感覚は人それぞれ | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

先日、ブログ『テラ・インコグニタの果て』を拝読し、

言語に関するコメント
http://bit.ly/107rTDV
のひとつ(←この部分、2013年5月3日に追記)

> 言語で思考する人、映像で思考する人、
> それ以外の方法で思考する人、入り混
> じっている人
という表現について、「これは、日本語では違和感がありませんが、はじめにロゴスありの西欧人には通じないと思います。彼らに説明しようとすると、『思考』とは言語でするものであり、映像、図形、記号などで得られるものは『直感』と呼ぶべきだと言われそうです」と書きました(『今日、考えたこと』)。

はじめにロゴスありの西欧人にとっては、人間と動物を分けるものは、言語による思考ができるかどうかであって、たとえば映像による直感は、人間にも動物にもあるもののようです。さような西洋的「常識」に則れば、映像による直感を中心に動く人間は、もはや十分に人間らしくはありません。せいぜい、「人間と動物の間に立つ者」(©テンプル・グランディン)、もっと言えば“funny animal”ということになるのかも知れません。私個人は、そういう捉え方に反対ですがね(『“funny”というより“fancy”』)。

テンプル・グランディンの言うような「動物感覚」にも、賛成しかねます。もっと妥当な表現があるとすれば、「純粋感覚」ではないでしょうか。つまり、言語化する以前もしくは言語化の影響を受けないところで——すなわち、その社会において文化的に「普通」という枠組みに嵌め込まれずに——物事を捉え対処できる感覚です。言語活動の影響を受けない感覚という意味で「純粋」な感覚ということです。

さて、言語活動の影響を受けない感覚という意味の「純粋感覚」が発達していたら、動物に近いのか?というと、非常に疑問です。それだったら、言語よりも記号と図形で直感的に進められる数学は「動物感覚」によるものという非常に馬鹿げたことになります。言語活動が相対的に弱いことと、映像的に捉える感覚や数学的直感が鋭いことは、それぞれ独立した現象です。言語活動が相対的に弱いから数学ができるということにはなりません。言語活動が相対的に弱くても数学ができれば適応性が高まるということはできますが、言語活動が相対的に弱い人であれば誰でも数学ができるわけではないのです。

言語化する以前もしくは言語化の影響を受けずに——すなわち、その社会において文化的に「普通」という枠組みに嵌め込まれないで——物事を捉え対処できる感覚は、私にもあります。それは、いい結果をもたらすこともあるし、問題を生じることもあります。問題が生じたら、状況に応じて、また対処すればいいだけのことです。

長子が生まれるとき、私は歌を歌い、生まれたあとは歌うだけではなく、舐めました。あまりにも可愛かったので舐めたら、おいしかったのです。毎日、おいしい、おいしいと舐めていました。赤ん坊も喜んでいました。そのうち、赤ん坊の体調が味に反映されることに気づき、そのあとは、それを健康管理に役立てました。体調が低下すると、味が変わるのです。感覚は人それぞれです。これは、赤ん坊がきゃっきゃと喜んでいた数か月は続けていましたが、あるときから赤ん坊が「いや~ん」という顔をするようになったので、やめました。それでも、赤ん坊の皮膚の味で体調を観ることは、かなり合理的なようで、そうしている間は一度も熱も出さず何の病気にもかかりませんでした。

その話をして、ほかのママにも「試しにやってみない?」と訊いてみるのですが、これまで誰一人として「じゃあ、やってみる」という人はいませんでした(笑)。これ、今の日本では、世の非常識なんでしょうね。しかし、やっていることは、五感を鋭くして、ケアする対象である赤ん坊を観察することによって健康管理を進めるというだけのことであり、それほど不気味なことではないはずで、世界は広いのだから、そんなふうに赤ん坊を育てている社会もあるかも知れませんよ。感覚は人それぞれなのです。



