※ レポート「彼女の死が教えてくれたこと(1)」
を書いて以来、実際に病気と戦っている人、
「愛する人を失って、今もその悲しみと戦い続けています」
という方達からのメッセージが増えてまいりました。
先般も、レポートのコメント欄に、以下のようなメッセージを頂きました。
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★ 読者からのコメント
あたしは聴覚障害を持っています。
だから、
「病苦にあえぐ多くの人々に勇気と希望を与えるために、
敢えて障害を選んで生まれてくる場合があるのです」
っていう言葉にすごく共感を持てました。
時々、なんであたしは耳が聞こえないの、なんでみんなと同じに生きられないのって、昔はよく思っていました。
でも、あたしが頑張って生きることで、これから生まれてくる聴覚障害を持った人たちにすこしでも希望を与えたいって思い始めるようになりました。
別にすごいことはしてないけど、
「耳が聞こえなくなっても、こんな風に楽しく過ごせるよ!」
って伝えられたらいいなと思ってます。
※コメントはここまで
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他に多くの方からも、
「自分も傷ついた心を持ちながらも頑張っています」
という、エール・メッセージを頂きました。
そこで、今日も先日の日記に引き続き、「希望(2)感謝の気持ちや幸福感は、時に奇蹟を起こす」というタイトルで、レポートを書いてみようと思います。
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先日、日本テレビの「所さんの1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の中で、「砂漠を駆ける闘志の女」』という特集をやっておりました。
内容は、乳癌にかかり両乳房を切除し、そのために両腕を満足に動かせなくなってしまった、能城律子(のしろりつこ)さんという女性のお話です。
さらに残酷なことに、彼女は医者に「あなたの命はあと3年が限度です」と宣告されてしまいます。
そんな彼女が一念発起し、パリ・ダカール・ラリーに挑戦し、その後逆転の人生を歩んでいきます。
幼い頃から身体の弱い能城さんでしたが、精神はとてもタフでした。
肺門リンパ腺炎を煩い小学校を1年間休学した彼女ですが、中学に入ってからは先生の忠告を無視してスキー部に入り、1日も休むことなく練習を続けたそうです。
その後18歳のとき、全国のアマチュア・スキーヤーが挙って出場する、白馬の『リーゼン・スラローム大会』で地区代表選手として出場するようになりました。
そして20歳になってからは、スキー1級の免許を取得しました。
その後も色々とあるのですが、彼女は大人になって自分の会社を立ち上げ、起業家として成功していきます。
しかし輸入の失敗で、24歳のとき、現在に換算して約6億円の負債を負ってしまいました。
それでも彼女は、10年という歳月をかけ、6億円の借金を完済し、その後経営から身を引きました。
しかし借金返済の為の10年間のハードな生活が、能城さんの病弱な身体をさらに蝕んでしまっていました。
35歳のときに子宮癌が発覚したのです。
能城さんは、子宮を摘出して命は助かりましたが、女性として大切なものを失ってしまいました。
しかし常に前向きの能城さんは、その3年後、ホテル・ニュー・オータニの中に、日本発の「ホテル内の託児所」を開設しました。
能城さんは、異なる形で多くの子供達のお母さんになる道を選んだのです。
しかし45歳のとき、さらなる試練が能城さんに襲いかかります。
乳癌の発覚…
手術を受けた能城さんは、両乳房と胸筋を失い、満足に腕を動かすこともできなくなってしまいました。
しかも医者からは「余命3年」という残酷な宣告を受けたのです。
このときのことを能城さんは、こう語っています。
「でも、私はここまでやりたいことをさせて頂いたのだから、
あとの3年間は、感謝の気持ちで生きていこう」
しかし手術の後遺症で能城さんは、両肩関節障害と両腕の血液循環不順になってしまいます。
普通の人でしたら、このまま落ち込んでしまうでしょうが、能城さんの座右の銘は「とことんやる精神!」、残された命への感謝の気持ちを持ち、新たなるチャレンジに挑みました。
なんと、56歳の時にラリー(カーレース)に出場することにしたのです。
手術の後遺症で満足に腕を動かすことができないというのにです。
