「良心」-現実と理想と苦悩と未来- | ーとんとん機音日記ー

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記






 2014年12月9日の仲井眞弘多知事任期満了に伴い執行された沖縄県知事選挙(2014年10月30日告示)において、歪(いびつ)に成ってしまった平和運動の、その姿について、「沖縄の平和運動は犠牲がないと成り立たない。」と喜納昌吉さんが、唄って訴えつづけた。

 「何らかの事件が起こって、言いようもない悲しい犠牲者が出て、そして民衆が一斉に立ち上がった運動が熾きる。」
・・・そのような、平和運動のかたち。
 ここで、あえて、“起きる”あるいは、“興きる”と書くべき処を「熾きる。」としたところには意味がある。

 抑圧された民衆の中に、沸々と燻り続けるものに、「何らかのできごと」がきっかけとなって、火が熾き、燃え盛り、まるで、山火事のように炎が飛び火して広がって、やがて、国の全土を荒れ狂う火が覆い尽くしてゆくというような、ドラマチックな民衆蜂起のイメージと、平和運動を思慮なく重ね併せてしまうならば、「民衆の情動に火を点ける“弱者の悲しい犠牲者”が、運動の生贄の様に必要になる。」

『辺野古85歳女性けが 強制排除一時意識失う』沖縄タイムス・2014年11月21日
【名護】新基地建設への反対行動が続く名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前で20日午前、抗議していた市辺野古の島袋文子さん(85)が県警に排除された拍子に転倒し、市内の病院に搬送された。一時意識を失い、側頭部打撲などの軽傷と診断された。
 目撃したカメラマンの豊里友行さん(38)によると、島袋さんは基地内に入ろうとするダンプカーのミラーをつかんで阻止しようとしたが、機動隊員に手をはずされ、その拍子に転倒した。


●『やった!勝利!~人々の力で「辺野古埋立」作業中断に追いこむ』
佐藤茂美・レイバーネット日本


『このような、“弱者の悲しい犠牲者”が必要な運動は、ほうとうに平和運動なのだろうか。?』
『運動が燃え盛るために生贄の様な犠牲者を、待ち望むようなになった平和運動に意味があるのか。?』


 今回の沖縄県知事選挙のなかで、喜納昌吉さんは、、そのことを唄って訴えつづけた。

『平和運動を、本来のあるべき姿に戻そう。』
・・・と運動家たちの良心に訴え、そして、広く沖縄の県民に訴え。
そして、日本全国の人々や、世界に向けて訴え続けた。

 しかし、ほんとうに残念なことに、喜納昌吉さんが、最も避けたいと考えていた“弱者の悲しい犠牲者”が、辺野古の運動でも出てしまった。
 ニュースや、運動の内部から発信されたと思われる情報しか伝わらないから、詳しいことはわからないが、85歳の島袋文子さんと云うお婆さんが、怪我をなさったようである。
 けれども、常識的に考えれば、『オール沖縄』を名乗る辺野古の反対運動体が組織をあげて支持した翁長氏が、当選した後に何故このような道路を封鎖するというような強硬な運動を展開し、全国各地から押し寄せた組織つながりの若い支援者も多い中で、85歳の島袋文子さんにダンプカーのミラーに取り縋るという様な危ない事をさせてしまったのだろうかと疑問に思う。

 幸いなことに、島袋文子さんの怪我は大事には至らなかったようであるけれど、そういう事を契機にして『「辺野古埋立」作業中断に追いこむ』ということになったのだとしても、『やった!勝利!』と喜べるような平和運動家の感性は、常識的に考えるなら随分に歪なものになっているという感想を抱くことは否めない。

 このような運動体と一体の翁長氏は、教職員組合と県などの自治体労組および連合沖縄と、保守系の公共事業関連の事業者などの組織票を用いて、有効投票数699164のうちの約51%の得票率を得て、沖縄県知事選挙に当選を成し遂げたことは記憶に新しい。
 翁長氏は、辺野古基地移設反対運動を代表して知事選を闘ったのであるが、同時に、これから次期の沖縄県知事として県民の命と財産の安全を預かる立場に立つのである。
 そういう見地に立てば、辺野古基地移設反対運動を代表した次期知事として、道路を封鎖するというような違法性の高い反対運動の手法を用いた抗議活動を行うことや、人身事故が起きる事も予測できるような阻止行動を行うことなどは、避けるべきであった。

 翁長氏が、良識のある政治家ならば、辺野古基地移設反対運動を代表した次期知事として、、けが人や事故が起こるような行為は、反対運動のなかで避けるように徹底して然るべきであった。

 このような事態の展開について、沖縄県民でなくとも、また、このような運動体から距離を置いて、個人の良心から、辺野古基地移設問題の推移や、沖縄県の知事選挙の結果を見つめていた、他の地域に住む良識のある人々の目には、どのように、この事が映っただろうか。?