今日のタイトルに関係ある話は、これで、終わりです。ここから先は、とりとめのない思い出話。

私の産みの母は、実は私を産みたくありませんでした。すでに男の子が一人いたので、それで満足しており、子どもは一人でいいと言っていたのです。しかし、一人っ子だと子どもが可愛そうだと周囲に説得されて、しぶしぶ産んだのが私。生まれてみると、そりの合わなかった姑にそっくりだったそうで、母は、それきり一度も授乳せずに放置し、3歳まで私を育ててくれた人は別の女性だったそうです。しかし、私が3歳のとき、父が転勤になり、そのおばさんと別れることになり、実母の手に戻されてしまいました。母は、乳幼児期の私には怖い人だったようで、母の顔を見ると私が泣くというので、可愛げがないとされて、ますます疎まれました。しかし、引越先では、すぐ3年保育で保育園に行くことができ、朝、母親から別れるときに泣かなかった3歳児は私だけでした。大変ほめられて、母は鼻高々でしたが、当たり前のことです。母親といると何でもすぐに折檻ですけど、保育園にいれば安全でしたからね。また、隣に同じくらいの年頃の子どもがいる家があったので、その家に入り浸って育ちました。ラッキーですね。母は、ことあるごとに「あなたなんか産むんじゃなかった」と私に向かって喚いていました。私は「そのようですね」と相槌を打っていましたが、「産んでしまったことは、もう取り返しがつかないので、しかたないのではありませんか。お父さまが勧めるように、養女に出したらどうですか」とも言ってあげていました。でも、そうすると、母は「あなたの、そういうところが憎らしいのよ!」と言って泣くので、「あ~これは、どうしようもない」と諦め、以後、「あなたなんか産むんじゃなかった」と言われても聞き流すことにしていました。そのうち、「あなたを産んでやったのは私よ」「養女に出さないで家に置いといてやることに決めたのは私よ」に変わりました。はあ? 布団叩きで叩くくらいなら、養女に出して欲しいけどなあと私は内心思っていました(笑)。

母について思うことは、産みたくないのに、ノンアサーティブに産んでしまったことが第一の失敗でした。母は別に悪い人ではありません。「普通の人」です。自分が産もうと思って産んだ可愛い子どもならば可愛がることができたのでしょう。ちなみに、兄は母から溺愛され、過干渉に苦しんでいました。過干渉に対処しなければならなかった兄と、折檻に対処しなければならなかった私は、力を合わせて母の支配を切り抜けた同志であり、お蔭さまで兄妹の関係は良好です。人間万事塞翁が馬。結局、母は自分の「身体の自由」という人権を知らずに放棄してしまったがゆえに私を産んで、えらい嫌な目に遭ってしまった被害者でもあるわけです。しかし、人間万事塞翁が馬ってことで、死ぬときは私に介護をさせて満足だったのですから、結局は、それでも良かったのだと思います。母は、「娘が看取るのは当たり前」だと考えていました。私は、そうは考えていませんでしたが、現実問題、母のような我が侭な人の介護を誰も引き受けてはくれず、私としては見捨てるわけにもいかず、結果として、私の手に落ちてきたのです。私を「親孝行」と褒めてくださる方も結構いらっしゃいますが、そんな上等な話ではなく、私は、そういうシチュエーションから上手く逃げることができなかっただけなのかも知れません。「ああ、どうしよう」と思っているうちに、私が看取ることになってしまったのです(笑)。間抜けだな……。

さて、自分の出産で入院中に父までが倒れ、私が産科から退院したときは両親とも既に臥せっていたので、まずは産科から赤ん坊連れで父の入院先へ直行。父が母とともに自宅療養になったころは、赤ん坊の首も据わっていたので、ほとんどいつも背中にくくって、仕事をしていました。その頃の仕事は主にソフトウェアのローカライズ。介護すべき両親の枕元にパソコンを置いて作業しながら、授乳とオムツ換え、赤ん坊の入浴。病人が水が欲しいと言えば水を、トイレといえばトイレ、それから家族に三度の食事を出す、晩には老親の入浴か清拭。そういう毎日でした。ツレは何の役に立たないので約1か月は放置(←可哀想だったが)。餌(食事)だけ与えていました(笑)。ツレのことは、どうにもなりませんでした。元々母の介護のために私は仕事をしながらも家に戻っていたのですが、出産した日に父の腫瘍が破れて緊急手術となり、一気にダブル介護になったため、ツレにオムツの換え方を教えるとか家事をしこむとか、そんな余裕はなかったのです。仕事では結構、厳しい締め切りもあったし。