能城さんは、たった1人で、20代の若者に混じって、サーキットで 「国際A級のライセンス」を取得するために、猛練習に励みました。
サーキットに通い続けること2年、59歳で『国際A級のライセンス』を取得し、念願の『オーストラリア・サファリ・ラリー』に出場しました。
5,500kmを9日間で走破するという過酷なレースです。
しかしこのレースは残念なことに、マシントラブルから、4日目にリタイアしてしまいます。
しかし能城さんは諦めず、翌年、同ラリーに再挑戦をします。
彼女は60歳という年令、両肩関節障害というハンディーを負いながら、見事レースを完走し、総合9位という栄冠を勝ち取ります。
しかも、オーストラリア・サファリ・ラリー史上で、初めて女性がトップ10以内になったという記念すべき記録を作ったのです。
彼女はさらに3ヶ月後、ラリーの最高峰「パリ・ダカール・ラリー」に挑戦します。
これは、フランス・パリから西アフリカにあるセネガルの首都ダカールまでの7,700kmを1週間で走り抜く過酷なラリーです。
能城さんさんは、このレースを見事完走し、出場車176台中、総合59位に輝きました。
さらに61歳のときには、中央アジアを走り抜く「パリ・モスクワ・ウランパートル・ラリー」に出場し、9,600kmの大レースを総合19位になるという、デビュー2年目にして、三大メジャー・ラリーの連続完走を果たしました。
そして能城さんは、自らの人生を「神さまから頂いた儲けもんの人生」と称し、さらに大きな目標を掲げました。
それは、アフリカや中央アジアで目にした子供達の貧しい状況に「私にも何かできることがあるのでは?」と考え、ラリー出場の度に、鉛筆やノートなどの文房具を持っていき、無料で配っていく活動を始めたのです。
「やるからには、とことんやる!」をモットーにしている能城さんには、次から次へとアイディアのインスピレーションが降りて来ました。
ホテル・ニュー・オータニが、毛布をやめて羽毛ふとんを使用することになったことに目をつけた能城さんさんは、総務部に交渉して、いらなくなった毛布数百枚をアフリカ等の病院に寄付することに成功します。
さらにホテルで使用しているコピー機で、時々ミスプリで白紙が出て来ることに気がついた彼女は、その白紙をこつこつと集め、何と9トンの紙を「ノート換わりに使って下さい」と、子供達に配ってまわりました。
さらに、ホテルの部屋で使用された石鹸を集め、きれいに汚れを取り除き、丁寧にビニールの袋に詰め、アフリカやアジアの病院や学校に配ってまわりました。
能城さんは、語ります。
「ここのホテルの人の協力なくして、
私は、ボランティアなんてできませんでした。
今は、11月にイラクに車イス、杖、水タンク、
文房具を持っていく用意をして、
かけずりまわっております!p(^-^)q 」
能城さんは、昨年イラク南部の都市バスラを、当時治安を守っていたイギリス軍の護衛のもと「国際宅配おばさん」として訪問し、10トンもの文房具を子供達にプレゼントしました。
その際に、病院で使う業務用の冷蔵庫が不足していることを知った能城さんは、今年再びバスラを訪問し、約束していた冷蔵庫を7台病院にプレゼントすることができました。
私は、このあと、番組のインタビューに答える能城さんの言葉が、とても印象的でした。
「99%の人は、今イラクに何をやったって、無駄だといいます。
でも私は、今までどんなにひどい病気をやっても、
全部明日につながっていると、身になっていると思いました。
だから、多くの皆さんにやめた方がいいと言われても、
そういう気にはなれませんでした」
現在、第6級の身体障害者手帳を持っている能城さんに、「1998年1月4日に輝いていた人達!」と題して、番組が盾を差し上げた際に、
「45歳までの命と言われたのですが、
私、10月で70歳になるんですよ。
儲けもんの人生ですね!(^^)」
と答えた能城さんの笑顔がとても印象的でした。
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能城さんのように、大きな希望と奇蹟を見せてくれる努力の人は、世界中に数多く存在しています。
私はここにまた「耐えて夢を追う」1人の勇者の姿を見ました。
たとえ肉体的にはか弱くとも、たとえ与えられた状況が悲惨なものであっても、力強く精神を培っていくことを諦めず、日々感謝の気持ちで努力し続けることができたなら、運命を逆転させて、他の人のために働ける存在に変身することができる!
それを身を持って教えてくれる天使の姿を…
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