そっちのカウントダウンは、何秒前? 2006-12-27 20:20:20  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
昨日のことだったか? 
明け方ちかく、佐渡では震度4様の地震 もあって
今日なんて、正月を通り越して梅雨時期みてぇな天気で 
気分はツェッペリンの “Rain Song ”か、(午後は晴れてたけど)
ドクター・ジョンのZu Zu Mamou        15曲目ね。)
   
   
 
  Dr.John Sun Moon & Herbs  
   
…どうでもいいけど、
あの曲が使われていた映画『エンゼル・ハート 』では、よくもまぁ、
人間が簡単には言葉や音には表現できないような、
人間の心の奥底に絡む、…湿地帯とか熱帯雨林のジメジメ感を
見事に表現してたよな。
黒魔術っちゅうか、VOODOOの不気味さを美しいまでに演出してたし。
   
なんかよくわかんねぇかも知んないけど
今日はそういう一日だった。
“ズズゥー マァウゥー” …。
   
江戸時代までは、陰陽のバランスをうまく描けなかった平面絵画でも
世界に名を残した北斎さんとか歌麿クン? 
そういう日本には古代壁画というもんも、あんまりないように思うけど
今の、21世紀を迎えた この人類では 
たとえばヨーロッパでは、旧い時代から、
人物画のデッサンや肖像画にも、風景画、静物画にも 
巧みなまでに光と影のバランスが描かれたモノが多い。
でもなぜか、日本の歴史の中には少ない。
893サンの刺青には別な意味で奥行きを感じるものの、
東照宮の天井絵を観てみても 
永谷園のお茶漬けに付いてた東海道絵巻のカードを見てみても 
正月に乙女のみなさんが遊んだ羽子板とか 
凧に描かれた絵やコイノボリにしても 
昭和テレビ時代の幾つかの、子供向け漫画アニメにしても。
おまえら、ちゃんと眼で見て描いてんのか? 
というほど、想像図っぽいもんが多いんだよな。
遠近感とか、等角投影、斜投影とか…んまぁ、俺は美術評論家でもねぇし 
彫刻家や美術建築家でもないので 
そういうことの意識格差(?)が、
ここ数千年の歴史上に在る日本人とゲェ国人の間に
なんで生じたのかは知らないけど …そこは、あまり深く考えない。)
日本の映画やドラマと欧米諸国の映画の中にある“ヒトの芝居”演技や演出にしても 
奥行きや影と光がハッキリしたモノと、平面的で薄っペライもんと… 
黒澤映画や市川昆監督の手法はともかく、
どちらかというと、平面的な奥行きのなさが目立つ芝居をしてしまう役者さんや 
そういう演技をすることに慣れてしまった演技者の芝居映像を撮ってるようなのが、
撮影隊の各社や台本作家の意識の中にも多い・と思う。
今もって、日本人には。
流行りコトバとか、ブランド品とか、流行のネタや音楽で 
役者そのものの奥行きのなさをカヴァーしているようなドラマのつくりってのも
美術的にアソビが多かろうと少なかろうと
スポンサー企業の望みに主張率が …視聴率がどうあろうと、
そういうテレビドラマに限らず、
映像ってのは静止画像にした時にも、どこかに光と影の奥行き…
そういう存在感がハッキリしてた方が、
次にその一つ一つのフィルムのコマを送って観たときに
スンゲェ違いが出てくるわけ。
って、俺にもし、何か芝居をやらせてみたって、
そんなに上手なワケでもねぇんだけどさ。
いつもながら、かなりの偏見じみた云い方だけど
その点、三國のお父さんとか、
遠藤憲一 さんや真田さん、奥田さん(ほか略)の芝居とか 
三池監督や堤監督の撮る映画の中では、センスよく 
人間の光と影のバランスが巧く獲り入れられている作品が多い。
ハリウッド映画と比べては申し訳ないけど
日本人には日本人なりに、日本人にしか表現できない、
人間の奥行き、影と光の部分。その組み合わせがある(はずな)わけ。
赤いキツネのオッサン とか、同じスタジオで録ってる中華料理屋のオバサンとか、
どんなにキャリア豊富であろうと、ああゆう人達の芝居みてると
ちっとも奥行きや陰陽のセンス、バランス、タイミング…を感じないわけ。
わりぃけど。 俺はな。)
だから、ハッキシ云って、つまんない。もう。
歌手は歌手。役者は役者。芸人は芸人。悩みごと相談は悩み事相談。…。
芸能界にもハッキリとした区別。整理整頓が必要だな。そろそろ。
ウィークエンダーの
「新聞によりますとぉ~♪」
の、“ひと枠の担当者”が 
ゴルフ三昧の演歌歌手のように、
いつまでも貴重なゴールデンタイムに君臨してては面白みがない。
そういう、『オキマリ・お約束ドラマ』をリアルタイムに観て 
「ああ今日も見たよ、安心、安心…」なんて思ってられるような人も
今はまだ日本人には多いかも知れないけど 
まぁ、そのうち、医療も教育も今よりもっとメチャクチャになる時期が訪れると 
そういう呑気なことはやってらんなくなるよ。
誰が?って、あなたではない。あなたの隣の家の方々のこと。
まぁ、そういうことにしとこう。今日はな。
   