まずいことにツレは生活能力がほぼゼロでした。独身時代は自炊していたと吹聴していたのですが、結婚してから実は嘘であったと白状した——馬鹿なヤツ……。パーティに出すような料理は作れても、日常のお総菜は全然ダメなの。そんなことでは食い倒れてしまうぞ。それにメタボになる。ツレは飯だけ与えられて放置された状態に不満で、文句ばかり垂れていました。困ったことにツレは不器用で、生まれたての赤ん坊の入浴を引き受けようとしてくれたのは良いのですが、湯船にボッチャンと落としてしまいました。ツレは驚愕して「わぁっ」と喚き、その声を聞いた私が風呂場に急行したときは、我が家のボンボンは湯船のなかで泳いでおりました。湯船にボッチャンって——湯船で坊ちゃん、泳いでるよ……と私は言ったのですが、ツレはそれが虎馬になってしまったのか、以後、数か月、赤ん坊の入浴は、やってくれませんでした。父が退院して一段落してからオムツの換え方も教えたのですが、その際、換え終わったときにツレが赤ん坊を抱き上げたとき、家具にゴインと赤ん坊の頭をぶつけてしまいました。赤ん坊は、むっとした顔をしましたが、別に泣きもしませんでした。しかし、ツレが「わぁ~、どうしよう、頭をぶつけちゃった、ねぇ、頭をぶつけちゃった」と大騒ぎしたので、それを見て赤ん坊も泣き始めました。私が抱き取るとすぐ泣きやんで、痣にも瘤にもなっておらず、大したことないよと言ってあげたのですが、ツレはそれが虎馬になってしまったのか、以後、数か月、赤ん坊のオムツ換えは手伝ってくれませんでした。

ツレは何もせず、することは、文句を言うことだけ。たとえば私が背中に赤ん坊をくくって働いていると、アイコンタクトが取れないから子どもがまともに育たないだろうなどと、いちゃもん付けていました。はいはい。このことは、子どもが大きくなってからも周囲の人に「アイコンタクトを取っていなかった」とツレが吹聴したため、誰しもが、私が自分の障害ゆえにアイコンタクトを取らなかったとミスリードされています。「アイコンタクトが全然なくても、ちゃんと育つお子さんもいるんですね」などと皆さま、仰っていますが、そういう話じゃないのです。現実は、ほとんど背中におぶって仕事をしていたから私とのアイコンタクトがあまりなかっただけで、背中の赤ん坊は、私が会う人会う人とアイコンタクトを持っていたのです。このことは、いくら説明してもツレには理解できないようで、まさしくバカに付ける薬はないとしか言いようがありません。背中におぶった子とアイコンタクトが取れたら、エクソシストに出て来るお嬢ちゃんですよ……(笑)。

そういった状況に、私の友人は、ツレが酷いヤツだと言いますが、あれはあれで、努力した成果でした。どういう努力かというと、私に八つ当たりをするくらいで我慢して、他所に女を作らなかったということです。ちなみに、ツレを婿に欲しいと言う人がいれば、是非差し上げたいとも思ってきました。というのは、不満で不満でしかたないので、それなら、再婚したらよい。私は、いつ終わるとも分からない自分の親のダブル介護に巻き込まれてしまいましたが、ツレまでが一緒に巻き込まれて、愉しい人生を棒に振る必要はないからです。結局、葬式が終わり、すべてが片づくまでに8年かかりました。母危篤で戻ったときは余命3か月と言われていたのに、そういうわけで、私の人生設計は全部きれいさっぱり崩れました。そうして今は、うつ病です。もう回復期ですが、ツレは私の脳の脆弱性を知って、将来を悲観しています。こういった私の人生の困難に、ツレまで付き合う必要はないのです。それに、はっきり言えば、私が出す飯の内容に苦情、掃除のしかたに苦情、私の通院に反対、服薬に反対と、ヤツは私の足を引っ張ること以外にしたことがありません。共稼ぎですが、ツレの稼ぎは私より少ないので、家計費は、これまで私が全額負担してきたのです。そんなヤツでも、ちゃんとした別の女となら愉しくやれるでしょう。でも、ツレは、離婚して別の人とやり直す気はありませんでした。子どもも可愛い盛りだったし。それで、ツレにとってあり得る選択肢は、ちょっと心の慰めに遊び相手を探してしまうというくらいでした。それはマズイよね。相手の女性が気の毒でしょ。でも、それをしなかったんですね。そういう面倒を起こさなかっただけでも、御の字です。

