大石眞行の玄学ライフ

現実に使える占いを追究する玄学舎。その主宰である大石眞行が占いの観点から日常を観察します。

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今日は玄学舎の紫微講座と手相講座。
紫微も随分長く時間をかけてきたけれど、その分、じっくりと骨太の紫微論理が形成されてきてうれしい限りである。
本日も、盛りだくさんではあるけれど、大事なのは前のブログでも触れた禄存の応用法。
実占鑑定ですぐ役に立つし、深く理解すれば多くの別の技術に到達しうるとても重要なポイントの講義でした。
いやあ、紫微斗数も面白い。受講生の皆様方は紫微イレクション、いろいろと実験してみてくださいね。
相術は全て見たままの世界というのが一つの売りですが、やはりその裏には勢いが形を作るという原理が働いています。この場合の形は、「かたち」というよりは「なり」と読んでもらったほうが適切かな。
階差数列とフラクタルという異なる原理からなる2種類の〇〇法。
その面白さを十二分に感じてもらえた講義になっていれば本望ですな。
さて、明日は奇門遁甲じゃ。
語りたいことは山ほどあるが、、、、ね。
それにしても、占いは面白いなあ。

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よく「宿命」と「運命」という言葉を使い分けて、「宿命は変えられませんが、運命は変えられます」などとノタマウ。
これは言葉の定義にもよるのだが、まあ、違いますね。変えられるのは人生であって、命や運ではない。
大体この論をなすものは、命と運という概念を前提にしていることが多い。
命というのはその人の命(いのち)の質そのそのものだ。私、あるいは、あなたという(他の誰とも違う)イノチ、それが命である。
生まれた刹那のあなたも、今を生きているあなたも、同じ命である。途中で誰か別の人に入れ替わったりはしていないでしょう。それが命。
だから、自分探しと称して、今の自分なんか本当の自分じゃない、本当のあたしは、もっと素晴らしいはずだ。と、ウロウロするのはご自由だが、私にウソも本当もない。
命は生まれたときから命、長所も短所もひっくるめて全体丸ごとで、私であり、あなたという命だ。
だから命を知る、己を知るという行為はとても大切なことなのだが、多くの自分探しとやらが、くだらないと思えるのは、命の一部だけを突っつきまわして、次の運という視点が全く欠如しているからだ。
運とは狭義には時間のめぐりである。命はイノチそのものだから、あなたに関するすべてが詰まっている。ただ、これを人生の中のいつ、使えるのかという時間的制限がある。まあ、才能開花、欠点露顕のタイムスケジュールである。これが運。
運とは時間なのだから、人間風情が時間の流れを変えることなんかできるわけがない。
今年が辰歳だということは、来年は巳歳になる。これが運の流れである。
いや、私は潜在意識(信念でも念力でもイワシの頭でも何でもいいですが)の力で来年を午年にしてみせるという人が意外に多い。
出来るもんならやって見せてほしい。
これらは発想というか、そもそも命と運のとらえ方が根本的に間違っているわけで、変える変えないという土俵に持っていくことがすでに間違いなんですよ。
正統な術者なら「立命」といい「開運」という。命を変えるのではない。命を立てるのだ。運を変えるのではない。運を開くのだ。
この理解の上に立って初めて、よく言われる「一命二運三風水四積陰徳五唸書」という言葉が生きてくる。
命は活かすもの、運は乗りこなすものだ。それができた人だけが人生を変えられる。

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ちなみにタイトルの「節」は「セツ」であって「ふし」ではありません。為念。
新暦5月の節は立夏。
前日までで春が終わり、立夏からは文字通り夏が立つ。つまり夏が始まる。
毎度言っているように現在流通している暦(定気法によるもの)だと、今年の立夏は5月5日11:20だったらしい。
しかし、私が採用している恒気暦だと5月7日13:38となる。
もうすぐだ。
一昨日から昨日の嵐は、私には春の節分の嵐に思える。西と東ではもちろんタイムラグがあるが、台風一過のように本日は晴天なりである。
ちなみに私が恒気暦を採用しているというのを、なんか他の占い師と差別化をはかるために奇をてらって珍説を唱えているように思う人が意外に多いらしい。
項羽ではないが、まさしく「愚や愚や若を奈何せん。」である。
(この高尚なギャグ、わかる人だけ笑ってください。)
四柱推命の歴史を正確にたどることは難しいが、中国が定気暦を採用したのは明確である。それは清の時憲暦からである。それまでは恒気暦であったということだ。
ただしこれに対し、定気の考え方はすでに隋の時代からあったと指摘する向きもあるようだが、こと四柱推命に限って言うならば、『淵海子平』中に「論截流年節気日時刻数要訣」と章がある。
これは明らかに恒気法により節気を求める秘訣となっている。
四柱推命において、『淵海子平』記載の事実を無視するという暴挙に出ない限りは、四柱推命が採用していたのは恒気暦であることが分かる。
暦占術において、暦はハードであり、占術理論はそのハードの上で動くソフトである。
恒気暦というハード上で稼働していた四柱推命というソフトを、定気暦という別のハードの上に乗せてみて、まともに動くと思える頭のほうがどうかしている。
しかし、時憲暦採用以降、このことを問題にした推命家は、私が知る限り存在しない。
それは日本はもちろんであるが、中国においてもである。
実際に現在、台湾や香港から輸入される万年暦もすべて定気暦である。
暦法研究も地に落ちたものだ。実際にこの差異が問題となるのは節入り前後の数日間なので、見て見ぬふりをしているのであろう。
実占で、その近辺に生まれた方々を何名か鑑定すれば一目瞭然であろうに。
てなわけで、理論的、実践的両面の根拠から、私は恒気暦を採用しているのである。
ただし、定気暦採用以後に理論に大改革が加えられた占術ならば、定気暦で占いをすることは全く問題ない。ハードの変更に伴ってソフトを改変したことになるからだ。
暦を使うからといって、すべての占術が同じ暦を使うわけではない。
極論を言うならば、占術ごとに暦があるといってもいいし、暦ごとに占術があるといってもいいだろう。
その違いは決して学問上の優劣ではない。実占上の、俗にいえば当たるか外れるかの違いとなってあらわれてくるものだ。
ということで、夏だ!

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