沖縄『南北之塔』に刻まれたアイヌの言葉 | 天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

どこの土地でも同じかもしれませんが、観光で訪れただけなら、見えてこないものというものがあります。

そして、偶然のようで偶然ではない、まさに必然と思える何かの導きかの様なこともあり…。


先日、沖縄へ取材旅行をした際、神の島と言われる久高島が目の前に見えるお宿に泊まりました。



ただ、今回は久高島を取材する為に泊まったわけではなく、久しぶりに、本当に久しぶりに久高島の神様にご挨拶が出来たら良いなと思ったからで…。


久高島を最初に知ったのは二十数前のことです。

伝説の精神科医と呼ばれ同時に、民俗学者でもあった故・加藤清先生とありがたいことに縁があり、


様々なことを学ばせてもらっていました。

そんな加藤先生から、ある時、

「君は北のアイヌのことには意識を向けておるが、南の沖縄への意識が薄いみたいやな。両方見なければ日本は繋がらないよ」と言われたのです。

私は安易に、先生に沖縄の何処へ行ったら良いか質問してみたのですが「それは自分で見つけるものや」と笑われてしまいました。結局、自分なりに探し、辿り着いたのが久高島でした。


当時は、まだ沖縄の人以外、久高島の存在を知る人はほとんどいなかったように思います。もちろん、久高島を臨む斎場御嶽(セーファーウタキ)も世界遺産登録されるよりずっと前のこと。あの頃は、沖縄の聖域中の聖域、特別な御嶽にも女性なら普通にお参りに入らせていただくことが可能でした。


しかし、21世紀に入った途端、世の中のスピリチュアルブームの影響で沖縄の聖地も他の聖地同様どんどん観光地化され…。また、地元の方々に無配慮な行動をする人も増えたことで場が荒れたり、入場禁止されるなど、それまで足繁く通っていた久高島にも、沖縄そのものにもしばらく足が遠のいていました。


しかし、私の著書『熊野 その聖地たる由縁』(彩流社)



の改訂版が出ることになり、沖縄の中に息づく熊野信仰も調べることに。

久しぶりに沖縄に行くのならば久高島にも渡れたら良いな…という思いもあり、久高島が目の前に見えるというお宿を一泊だけ予約したのです。


宿はB &Bスタイルでした。


夕食を外で済ませてからチェックインしたこともあり、既に外は真っ暗。窓の外の風景も見えず、部屋の中には小さな椅子とベッドがあるだけ。お風呂に入ってもまだ時間を持て余す状況でしたが、幸い書棚の中には年季が入りながらも魅力的な本が何冊もズラリと並んでいました。


中でも私が特に気になったのがアイヌの女性が表紙に描かれた『南北の塔 アイヌ兵士と沖縄戦物語』という本でした。




読む前から、沖縄戦の話であることは想像はつきましたが、アイヌ兵士という部分が気になったのです。


でも開いてみると、文頭にアイヌではなく樺太(サハリン)の北方小数民族・ウィルタ族のことが書かれていてビックリ仰天!


ウィルタ族。そう言ってもほとんど知る人も無いと思いますが、私は縁あってウィルタ協会というものの末席に属していました。属していたと、過去形になるのは、今は当事者である日本在住のウィルタ族の方々が既に他界してしまったこと、更にジャッカドフニという資料館も今は無く、


            (2012年 天川 彩撮影)


事務局長はじめ協会会員の皆さんも高齢化して、実質協会は存続していないに近いからです。


樺太(サハリン)中北部で暮らしていた先住民、ウィルタ族の人々は、まさに自然の寵児。トナカイを遊牧しながら、大自然の力を得て暮らしていました。

そもそも近世以前の樺太には樺太アイヌ、ウィルタ、ニブフと言った先住民が暮らす地であり、主権国家に支配されていなかったのです。


ところが、近代以降、樺太の南側に隣接する日本と北側に隣接するロシア双方が、領土拡張の為樺太へ市民が移住するようになったのです。

そして、明治38年。北緯50度線を境として、樺太の北半分はサハリンと呼びロシア及びソビエト連邦の領土に。南半分は日本の領土となりました。


日本の領土となったと言っても、先に書いた通り樺太は先住民たちが暮らしていた島だったので、日本政府は、一箇所に先住民を集め強制的に同化政策を行っていったのです。具体的には日本の名前を持たされ、言語も日本語を強要され、日本人教育を行われていく中、第二次世界大戦が勃発。


樺太先住民の男性たちは、日本語とロシア語両方を話せるという理由で、ロシアへのスパイ兵にさせられてしまいました。


終戦後、そんな兵士の多くはシベリアへ抑留され、そこでほとんどの人が死に絶えたそうですが、ウィルタ族のゲンダーヌさんは生き延びるのです。しかし、故郷であるはずの樺太は戦後はロシア領となり、故郷を失い北海道へ渡るのです。


