仕出しの仁義 (仮題) | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   

助監督の支持で動かされる仕出し、エキストラの仕事の重要性は、
フレームの中の雰囲気づくりである。
それは、この日本の映像業界に限らず、
どこの国の映画造りにおいても変わりないし、
それ以上もそれ以下もない。
通行人として歩く人影が、

どんなにロボットの動きのように、どんなに段取りっぽく荒く観えても、
観客。テレビ、映画を観る側にとっては

芝居を演じる役者の背景に存在する一つの絵に過ぎない。
だから台詞もなければ、芝居らしい芝居というモノは、ほとんど与えられない。
アクション・ノイズというものは音ばかりでなく、

不自然にカメラ目線になってみたり、
そういう余計なモノは一つの作品が造られる上で必要ないし、

また絶対に許されない。
それが、人間の動きをする道具、

仕出しである。
これを何年も演ってしまうと、いわゆる”トラ癖”がついて、

もしも何かの弾みに、
いざ本格的な芝居をやってみる選択に迫られるとなった時、
妙に緊張ばかりが先走り、芝居にはならない。
気持ちを入れ替えて何とか他の役者さんの真似事をしてみても、
結局は、無言劇で身に着いた大げさな表現や、

存在感に欠ける絵が出来上がってしまう。
要するに、”メリ・ハリ・カン・キュウ・マ”の微調整が利かない。

   
無論、ベテランの役者さんと必要に応じたキャッチボールは不可能。
「役者を目指してる者がエキストラなんてやっちゃ駄目だよ」
という本当の理由はそこにある。
「撮影現場がどんな所なのか?」
それを知るために、ほんの何回か・・・。

例えば男性が女装してバックに出演したり、
普段の自分とはまったく別人のとして現場に存在するなら未だしも、
何の緊迫感もなく、

普段どおりの格好、普段通りの自分のままで
仕出し、エキストラを何度も演ってしまうと、

その染み着いた匂いは、
パンについたジャムのように拭い切れない。
「現場で面が割れると、本当に役者でスタート出来た時に

安っぽく思われて、ギャラも低くなるから…」
そんなことは見てくれのいい連中の嘘に過ぎない。
例え実際にそういった扱いがあったとしても、

それが真実ではない。
それをそのまま途中から、

ジャムの甘い匂いを漂わせたまま、
「私は女優になる」

「俺は役者になる」
と意気込んで、
自分で塗りつけたパンのジャムを

マーガリンやピーナッツ・バターに塗り替えようとしても、
ジャムの匂いは常に映像の中に出てしまう。
誰かに気に入られる前に身体をもてあそばれて消えてゆくのが関の山だ。

   
完全にジャムを洗い流して、

そのパンを乾燥させ、
パン粉に換えてパンを焼き直すという方法で、
例えば、無名(無名塾ではないよ)の舞台で

汗と涙に揉まれれば、なんとかなる・かも知れないが、
それを何年と演ってみても、

素質があるかないかは最初から決っている。
レースに速い馬は最初から速く走れるように、

他の馬とは創られ方が違う。
   
「あんな不潔な芸能界なんて見るのも嫌だ…」
と、負け惜しみを吐いてタレントを辞めた奴も

世の中には大勢いる。
   
芸能ブローカーは云う。

   
「そんなこと、オレの知ったこっちゃねぇ。
やりたい奴がやればいいだろ。
駄目だったら、そんなの簡単だ。
やめればいいじゃねぇか。
それだけだよ」