随分、程度の低い達成だと思われるかも知れませんが、人間なんて、そんな高級な生き物ではありませんよ。まあ、広い世界には崇高な人間もいることはいると思いますけどね。一説には、他所に女を作らなかったのではなく、単に「女房が思うほどには、亭主、モテもせず」だっただけというのもありますが、まあ、結果は同じですから、どちらでもよいことです。解釈はお好きにどうぞ、と思います(笑)。本人は、自分が我慢したのだと思っているので、私もそう思ってあげることにしています。イヂワルな友達だけが「単に『女房が思うほどには、亭主、モテもせず』」説を取るというわけです(笑)。

さて、赤ん坊は大きくて力強く、生後4か月でハイハイを始めました。すると、ツレは大変喜んで、赤ん坊と一緒にハイハイ。赤ん坊も喜んで一緒にハイハイ。この頃から、ツレは赤ん坊と添い寝をするようになりました。正確に言うと添い寝ではなくて、中年太りの腹の脂肪の上に、赤ん坊を俯せ寝させていました。これがまた赤ん坊には大変気持ちがいいらしく、すやすやと眠るのでした。私も試しにやってみましたが、確かに素晴らしいクッション性がある! メタボ体型のご主人をお持ちの皆さま、減量前にお試しあれ。ちなみに、ツレは、中年太りの峠を越えて、残念、クッション性が落ちてきました。

6か月には体重10kgになり、つかまり立ち。俄然、赤ん坊の世話が愉しくなり、ツレは、お風呂に入れたり、オムツを換えたりして大喜びするようになりました。ツレは、私のオムツの換え方が「はいはい、オムツびしょびしょですね~、換えましょうね」とパッパと換えて「あ~いい気持ちね~」終わり——と手早すぎて愛情を感じられないなどと言うので、「ほう、じゃあ、あんたがやればいい」と任せたら、最初にオムツを換えるとき、丁寧に30分以上の時間をかけていました。暇なヤツはいいよなぁと私は思いつつ好きにさせましたが、一応、「あんまり時間をかけると、次のが来るよ」と教えてあげたものの、ツレは人の言うことを聞いていなかったので、次の排尿の噴水を顔面に受けて「わぁっ!」と驚いていました。バカだねぇ……。しかし、実は、そうバカでもありませんでした。一度の失敗から学習したからです。

赤ん坊は好きなだけ這いずり回り、何だか足元に子犬がいるみたいな感じでした。たとえば嫌いなお客さんが来ると、猛スピードで私の後ろに隠れる。これは問題なし。好きなお客さんが来ると、その足を舐める(-_-;)。私は平謝り。そのうち、いくらダメと言っても、オムツを勝手に脱いでしまうようになりました。オムツをしていると動き回るのに邪魔なのでしょう。初めは、「はい、ちゃんとオムツしときましょうね」と着けていたのですが、何しろ両親ダブル介護に仕事もしていますから、やっていられず、諦めてしまいました。しかし、そこらで排尿排便されては困るので、決まった場所にオマルを置いて、犬猫のトイレの躾と同じように、トイレの躾。何しろ、伝い歩きは一応できても、大半はハイハイして移動していたので、まさしく仔犬のよう。オマルまでハイハイして行って、そこで用を足していました。大便のときは匂ってくるので、そうしたらオマルのところに行って、お尻をふいてやってオシマイ。大便は朝晩2回でした。小便は勝手にしてくれるので、半日に一度、中身を捨てて、ゆすぐだけ。何て手間要らずなんだ~。ラッキー。