網走で暮らしていたゲンダーヌさんと、この本の著者である橋本進氏が知り合いだったことから、冒頭にゲンダーヌさんから教えてもらった言葉や考え方などが記されていたのです。


ちなみにほとんど知られていませんが、樺太は、沖縄同様に、本土決戦が行われた場です。ただ沖縄と樺太の違いは、樺太は終戦後もロシア軍による執拗な市民攻撃が続き、多くの罪なき人々が戦後に殺されているということです。

実は私の父も樺太生まれ、樺太育ちです。命からがら家族と北海道へ逃げ帰ることができたという話を昔、幾度か聞きました。


そんな思いを胸に、私は一気にこの本を読みました。そして、今回は久高島ではなく南北之塔へ行ってみるべきだと思ったのです。


翌朝、宿の窓から見えた久高島の神様に手を合わせ、南北之塔がある糸満市へ向かいました。


『南北之塔』は小高い丘の上にありました。



慰霊碑のすぐ近くに、説明書きがあったので近づいて読んだ時、私はあまりの衝撃に目の前がクラクラとしました。


糸満市は、第二次世界大戦末期、本土防衛という名目で、激しい地上線が繰り広げられ、沖縄戦終焉となった地です。そこは兵士ばかりでなく、中南部から避難したはずの住民も戦闘に巻き込まれ、多くの犠牲者が出ました。


糸満市の真栄平地区は、当時人口の70パーセント近くが犠牲となり、終戦直後は、戦没者の遺骨が田畑や山野に散在したままに。人々は、身元不明の遺骨を拾い集め、数千人分を自然洞窟であるガマに安置したことから、天然納骨堂となっていたそうで…。目の前のガマがまさにそれだったのです。


近くには、陸軍24師団の慰霊碑も建っていました。

この24師団は北海道から集められた師団だったそうで、最期は自決という結末を迎えたとありました。






戦争の悲惨さや、沖縄戦の残酷さは見聞きしていましたが、不意打ちの様にその現実が目の前に現れ、私はただただ流れる涙を拭うことしか出来ませんでした。


北海道の弟子屈町(てしかがちょう)のアイヌ文化伝承者、弟子豊司(てしとよじ)さんは、兵士として徴収され、満洲経由で沖縄南部に派遣されました。弟子さんが所属する隊は与座という地区にあったそうですが、近くにあった真栄平地区には、同じ北海道からやって来た日本兵も多く、更に地域住民との個人的交流もあったことから、弟子さんは日常的に真栄平地区に通っていたそうです。


激しい沖縄戦で多くの戦友が戦死した中、弟子さんはどうにか生き伸びて終戦を迎え、故郷北海道へも帰るのです。

そして1965年。アイヌの古式舞踊公演のため、アイヌ文化使節団の団長ととして沖縄を再び訪れることとなった弟子さんは、真栄平でかつて親交のあった地域住民の人々と再会。


ちょうどその頃、地域で戦没者を弔おうと資金を出し合い、アバタガマの隣に正式な納骨堂・南北之塔の建設計画が持ち上がっていたそうで、その話を聞いた弟子さんも賛同。翌年、弟子さんは寄付を集めて真栄平を再訪し、慰霊塔の一番上部の石碑の横には弟子さんの希望により「キムンウタリ」というアイヌ語が彫られました。





キンムウタリとは、山の同胞。


南北之塔の名称は「北は北海道から南は沖縄まで全国の将兵と沖縄の住民を弔う思い」から命名されたそうです。ちなみに、沖縄戦で戦死した兵士の出身地で圧倒的に多いのが、北海道なのです。北海道兵の死者の数、10805名。日本の南と北の端の人々だけが先の戦争で多く犠牲になっている事実をこの時知りました。


その後、この南北之塔のことを改めて調べてみました。


ここでは、数年に一度、アイヌの人々による慰霊祭が行われる様になるのですが、私が読んだ本に若干の間違いがあり、慰霊碑の呼びかけ人が弟子さんであるように記されていたことなどから、いつしか『南北之塔』はアイヌ慰霊碑だとか、アイヌのお墓だという誤った認識が世間に広まるようになってしまったのです。


それに反発した地域住民の人々が2001年、市に陳情書を提出。以後、南北之塔を巡り諍いが起こってしまうのです。


しかし、そうした事態に心痛めたアイヌにアイデンティティを持つ地元在住の玉城さんが2023年立ち上がり、再び沖縄とアイヌの絆を取り戻す為の活動を始めている記事を見つけました。


琉球日報には、私もお会いしたことがある、阿寒のデポさんこと秋辺日出男さんたちが映っていました。

「南北之塔は沖縄戦の残酷さを伝える塔であると同時に、アイヌと真栄平の住民がお互いの人種を越えて絆を強めた象徴でもある。双方が理解し合う場になってほしい」と語られた玉城さんの言葉に未来を感じました。


米軍ヘリの音が今も鳴り響く沖縄の空を見上げながら、平和な世の中が続く様、自分なりに出来ることを精一杯しよう、と改めて誓ったワタシでした。