日本の古層に触れて | 天川 彩の こころ日和

天川 彩の こころ日和

作家・自然派プロデューサーである

天川 彩(Tenkawa Aya)が

日々の中で感じたこと、出会ったこと、
見えたものなどを綴る日記です。

奈良の歴史というと、古墳時代からという認識が私にはありました。でもそんな認識を覆してくれたのが天川村役場の元職員で今は『ゲストハウス 坂屋半治郎』のオーナーをされている阪岡さんです。


阪岡さんとは、天川村の役所にお勤めの頃からの友人で、歴史や民俗学的な話で会うたびに盛り上がるのですが、


「Ayaさん、この近辺に縄文遺跡が出土していることご存知ですか?」そう言って見せてくださった一枚のプリント。そこには、ストーンサークルの様な写真が写っていました。


奈良に縄文遺跡?それはワクワクする情報でした。


何せ、関西は歴史の宝庫。中でも奈良は、社会の教科書で学ぶ中でも古墳時代から飛鳥、そして奈良時代まで、都が京都に移るまで、日本の中心だった場所。古代に想いを馳せるには最適な地であることは間違いない場所です。


でも、古事記や日本書紀にもあるように、

神武天皇が東征し橿原で即位される折には、

その他に以前から住む人々のことが記されており、弥生時代前から人が暮らしていたのは当然のことで…。


大和政権が誕生したことで、

縄文時代から暮らし続けてきた地元の人々の

足跡は故意に消されてきたのか、

それとも弥生、古墳、飛鳥…と歴史が積み重なる中で

自然とそれ以前のことはわからないものとなっていたのか。


それは定かではありませんが、

とにかく縄文遺跡が極端に少ないのは事実です。


天河神社での旧暦七夕祭ご奉仕を終えた後、

阪岡さんが、縄文遺跡をはじめとした幾つかの遺跡に案内してくださるというので、ありがたく連れて行って頂くことにしました。


最初に行ったのは、宮の平遺跡で出土したものが展示されていた、川上村の『森と水の源流館』。


宮の平遺跡というのは、丹生川上神社上社がダムで移転を迫られた際、地質調査をしていて現れた、縄文後期の遺跡です。

30センチほどの直立したままの石棒が当時のままの姿で発掘されたもので、ほかにもやや傾いたままの石棒が2基、磨石、石皿、などの他に、ストーンサークルも検出されたようです。




その後、宮滝遺跡に連れて行ってもらいました。


ここは個人的に全ての天皇の中で最も好きな「天武天皇」ゆかりの地。天武天皇の母親である斉明天皇が開いた吉野宮だとされているところです。

これまで、幾度となく天武・持統天皇の御陵に行っては手を合わ、この遺跡にも数回来たことはありましたが、なぜ宮滝遺跡というのか、その名前の由来までは知りませんでした。


阪岡さんが「ここから川の様子を見てみてください」と言って案内された場所から川をのぞくと…」



見るだけでドキドキするほどの聖なる雰囲気でした。



なるほど。だから宮滝遺跡と名付けられたのですね。



宮滝遺跡は今は何も無い場所ですが、来るたびにいつも天武天皇がここで過ごされていた時代に思いを馳せることができます。



そして私のリクエストで、葛城の『高天彦神社』とそこに祀られた『土蜘蛛塚』。そして『一言主神社』に祀られた同じく『土蜘蛛塚』に連れて行ってもらいました。


少々生々しい話になりますが、

大和朝廷に敗れた縄文時代から暮らしていたそれぞれの土着の豪族の長たちの多くは、征伐という表現で殺戮され、首や胴体を他に埋められてきた歴史があります。


そうした王権に迎合しなかった、土着の豪族に対する蔑称として「土蜘蛛」という表現が用いられてきました。


縄文遺跡に行き、急に「土蜘蛛」と呼ばれ埋葬された人々のことが気になったのです。


『高天彦神社』は、古代豪族・葛城族の祖神ともされる高皇産霊神(たかみむすびのみこと)を祀っており、御神体は背後にそびえる白雲峯です。


ここは、日本神話に登場する高天原(たかまがはら)とかんがえられている、という説もあるようで、実際のところはわかりません。


参道から見えるお社も幻想的で素敵です。


ここでの目的地は、このすぐそばにあるたされていた『土蜘蛛窟』でしたが、


Googleマップを頼りに歩いてみましたが、先は柵がしてあり、行くことが出来ませんでした。



ただ、こんもりとした森の先が土蜘蛛窟と呼ばれる、先住の民が暮らしていたとされる場。


改めてお社にお参りした後、


ふと奥をみると何やら気になるものが。



直感的に、これは土蜘蛛にまつわるものではないかと思い、その横に立てられた札をよくみてみると、

やはり…


辛うじて、「土蜘蛛塚」の文字が読めました。


この神社のすぐ近くの『葛城一言主神社』にも「土蜘蛛塚」があることは知っていたので、阪岡さんに無理を言って更に連れて行って頂くことに。


葛城一言主神社には、一言主大神という葛城の土地神が祀られています。


その傍にありました。





土蜘蛛塚。


ここは謡曲にもなっている『土蜘蛛』のゆかりの地。



土蜘蛛のことを、東京に戻った後、更に色々調べてみました。


吉野に国栖(くず)という地があります。

土蜘蛛を調べると、すぐに国栖と出てきますが、これは、神武天皇の東征の折、光る井戸から出てきた尾のある人が国栖人であったとされているからです。そんな人間はいるわけもなく、蔑んだ表現であることは明らかです。


しかし、壬申の乱の折、吉野に逃れた大海人皇子が吉野に逃れた際、窮地を救い、将来に導いたのが国栖の人々であったことが『吉野旧時記』『国栖由来記』に記されているそうで…。


逃れている大海人皇子を国栖の人々は、国栖の舞で慰めたのだそう。


大海人皇子から即位して天武天皇となった後、国栖の舞は天皇より『翁の舞』と名付けられ、桐竹鳳凰の装束と楽器が与えられ、宮中で舞うという栄誉が与えられるのです。


東征の折には追いやられ、侮蔑された先住の民が、天武天皇の時代には、このような関係になったことを知り…。


ただただ嬉しく…。


今、この時代に改めてアイヌ文化が注目を集めたり、

天皇陛下の御心を多くの人が知ることになったり、


表面上は、大変な時代でもありますが、

深層では良い時代になっていることを私は肌で感じています。


吉野や熊野、葛城などがやはり日本の最古層だなぁと改めて感じた時間でした。