生まれたてのときは1時間に1回だった授乳も、生後4か月には2時間半おきになっていました。別に私が時間を計って授乳管理をしていたわけではなく、赤ん坊が勝手にオッパイを飲みに来るので、どういう時間に来るのか観察していたら、朝4時を1回目にして2時間半おきに、6時半、9時、11時半、午後2時、夕方4時半、それから入浴して寝てしまい、次は通常は朝4時。○○ちゃんの腹時計は精確ね~と評判でした。夜泣きは一度もなし。ただし、夜遅くの来客などでリズムが狂うと、夜中にオッパイを飲みに来たりしましたが、私が目を覚まさなくても、勝手に飲んでいたそうです。私が疲れ切っていたためか目を覚まさないと、ツレは激怒して、殴る蹴るしたそうで、確かに朝起きると痣だらけでした。でも、そのときは、どうしても目が覚めませんでしたね。いくら頭にきたからって、それじゃあ結果的にDVじゃないかと私は言い、ツレも、どうしても目が覚めない私を殴る蹴るしても無意味だと納得して、それは何回かで止めました。私は授乳しやすいようにLLのTシャツを着て寝ていました。それで、私の目が覚めなくても、そもそも赤ん坊は別に泣くこともなく勝手にオッパイを飲んでいたのだから、ツレが騒ぎ立てることは初めから何もないのです。問題は、目を覚まさない私にあるのではなく、「母はかくあるべし」という聖母マリアのような母に対するツレの固定的な脳内イメージにあるのです。こういうこと、いくら説明しても、ツレは頭が悪いので理解できません。バカの壁ってことですな。

ちなみに、赤ん坊には、寝るときだけオムツをしていましたが、ほとんどの場合、朝脱ぐときに濡れていませんでした。それは何故か?——単に体が大きくて、膀胱も十分に尿を溜められる大きさだったからに過ぎません。大きい赤ん坊は育てるのが楽です。問題は、出先で寝てしまうと、重くて溜まらんということです。重くて溜まらんと思いつつ、背中にくくって担いで帰ってきましたが(ベビーカーが大嫌いだったので)。

生後8か月。ダメと言えば、やめることができるようになって、賢いねぇと親ばかちゃんりん。私がパソコンに向かってタイピングしているのを見て、触りたがるので、私の古いタイプライターを出して、mama mama mamaと打って「まま、まま、まま」と言うと、大喜びで真似してやっていました。そのうち、オッパイをもらいに来るとき「まんまん」と言いながら来るようになりました。しかし、「ママ」と言いたいのか、「まんま」(食べ物)と言いたいのかは不明でした。多分、赤ん坊は「ママ」と「まんま」(食べ物)を区別していないのです。

それを見て、ツレは「パパ」と言わせようと頑張りました。もちろん、うまくいかず、「やっぱりパパなんか、どうでもいいんだ~」と嘆いていました。バカですね~、そんなん、難しくて言えるわけないやん。パピプペポを言うのは難しいのだ……。と説明したら、「ママ」「パパ」と呼ぶことにしたのは、赤ん坊を独り占めしようという母親たちの陰謀だったのではないか、などと申します。その辺は、どうだか知りませんが、そもそも赤ん坊にパパ(父親)などという概念が理解できるはずもありません。我が子はいずれも「パパ」と言えるようになってから3歳くらいまでは、相手にしてくださる男の人を誰でも「パパ」と呼んでいました。つまり、我が子は男女差を見分けている上、自分の相手をしてくれる大人の男性しか「パパ」と呼ばないわけで、十分に賢いと私は思うのですが、ツレは大変に不満でありました。こういう時期に、さっと父親を取り換えちまっても、子どもは気づかないで育つのだろうか?ん(^___^)b——な~んて不埒なことを考えたりして。

「母親は得だね、オッパイがついているだけで特別なんだから」とツレが文句を申しますので、シリコンゴムの乳房型哺乳器を買ってあげようか?と訊いたら、そんな気持ちの悪いものは要らない——と言っていました。シリコンゴムでできた乳房の形をした哺乳器があって、米国で商品化されています。ミルクを入れて栓をして、タスキがけにして、シリコンゴムでできた乳房に付いた乳首から授乳できるようになっているものです。授乳気分を味わいたいパパに最適!と売っていましたが、そんなもので授乳の気分が味わえるのかは疑問ではあります。まあ、世の中には、いろいろなことを考える人がいるものです。

