イエロー・ページについて。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
sub title : 「街角のCD無料配布」を発案し、解放運動を目論む反体制派のバンソウコウ男とイエロー・ページ
"CD free distribution of the street corner" is conceived, and it is Bansoucou a man and Yellow Pages of dissidents who plan the liberating movement.    
   
   
   
   
う~ん、こりゃぁ参ったぁ。
哲也さんのサイトに俺のことがたくさん書かれてしまっている。
しかも、このサイトを紹介してくれてしまっている。  (2006年5月26日付け)
       
http://home.p02.itscom.net/fighting/    “おれのたわ言”コーナー
別に まずかぁないけど、ヤバイ。
   
俺がなぜ、あのページを「イエロー・ページ」と呼んでいるのか。
かつての電電公社。今の日本のNTTという企業が全国で、
電話加入権を持っている人に無料で配布している『タウン・ページ』というものがある。
あれは、アメリカ社会に浸透している電話帳を真似て作られたモノだ
街頭の公衆電話にも、バーも、クラブにも、街並みの至るところ、
『イエロー・ページ』と呼ばれる電話帳がある。
庶民の手垢で汚れ、ボロボロになってるし、決してキレイなモノとは云えない。
ただ、旅先の自分の行き先が、どこか判らない時とか、
誰か人を探す時など、とても重要な資料になる。
いわゆる電話帳。住所も番地も明確に公開されてる。
探す人のために…。
   
キース・リチャーズがソロで歌う曲に、“Thru And Thru ” という曲がある。
数あるストーンズのアルバムの中で、
しいて、いちばん好きなアルバムはどれかというと、
俺は、『Voodoo Lounge 』と応える。
13秒間の間をおいてボーナス・トラックが15曲目にあったけど、
本来は、その14曲目がラストナンバーで、今も世界中に発売されている。
    
   Thru And Thru                                          
    
ブルージーなバラード。
曲そのものは、一見、男が女を想う切ない恋愛感情をテーマにしているように思えるけど、
実は、それだけではない。
   
ちょっと反則的な話だけど、
あのアルバムが仕上げられるまで、あの曲が何回も歌い込まれた事実が、
ブートレグの中に何テイクか残されている。
そこから察するところ、何度も何度も歌い込み、
納得のゆくモノだけが、6分間の歌として、アルバムのラストに飾られた一曲。
   
歌詞の終わりの方が、一転して妙な言い回しで終わる。
それは、世界中のファンに向けて、
キース・リチャーズが語りかける温かい思いのように感じとれる。
   
「暮らしの中で何かあったときは、
いつでもオレたちの演奏を聴きにきなよ。
待ってるぜ…」
と、 歌詞の対訳ではない
そう云わんばかりのおもむきで、 
90年代当時、世界中で繰り広げられたテロや戦争の惨事も含め、
そういう時代の片隅で、嘆き哀しみ、苦悩する人間に、
励ましの手を差し伸べている。 
そういう気持ちが込められた(反体制派の)歌だと信じている。俺は。
最近は、Live でもよく歌っている。
その歌詞の冒頭では、
自分たちバンドそのものを、気軽に立ち寄れる“店”に喩えて、
ツアーを「宅配もやってる」という言葉に置き換えている。
そしてその歌の中に、「Yellow Page」という言葉が出てくる。
   
「24時間営業で おまえの電話を待ってるよ
  イエロー・ページを見りゃ分かる
    サービス業のところに載ってるよ」
   
という内容で、
ローリング・ストーンズというバンドが、単に何十年も演ってるロック・バンドではなく、
人類の音楽史上、最初で最期の奇跡の一つ。
その連中の奏でる音を、実際に自分の眼で見て、耳で確かめられるという事実を
世界中の大勢の人間が目撃し、体験している。
「キース・リチャーズは必ず、ステージの上で死ぬ。
木から堕ちて病院で死ぬことはない。ありえない。」 
同じ時代に息を吸って存在している価値の判る者は
誰もが そう思っているに違いない。
あのステージを見るたびに、「今日まで生きていてよかった」と実感できる。
   
   
   
んで、そういう意味で、自分が生きている証し、
自分そのものが存在する事実を実感できるかどうかの問題が、
俺にとっては、もう一つ。
“伊丹哲也”という人のサイトの中にあった。
   
たまたま、覗いた先のBBS(掲示板)のページが、
黄色い色をしていただけかも知れない。
でも、俺にとっては、何かの手がかりを探すための、イエロー・ページ。
あの中には、“伊丹哲也”というアーティストが、
自分のファンの色々な人と交流し、励ましあう中で、
その言葉ひとつ一つに、1980年のデビューから今日まで
変わりなく歌いつづけることで時代を生き抜いてきた、
“生きた証し”がある。
俺にとっては神聖な場所だ。
やたらに入り込むことはできない。 (誕生日は特別と思った
   
   
哲也さんのこれまでの人生も、
来週からステージに立つ予定だったキース・リチャーズの思いも、
俺が今日もこうして書いて、何か云えるほど簡単なモノではない。
他人の中身(魂)は絶対に他人には解らないことだし、
本当は、人が人を語ってはいけないんだ。
なにか決めつけたようなことが、
どんなふうに人を傷つけるかも解らない。
いずれ、ニューヨークへ行ってしまうらしき、assimilate さんも、
「言葉は凶器だ」と云っていた。 
http://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50487898.html#comments
俺もそう思う。
   
俺は長い間、その部分にも頭を抱えてきた。
反面、自分の書いたモノが、どんな刃物より鋭く尖っていることが、
ある時期までは自信の一つでもあった。 (錆びてて切れ味はわるくても)
だから今でも、このサイトへ公開できないような、恐ろしいモノも書いている。(過去に)
自分で読み返してもオゾマシイ。
「これは人間ではないだろぉ…」と、
あとから涙を流すこともあった。
   
でもその当時は、「どうせ誰も読みはしない」
そう思って封印しておいた。
その一部の軽めなモノを、このサイト上のどこかにも公開している。
それでも、
「誰かが読む以前に、何の役にも立ちはしない。
俺の命は、そういうつまらないものだ…」
と、今もって俺は、その格闘の中から出られない。
「人間なら、もっと優しく丁寧に…」
とも思う。
それでも、何か書くときは常に真剣勝負だ。
死ぬか生きるか。
   
この話に関して、これ以上は、また“和マサ”の話に繋がってしまうので、
今日は避ける。
   
   
でも嬉しかった。
1%の戦友(とも) として、
一人のアーティストのファンとして、
その人に自分の書いたモノを読んでもらえたことと、
その内容から何かをくみとって頂けた事実は、
今の俺にとって・・・・
   
今月は、いいことが二つもあった。
   
『真野鶴』が6年連続の金賞に輝いたことと、
哲也さんのサイトの“たわ言”コーナーに
『バンソウコウ男』の話が登場してしまったこと。
   
感謝です。
   
という言葉だけにとどまらず、
   
闘いの本番は、これから…、
いや、まだずっと先の方です。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
        http://home.p02.itscom.net/fighting/