットの作業なのだから
分析に比例して表現力も身につけなくてはならない。
また同時に言っていいことと悪いことを弁える必要がある。

外科医の世界ではよく、鬼手仏心という言葉がつかわれるが
私は占い師は鬼眼仏口あるいは鬼視仏語であるべきと考えている。
鬼のように視るとは万に一つも予想される凶を見落としてはならないということ。
もちろん、見落としはすべてまずいことなのだが
吉を見落とすことよりも来るべき凶を指摘できないほうが被害甚大である。
したがって鑑定時には凶の見落としがないよう
鬼のように、あるいはあらさがしをするかのように
凶を見つける。
但し、自分が見つけたことをすべて口にしていいかといえばそれは別問題。
語る口は仏でなくてはならない。
依頼者本人が知らなくてもいい恐怖を指摘し
かえってそれ以降のその人を委縮させてしまうとか
その人の可能性を閉ざしてしまうようなものは鑑定とは言えない。
それは術者の自己満足以外何物でもない。
或いは同じ内容でも言い方で全く影響力が異なるということ。
魚屋店頭にて
「この魚、活きがいいよ!
さっきまで生きていたんだから!」
というのと
「この魚活きがいいよ!
今死んだばっかりだから!」
というのは同じ事実を説明しているのだが心理的効果はまるで違う。
要するに

頭の固いやつはダメだということ。

こんなことも実践では必要になってくるわけです。

プロとオタクは違うのだよ!