んで、そんなこたぁ、どうだっていいんだ。
ずずぅ、まぁう゛ぅ~
   
あの映画では、
ミッキー・ロークとデニーロさんが 
ロバタ焼き屋の店員とホロ酔い加減の客の自然なやりとりのような演技で(?) 
人間の精神の光と影を操る悪魔の存在が巧妙な手法で描かれていた。
観たことがない人もいるかも知れないけど
あの傑作の映像としての美の部分。どこをとっても申し分なく、見事なタッチ。
しかもタイトルが『天使の心』だぜ。もう、たまんない。
神仏混合、宗教ゴッタ返し混ぜっ返しの日本人には
ゼッテェつくれない代物だ。 
(単なるサスペンス・モノではないので、フツーの人は気味悪がるかも知れないけど。)
して、あの中で雨のシーンに使われていた音響効果もバツグンだぜ。
ジョニー・リーブリングという名の歌手による旧いレコードなのか?  
とにかくねぇ、恐ろしいけど美しい。
血なまぐさい映像も多いけど、大人は観ても大丈夫…と思う。
んまぁ、クスリ増すも明けたことだし、
舞台が50年代のニューオーリンズということもあって
黒っぽい音楽好きの人にはいいかもな。
   
ちゅうことで、
巷からやってきた男 は、 …ちなみに、甲斐バンドの港からやって来た女 のモジリ。)
実は、人の世に融け込めず、シャバに馴染めない男なんだけど 
シャバ…巷のみなさんが、日本人文化としての21世紀のクリスマスを
幸せに過ごしている間に、んまぁ、肉体的にも精神的にも 
いろいろと変化・変容があった。
べつに、たいしたことはやってない。
人間の魂の役割や、人類の肉体構造の基本への理解を
さらに深めて(?)、ちょっとだけパワーアップの秒読み段階にあるだけのこった。 
   
人間には、様々な宗教などで言う…言われてきた、ところの
あの世とか、天国とか、極楽浄土なんてもんがないことが判った。
そして、人間社会の階級には、教育常識によって捏造された嘘の階級と
本来の、一人一人の人間の魂に潜む能力(…わかりやすく云うと潜在能力による、
人類の階級が確実にあることが見えてきた。
一人一人の人間には、この世に肉体を持って産まれる以前から、
この地球上で生息して何をする目的があるのか? 
どこでどのように、何に必要とされ、生かされるべきなのか? 
それは、そういう役割は、
個人個人が、それぞれの魂の中で既に完全に決められている。
自分の人生を本来の自分として、
与えられて備えられた肉体を使って、まっとうできねぇと…
…先天的なモノは別として、たとえ、生後から今日までの間に
怪我や病気を患っていたり、
その肉体に何らかの支障や障害…故障箇所があっても・なくても…
その生涯を人間として前向きに満足に生きられなかった場合は、
見栄や体裁、必要以上の知識や学識・経済・美貌…に拘ってる人も、
臓器移植をやった人もやられた人も、そこへ携わった人も、
もうねぇ、自殺した人なんてのは、とくに、
次に、人間として、ちゃんと蘇ることなんてできねぇしさ。
自然界の取り決めに叛逆的な人ってのは 
まずもってして、自分で自分を救えないし、たとえ死んでからも、
正常な寿命を迎えられない状態にまで、自然の摂理から外れるとだなぁ、
もうとんでもない。…いま生きていることより、もっと苦しい苦しみを待ち受けることになる。
具体的には後日、明確に記す!
とくに今の、この時代の、この国の中に生きてる日本人のほとんどは。
ヤバイね。
自分で自分を救えないんだから、神も仏も救わない。
宗教では無理があるし、そこいらの哲学では悩む一方。
どうすりゃいいか? 
自分で自分を救えやいいんだ。
気づけばいいだけのこった。
本来の自分自身に。
そうすりゃぁ、自分が犯罪と背中合わせに生きたり 
不幸のどん底に陥ってしまい、あるいは、
そう思い込まされてしまうようなこともなくなってくるよ。
   
わりぃけど、俺はもう、ひと足さきに見えてきたよ。 誰もアンタと競ってない! 
・・・・。 
そうだ。それでいいんだ。
まずは、自分と他人の区別・判別ができりゃぁいい! 
オレは自分が誰だか知っているぅ~っ!
あの映画 の中で、ミッキー・ロークも、そう叫びながらも 
自分が誰だか、何者だかが判らなくなっちまった。
そういうラストシーンだった。
水は法縁の器に従い、人は善悪の友による。
ってことだ。
自分と他人の区別。肉体も心も。病気も怪我も。生と死も。
すべてが、絶対に逆回転はしない地球の自転と公転に関わって
すべての光と影の恵みが、今日の己を一人、この世に生かしている。
平面的な仮想的現実世界の常識に埋もれてんなよ。
いつか必ず代償を払うべき時が来る。
まぁ、そういうこった。
…確かに、俺の言葉ではない表現も多い。
でも誰のマネをしてるわけでもない。
俺は俺。
俺自身の心の中で確かなモノをつなぎあわせてるだけだ。
これも、…あんまり…巷ではやってる人も少ない…よな。
単なる日記だけど。
   