 目で見る投票率(平成24年3月)- 総務省を参考にして、今般の沖縄知事選挙を考えると、地方選挙にしては類を見ないほどの全国的な注目度を帯た事に比して、地元の沖縄県民の間では、とても冷めて見られていたのではないかと思う。

●辺野古抗議の高齢者負傷、米が懸念沖縄タイムス2014年11月27日
ただ反対しておいて、自然に事故が来れば、米軍は逃げるだろう。
翁長雄志の言葉からは  新しい事故が起きてほしいという願いがあるような感じがする。

私はそのような 一人一人の命を大事にしない政治家は、
政治家になる資格はないと思っている。


 今般の沖縄知事選での街頭演説に於いて、喜納昌吉さんは、このような事故が起きることを危惧して、『一人一人の命を大事にしない政治家は、
政治家になる資格はないと思っている。』と指摘し続けた。

『犠牲者が出るような平和運動は、もはや、平和運動ではない。』
『犠牲者がでないような運動で、勝利することに平和運動を行う意義がある。』

 抑圧された民衆の中に、沸々と燻り続けるものに、「何らかのできごと」がきっかけとなって、火が熾き、燃え盛り、まるで、山火事のように炎が飛び火して広がって、やがて、国の全土を荒れ狂う火が覆い尽くしてゆくというような民衆蜂起のイメージは、革命による政変のイメージである。
 そのきっかけとなる「何らかのできごと」には、『いつも、民衆の情動に火を点ける“弱者の悲しい犠牲者”の存在が付き纏う。』
 だから、そのような運動手法を執るのならば、その運動は革命の画策であって、断じて平和運動とはいい難い。

 『犠牲者を盾にして、強引に推し進めるような平和運動があるのならば、それは、“平和運動”名乗りる異質な目的の運動であると、賢く見抜いて分別する必要がある。』


 このblogを読んでくれている読者の方や、あるいは、たまたま検索で目にとまって読んでくれた人々のうちで、もし、“平和”ということについて考えていたり、“平和運動”に関心持つような機会に出会ったときには、一度は目を通しておくべきであると思う論考がある。
 それは、ビキニ環礁付近でのアメリカの水爆実験による被曝事故をきっかけとして、大衆的平和運動が日本において成立する過程と、その後に原水禁運動が分裂して、保守系の核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)、共産党系の原水爆禁止日本協議会(原水協)、社会党・総評系の原水爆禁止国民会議(原水禁)の三つに分かれてゆく過程のなかで何が起きていたのかと云うところについて、山口大学名誉教授(経済学)の故安部一成(かずなり)氏の平和運動の軌跡を追うことによって、『この国際的にもめずらしい大規模な草の根運動としての原水爆禁止運動が、「平和」とは対極にある激しい憎悪・対立をむきだしにするような組織対立に陥って空中分解してしまうという、かくも無残な変化を遂げてしまったのはなぜなのか。日本の現代史研究がいまだ答えることのできていない複雑で深刻なテーマである。』という視点から見えてくる問題を探ろうとした、藤原修氏の労作
「原水爆禁止運動の分裂をめぐって―安部一成の平和運動論―」である。
 同論考を、ご一読いただければわかることであるが、良識ある平和運動家である安部一成氏であっても、「アメリカ(帝国主義)=戦争勢力、中ソ=平和勢力」というような画一的な図式に囚われてしまっている。当時は、そのような時代であったのだろうかと残念に思う。

 けれども、記されているような、国際的にもめずらしい大規模な草の根運動としての原水爆禁止運動が、保守・革新などの、政治的立場の枠組みを超えた「個人の良心」から日本において興ってきたことに意義がある。
 その意義のあることが組織ごとの思想性によって、分断され無残な姿になってゆくことを阻止できなかった日本の平和運動の幼さがそこにあった。

 もし、原水禁運動が核兵器云々にとどまらず、焼夷弾による非戦闘員への無差別爆撃の悲惨な結果にまで、その視野を広げて捉えていたらどうであろうか。
 保守革新を問わない、「紛争による犠牲者をださない。」という日本の一貫した政治の思想へと、それは昇華できたであろうし、「運動の犠牲者の存在によって、平和運動をアピールするというような歪な運動のかたちが生まれることを押し留められたハズである。」

 沖縄知事選挙に於いて、喜納昌吉さんの得票は、7821票であった。
けれども、彼は、「選挙には負けたかもしれないが、わたしは勝ったと思っている。」と晴れ晴れと言い放った。それを聞いて、「負け惜しみを言っている。」と思った人がいるかもしれない。

 しかし、彼が言うように、『犠牲者が出るような平和運動は、もはや、平和運動ではない。』という、平和運動の原則に照らし合わせれば、「犠牲者が出て、初めて説得力が出てくるような運動は、多くの人から理解されない正義を振りかざした異様なものに成り果てているのだ。」
 そのような辺野古をめぐる運動が、当たり前となってしまった状況の中でも、沖縄の中に、7821人もの人々が、しがらみを乗り越えて、良心の光を発して応えてくれたことが、急な立候補を決めて、準備もなく、組織もなく、選挙資金も乏しいというところから選挙に臨んだ、喜納昌吉さんにとっては、とても心強く、心からうれしいことだったのだ。

 そのような、駆け引きのない、ほんとうのこころで、それぞれが、
良心の光を発して、同じ未来を見据えて生きる場所にしか新しい時代が開かない。