最近、「仏陀と救世主って、どう違うのですか?」という質問をたくさんいただきます。
そこで今日は、この質問に関してレポートを書いてみようと思います。
救世主に関しては、私も様々な文献を読みあさり、勉強してきました。
仏陀と救世主、とても永いレポートになりますが、どうぞ、最後までご覧下さい。m(_ _)m
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救世主(メシア)」という言葉があります。
この言葉の本来の意味は、「油を注がれた者」という意味です。
古代イスラエルの王さまは、即位の礼として、頭に油を注がれました。
現代では救世主というと、「神より遣わされた愛の使者」という意味合いで知られていますが、もともとの意味は「油を注がれた者」、つまり、イスラエルを救うために、神が遣わした王となるべき人物を指していました。
たとえばそれは、古代イスラエルの初代の王「サウル」。
古代イスラエル・ユダ複合王国の王「ダビデ」。
そして、「モーセ」のように、神の法を説き、奇蹟を行い、戦いもできる王のことを意味していたのです。
これは東洋で言う、「天輪聖王(てんりんじょうおう)」に当ります。
それゆえ、ユダヤの人々は、未だにイエスさまを救世主としては認めていません。
「イエス・キリストは、神の預言は述べ伝えたかもしれないが、
十字架にかかって死んだではないか!」
ユダヤの人々はこのように考え、イエスさま以前のモーセの律法を守り、「メシアはいつ来るのか…」と未だに待ち続けているのです。
ちなみに「キリスト」というのは名前ではなく、救世主(メシア)のギリシャ訳です。
「イエス」というのは、ヘブライ語の「イェホーシュア」、または、「ヨシュア」のギリシャ訳です。
当時、イエスさまは、「インマヌェル」と呼ばれておりました。
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★第二章「救世主としての証明」
イエスさまが救世主として有名になった最大の理由は、復活現象を多くの方がご覧になったことにあると言われています。
あの現象がなかったら、イエスさまは処刑された罪人として終ってしまい、救世主として歴史に名を残すことがなかったかもしれません。
十二弟子の中にさえ、うたぐりぶかい方(トマス)がいて、
「私は、自分の指と手で、あなたの脇と手の傷のあとを確かめないかぎり、
あなたを復活されたイエスだとは信じられない」
と言ったというのです。
それほど当時の人々は、奇蹟(神の使徒の証し)を欲していたようです。
ただ、天上界の神々(天使達)の本心としては、奇蹟を見てイエスさまを救世主として敬うのではなく、イエスさまが説く教えを自身の生活に取り入れて、精神的に向上していく人がたくさん現れることを期待していました。
なぜなら、奇蹟はあくまでも、人々を真理に誘うための方便であったからです。
神仏の使徒の証し(奇蹟)を見ることなく、教えの素晴らしさを理解できるということは、その人の魂の成熟度を物語っています。
証しがなくても、教えを良きものだと理解して実践する人は、「見返りを求めずに愛を与え続ける魂」、つまり、天使へと成長していけるからです。
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★第三章「救世主の教え」
イエスさまの思想の中核は、愛と祈りでありましょう。
現代人は、救世主の意味は、人類を救ってくれる「他力的存在」として理解している方が多いようです。
しかし、イエスさまが説いた愛とは、見返りを求めずに愛を与えること。
そして、自らの命を狙う敵すらも許す「愛」でした。
これは、
「この宗教に入れば、必ず天国に行ける」
または、
「このお経を唱えていれば、必ず救われる」
という安易な教えではなく、強い意志と努力を必要とする教えでした。
他人に対しては理解をし、自分に対しては、悔い改めをして、毎日善行をして精進すること。
その上で、神さまに祈りをささげ、全託すること。
その結果、
祈りの内容と、本人の努力に応じて、天使達から適切な他力が与えられるという、ユートピア創出のための教えでした。
つまり、「人事を尽くして天命を待つ!」という教えです。
つまり、「人事を尽くして天命を待つ!」という教えです。
救世主が神さまの教えを説いても、人々の人格が向上し、社会がユートピア化していくかどうかは、教えに従って人々がどのように努力していくかにかかっています。
救世主が教えを説いても、ひとりひとりが努力しなければ、ユートピアは建設できないということです。
ということは、パウロさんの説いた「贖罪説(しょくざいせつ)」は、間違いになります。
イエスさまが十字架にかかって処刑されたことにより、人類の罪は許されたという説です。
どうしてって…?
