『雨宮家のルーツ』を辿る旅 《後編》 | 天川 彩の こころ日和

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作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

我が家のファミリーネーム「雨宮」。ルーツの始まりが、千曲市にある『雨宮座日吉神社(あめのみやにますひよしじんじゃ)であることは前編に詳しく書きましたが、



戦国時代になると、歴史に少しばかり雨宮が登場するようになります。


中でも最も活躍したのが、戦国時代の武将の一人であり信濃村上の家臣だった、雨宮刑部(雨宮正利)です。


もともとは信濃・鞍骨城主である清野信秀の子として生まれ、雨宮昌秀(雨宮摂津守)の養子に入り、信濃・唐崎城の城主となります。

唐崎城があった唐崎山。


この時、信濃村上氏の当主は猛将、村上義清。


戦国最強軍と呼ばれ恐れられていた、武田信玄率いる武田軍が北信濃侵攻を進めてきた時、上田原で迎え撃ったのが義清率いる村上軍でした。


1548年上田原の戦いで、雨宮刑部は村上左馬頭義清方として出陣。村上軍は武田軍に勝利しますが、雨宮刑部はこの戦いで討死してしまいます。


そんな訳で、上田原古戦場跡にある雨宮刑部のお墓参りをしました。



お墓の登口には、この様な案内が。


戦国時代のお墓がそのままありました。



夫、ご先祖様のお墓参りができて、嬉しかったようです。


話を歴史に戻すと…上田原の戦いでは勝利した村上軍でしたが、その後の戦いで村上軍は武田軍に負け、村上義清は、上杉謙信の元へ助けを求めに行き、結果的に上杉謙信の家臣となります。


そして、川中島の合戦へと発展するのですが、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちとなった最大の決戦、第四回川中島の合戦で、上杉軍の重要な拠点となったのが『雨宮の渡』です。

江戸時代の漢詩人、頼山陽による史跡に関する詩碑



家族になって揃って、この図に興味津々。歴史上舞台となった場に雨宮の名がついていたなんて、知りませんでした。


歴史的合戦、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちとなった川中島の合戦が行われたのは、1561年9月10日。

夫の誕生日は、1961年9月10日なので、ちょうど400年後に生まれたようです。


それにしても…


やはりこの辺りのは雨宮の文字が沢山。


そして…少し時代は遡りますが、川中島の合戦前、村上義清の家臣として上田原の戦いで1548年、武田軍と戦い討死した雨宮刑部(正利)の後、家督を継いだ弟の雨宮景信でした。


兄、雨宮刑部(正利)は村上義清に忠義を尽くしましたが、弟の雨宮景信は、その後の村上義清が上杉謙信に救済を求め越後に向かったことで、1553年、村上軍から離れ、甲斐の武田信玄のもとへ出仕するのです。


ここから雨宮の歴史の舞台は、甲斐国である山梨へと移り変わります。前編にも書きましたが、雨宮姓が現在も圧倒的に多いのは山梨です。


山梨といえば甲州ぶどう。勝沼を中心に日本一のぶどうの産地として知られています。


今回の旅の目的地の一つは、祖父の戸籍にあった、塩山旧金上村。ここに行くと何かわかるかな?と思って行ってみましたが…。

郵便局がポツンとあるだけ。


でも、娘や息子は久しぶりに広々とした風景に深呼吸。


ここは勝沼インターからすぐの場時で、周囲はぶどう畑があたり一面に広がっていました。



実は、甲州ぶどうには2つの伝説があり、一つは奈良時代の高僧・行基説。行基がこの地で修行中、夢の中で右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、その姿を安置したところ葡萄の木を発見。薬草として育てたことを村人に伝えたという話。この薬師如来の手から甲州という名前がついたという話もあります。


そしてもう一つの説が、平安時代末期に甲斐国勝沼の住人、雨宮勘解由(あめみやかげゆ)が山中で珍しい果樹を見出し育て、数年後に実らせたことが、この地での葡萄栽培の始まりとした話です。


そうです!雨宮という人物がこの地でぶどう栽培を始めたという話があるのです。その人物が5年に渡る研究の末、栽培に成功。頼朝に献上したなどの話もあるのですが、明治時代から伝わっている話なので、真相はわかりません。


話を戦国時代の雨宮家に戻しましょう。



雨宮刑部正利の弟で家督を継ぎ、信濃から武田信玄の元にやって来た雨宮景信。公益財団法人・長野観光コンベンションビューローの「川中島の戦い史跡ガイド」によると、雨宮景信は、武田晴信(信玄)のもとで足柄70騎の将となったとあります。


しかし、甲州ではこの景信の名前は一切登場しないのです。登場するのは、雨宮景尚という似た名前の人物。景信と景尚…私は同一人物なのではないかと推測するのです。


雨宮景尚は、もともと雨宮織部正良晴という名前だったそうですが、武田信玄の姪であり勝沼信友の娘、松の葉と結婚します。しかし後に離縁。松の葉は、剃髪して理慶尼と号します。


信玄の姪と結婚していた景尚が離縁した年は1560年。

信玄の家臣となり、景信が信濃から甲州に入ったのは、1553年。


更に雨宮景尚(雨宮織部正良晴)の名前が甲州の歴史上登場するのは、この婚姻のところから突然なのです。


他に、雨宮家次(十兵衛)なども武田陣の家臣として名前を見ることができます。


雨宮家次は、武田義信が自刃した為、武田信玄のもとから、小田原の北条氏康に仕えることに。そこでの戦功で七度感状を受けた後、高坂昌信を介して再び信玄のもとで仕えています。


同じく武田信玄の家臣に雨宮存鉄という人物もいたようで、存鉄は三ッ者の目頭を務めています。三ッ者とは、僧侶や商人など様々な姿に扮装し、諸国で情報収集する役割をするものです。


他にも何人か雨宮姓の戦国武士を見ることができますが、資料が少なすぎて詳細はわかりません。

ただ、長野の千曲から、複数の雨宮姓を持った武士が武田信玄と共に移動したのだということがわかります。



一説には、平安時代の雨宮勘解由の子孫である、雨宮織部正良晴は領主、武田信玄へぶどうを献上。非常に美味しかったことから、太刀を賜ったという話も…。


いやいや。それはないなぁと私は思うのです。なぜなら、甲州ぶどうの伝説に登場する雨宮勘解と、

千曲からやって来た雨宮織部正良晴とが、子孫とは考えにくいからです。雨宮一族はどう考えても、戦国時代に長野千曲から、甲斐国に武田信玄と共にやって来ているので…。


雨宮織部正良晴が武田信玄から太刀を賜ったのは、武士として功績を挙げたからであり、ぶどうを献上した、ということではないはずです。そもそも、ぶどう農家が太刀を賜る?戦国時代という時代を考えると有り得ないと思うのです。


でも、甲州で竹棚によるぶどう栽培が数百年続いていたことや、明治12年には神岩崎の雨宮作座右衛門という人物が、それまでのたけを細い鉄棒に替えて、ぶどう栽培を格段に発展させたことは、歴史上間違いのないことです。


やはり、雨宮は勝沼ぶどう郷に深く関わっているのです。


祖父がかつて生まれ育った甲州市塩山は、見渡す限りのぶどう畑が広がっていました。




夫から家族全員に、雨宮の歴史を辿る還暦旅行のお礼にと、ぶどうのプレゼントが。


駆け足でしたが、夫の還暦という節目で、我が家のルーツを辿る旅を家族揃って出来たことは、私たちにとっても本当に良い思い出となりました。


最後に、雨宮ファミリー 幸せショット!