んで、こんなこと書いても、まったく意味の通じないヒトも多いと思うけど
このブログを書いている俺という野郎ではなく、
書いてある内容に、なんらかの興味を抱いて読んでいるヒトには
それが少しずつ少しずつでも、今後は
自分自身が何なのかが判ってくるように書いてゆく。
たとえば、最近では、流行り廃りのブログサービスにものっとって…
   
    ニューオーリンズのみんな  
    http://scrapbook.ameba.jp/neworleans-today_book/
こういうテーマ もつくってみた。
誰かの何かの確認と、本来の己に気づくキッカケが摑めるために。
   
まぁ、どんなことにもそれなりに時間がかかる人もいて、
自分の過去の何かをひとつひとつ確認しながらも、
割とスムーズに問題解決に至る場合もある。
既に、かなりの状態にまで、
今の自分が自分として何者なのかが解ってきた読者(?)もいる模様。
ありがたいことに。
アホな内容も多いけど、書いている俺としては、とても励みになってます! 
でもね、俺がやったとか、俺が仕向けたわけじゃないよ。
今の俺にはそんな、ヒトを変える影響力なんてないし、
これは単なる日記だ。
想い出噺も多いし、身勝手な考察や偏った解釈もいっぱい。
世間の常識に疑問を残す意味でもな。
だから、俺自身は影ばっかりで、陽の当らない場所にいる。今も。
でもいいの。…そういう役割なんだろうな、たぶん。今んとこは。
俺自身の個人的な…過去に自分が体験したことや肉体的な問題についても 
まだ誰にもマトモに話したことがないことも、
このブログどこかに色々と書いてもあるけど、まだあるよ。
「普通はないよ、そんなこと。…でしょう?」
というほど、妻にもまだ話したことのない事実もある。
そういうこともすべて、恥も外聞もなく書いて公開する。
すべて吐き出して、その方がいいんだ。
「こんなこと言ってしまって…。どうして? なんで?」
ということも、人によっては、
「なんてことねぇよ。」
という問題でも、誰にも云えずに、ずっと一つのことを引きずったまま、
悩み苦しんだり、何かを憎んで生きてる人もいる。
…いや、今の時代はもう、そっちの方が多くなっちまった。
そのために、自分を自分で救えないんだ。
だから、どっかの宗教で信心してみたり、
他人の知識の断片や何かの『本』のネタに浸かって、“今の自分”を誤魔化したり、
何かのクスリに頼って、本当に解決すべき問題から逃げるように仕向けられてる人もいる。
やってるのは全部、自分だ。他人が擦りつけてよこした苦しみじゃない。 但し、一部の犯罪被害を除く。)
それじゃぁ、もう疲れたんべよ。独りじゃぁな。
いいよ、そのまま生きてて。
俺がなんとかするわけじゃねぇけど、自分でなんとかできる。
他人ではない。既に自分が持って産まれた能力で、自分を自分でなんとかできるわけ。
よかったね。
俺も。あなたも。
でもねぇ、第三者の未来ってことになると、ちょっと難しい。
ここは課題だな。
自分の子供の未来は、どうなるか解らない。
まったく不透明、視界不良。不安でいっぱい。
自分は自分でどうにかできるのに、他人のことは、どうにもならない。
これはねぇ、ちょっと哀しいよ。
ちょっとどころか、スンゲェ哀しい人もいる。子供がいる人とか…。
だからまず、自分で自分を救えないとな。
「自分さえよけりゃいい」って人でもいいよ。
他人に迷惑をかけないんならな。
他人に迷惑をかけるようでは、何も救えない。
開き直るヤツはもってのほか。
そういう人はもう、男でも女でもないかも知れない。
…って、これはちょっとキツイ云い方かもな。すまん。
でもそうなんだよ。
自分と他人の区別には、しっかりとした男と女の区別も必要だ。
立場とか権利じゃねぇよ。そんなの二の次。
…大丈夫だよ。
肉体と魂は既に統合されてる。
この世に命がつなぎとめられるまでのカウントダウンには、
解脱も瞑想も幽体離脱も
精神安定剤も必要ない。
ましてや教育や学識の勉強や努力はいらない。
唯一、己に気づくための資格があるとするなら、
それは、正真正銘の人間であること だけだ。
   
   
ああ、腹へった。
何か喰ってくる。
食卓で。
家族と。
   
じゃぁな
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   つづく。 ☞ http://ameblo.jp/badlife/entry-10022541083.html