どうか、怒らないで、聞いてくださいね。(^人^;
仮に、現代にイエスさまが生まれて来るとします。
そのときに、贖罪説(しょくざいせつ)を持ち出して、
「救世主を十字架にかければ、人類の罪は許される。
あの方を処刑して、人類の罪をつぐなってもらおう!」
といって、イエスさまを処刑してしまったら、人類は救世主の死によって罪が許されるのではなく、「罪を犯した!」というのが正しい見方でしょう。
決してパウロさんを非難しているわけではありませんが、「救世主が十字架にかけられたために人類の罪が許された」という考えは、下手をすると悪魔の考えにすり変わる危険性をはらんでいます。
多くの人が救世主の教えを信じて勉強し、教えを生活や仕事に活かして、社会のユートピア化を目指してこそ、人類は幸福になれるのです。
各自の努力を無視して、救世主を神さまへの生け贄にして、人類の罪をつぐなってもらおうと人々が思ったなら、これを喜ぶのは悪魔だけでしょう。
結局、2000年前、人類は罪が許されたのではなく、罪を犯してしまったわけです…。 (´ヘ`;
それでも、神さまは、永い目で人類を見守り続けている大いなる愛の存在であるというのが、歴史の真相です。
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当時のイスラエルは、正義の思想が強く、
「正義のためなら人を殺してもかまわない!」
というのが常識でした。
それは、一面では、悪を押しとどめる効力を持っておりましたが、反面、殺伐とした世界をつくり出していたのも事実です。
当時の常識に対して、イエスさまは、
「汝の敵すらも愛しなさい」
という教えを伝えました。
現代では、
「多くの人が愛し合い、生かし合うことで社会の調和が生まれる」
ということは良いことだと認識されていますが、当時は、非常識な教えであったのです。
しかし、イエスさまの愛の教えが世界に拡がっていき、人類が博愛の精神を持ったことによって、世界は良くなっていきました。
しかし…
「何言ってんだい!(\w/;
キリスト教の歴史は、迫害の侵略の繰り返しだったじゃないか!」
という非難も聞こえてきます。(;^_^A
でもそれは、イエスさまのせいではありません。
キリスト教がローマで国教化された際に、「正義のためなら人を殺してもかまわない!」というユダヤ教の正義の教えを取り込んだために起こった矛盾であったのです。
なぜ、キリスト教がイエスさまを処刑に追い込んだユダヤ教の教えを取り込んだのかといいますと、人々がイエスさまを若くして帰天させてしまったため、国教化するには教えが少なかったからだと言われています。
そのために、ユダヤ教の教えをリンクして、教義を補完しようとしたのです。
イエスさまは「汝の敵すらも許して愛せよ!」と言っているのに、キリスト教に戦争が多い理由は、このためであります。
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★第五章「仏陀」
キリスト教が世界に広がっていくに連れ、救世主(メシア)の意味が、「油を注がれた王」という意味から、「神より遣わされた愛の使者」という意味合いに変わってきました。
ということは、
救世主 = 仏陀
と解釈しても宜しいかと思います。
ちなみに、仏陀というのは、一般的にお釈迦さまのことを指しますが、本当は、救世主と同じく個人の名前ではなく、「覚者」を指す尊称でありました。
仏陀の名前は、「ゴータマ・シッダールタ」といいます。
今から2500年前、インドの釈迦族の王子として、生まれた方です。
仏陀が生まれた際、アーシタ仙人という方が、シュッドーダナ王(仏陀の父)のところに訪れて、次のようなことを予言しました。
「この赤ん坊は、まれに見る偉大な魂です。
出家すれば、至上の悟りを得て、仏陀となるでしょう」
仏陀、救世主、転輪聖王…
三者は、人類を幸福にするために、神さまより遣わされた「光の使者」ではあるのですが、敢えて違いを説明いたしますと、
仏陀は、悟りと修行、霊界の秘義を人類に教える「教師」としての面が強く、
救世主は、愛や慈悲や信仰心を教えて人々を救済する面が強く、
転輪聖王は、力を持って正義を遂行し、理想国家を建設する王、
と言って宜しいかと思います。
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★第六章「仏陀の悟り」
ゴータマ・シッダールタ』は、出家してから6年間、苦行を行いました。
しかし、極端な修行の中には、悟りのよすががないことを見抜き、苦行を捨てて、菩提樹の木の下で深い思慧の冥想をするようになります。
この冥想修行中、悪魔マーラ等による妨害が、数多くあったと言われています。
これは、イエスさまが悟りを得るために、荒野で四十日四十夜冥想をしているとき、悪魔ベルゼブブ(悪魔界のNo.2)の攻撃を受けたというケースとまったく同じです。
ゴータマ・シッダールタは、ある日、明けの明星が瞬く頃、大悟して仏陀になりました。
そのときの仏陀の悟りについては、
と
で説明していますので、ぜひご覧ください。^^
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★第七章「仏陀とイエス・キリスト 」
イエスさまの教えは、愛と祈りが中心であり、どちらかと言えば、他力型の宗教でありましょう。
一方、仏陀の教えは、自助努力と他力の両面を説いておりますが、どちらかといえば、自助努力の面に重点をおいていると思います。
それは、「八正道」による日々の反省や、「六波羅蜜多(ろくはらみた)」による修行の実践により、
「人間は、神仏に近づいていくことができる」
という、「個人の人格向上(進歩)』と「人類の共生(調和)」のための教えでした。
仏陀とイエス・キリスト。
個性の違いこそありますが、説かれた教えの内容は、人類に人格の向上を促す教えであり、仏国土(ユートピア)を建設する、宇宙の二大原理「進歩」と「調和」の教えなのです。
でありました。
お二人とも、自助努力を無視した安易な他力思想は説いておりません。
このことを仏陀は、「指月のたとえ」をもって、説明しています。
「私は月を指し示すが、あなた方に直接月を見せることはできない」
これは、
「私は教えを示すことはできるが、
法力を使って、あなた方を悟らせてしまうことは
許されていない。
あなた方は努力精進し、己の力で悟らねばならない」
ということをおっしゃっています。
簡単に言ってしまうと、仏陀と救世主は、神仏から使わされた「魂の教育者」ということです。
ではもし、現代に仏陀や救世主が現れるとしたら、その方はどのような仕事をされるのでしょうか。
おそらくは、神仏や霊界の証明という特殊な事柄を除けば、地道な人の生きる道と理想社会建設の方法を説かれるのではないでしょうか。
世界の四大聖人がそうであった様に。
仏陀もイエス・キリストも、神仏の使いとしての証明のために奇跡の力を見せはしましたが、教えの中心は、人類が進歩~調和していくための
「悟り(智慧)」と「人間関係学(愛)」
です。
現代の文明は、かなり複雑になっていますから、おそらくは、宗教、政治、経済、教育、医学、科学、芸術、哲学など、ありとあらゆる角度から、後の人類が教育として学べるよう、体系化された教えを説いて行くのではないかと思います。
皆さまも、そう思いませんか。(^^)
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