1歳くらいになると、歩くのも上手になってきたので、600メートルくらいのところにあるスーパーマーケットに毎日、買物に連れて行き、歩いてもらいました。自転車で行けば私も楽ができますけど、それでは母子ともに運動不足になりますから、よくありません。で、徒歩で往復1.2キロメートルというわけ。ぼちぼち母乳だけでは足りなくなってきていたので、毎日コップ2杯くらい牛乳も足していて、1リットルパックの牛乳を買って「これは○○ちゃんの牛乳ね」と言って渡すと、にこ~っと喜んで、帰りはそれを抱えて、えっちらおっちら歩きました。この頃、すでに体重12kgで、もうおんぶだの抱っこだのしようとは思いませんでした。本人も歩くのが好きみたいだったし。ただし、やはり1歳児。ときどき、疲れると、ウルトラマンがシュワッチと飛び立つような動作をして抱っこをお強請りしました。そのときは、休憩することにして、私がかがみこんで抱きしめてやり、「よしよし、疲れたね、ちょっと休もうね」と数分だけ休憩、「じゃあ、もうちょっとよ、家まで歩こうか」と、また歩いてもらいました。ちなみに足は14センチで、お祝いに何足もいただいてあった12センチの靴は全部出番なしでした。

この、オムツもしていない、でかい1歳児を連れて歩いていると、話すときに1語文なので、周囲の人は、たいがい知恵遅れの2、3歳児くらいに思っていて「可哀想にね」と噂していたそうです。ご近所ママと付き合う暇がなかったので、そういう面白いことになっていました。

2歳くらいからは、ときどき、両親の介護を兄に代わってもらって公園に遊びに行き、ご近所ママと多少付き合いができました。皆さん、オムツはずしのことばかりに興味が行っていて、我が子がオムツでないため、どうやってオムツはずしをしたか、そればかり訊かれました。オムツはずしは私がしたのではありません。生後半年の赤ん坊が勝手に外しちゃったのです、以来、家のなかでは、すっぽんぽんでした——と正直に言っても、誰も信じません。正直に話しているのに信じないなら、初めっから訊くなよ!——と思って、だんだん馬鹿らしくなって、付き合うのをやめました。そこの公園に来る母親は、連れてきた子どものことは放置して、オムツ外しと保育園はどこがいいという以外の話は、どこのイタメシ屋がおいしいとか母親どうし駄弁ってばかりいるので、私は子どもたちに混じって遊んで過ごしました。

あのときは仕事に家事にダブル介護と体力的には大変でしたが、赤ん坊までいて、しっちゃかめっちゃか、面白かったですよ~、赤ん坊のいる暮らし。それから、ホルモン・バランスにも関係があるのか、妊娠から出産を経て授乳中だけは、希死念慮が一切ありませんでした。この期間だけは血圧も下が45くらい、上が100くらいあって、私の人生において最も健康であったとも言えます。

幼児になると、もっと面白いことがありました。でも、私の希死念慮は戻っていました。幼児期の愉しい話は、そのうち気が向いたら書きます。

こういう私は、どういう母親か?については、人によって評価は様々。ツレは、私がろくにアイコンタクトも取らず、夜中の授乳には起きず、外出して抱っこを強請られても抱き上げてやらなかった冷たい母親だと言います。ほかの身近な人たちは、私が賢くて母性あふれる人間だと言います。それというのも、稼業と両親のダブル介護だけでも大変なのに、母乳育児(粉ミルクにしてしまえば他の人に授乳を代わってもらえる)、布オムツ(紙オムツは赤ん坊の肌には不快かも知れないが、紙オムツにしてしまえば手間が省ける)、そして、毎日の買物で自分が楽をするには自転車を使ってもいいのに子どもを歩かせて鍛えた——というわけです。さあて、どちらが正しいとも私は思いません。私には、授乳は愉しいことだったのです。布オムツも経済的で助かるとも思っていました。買物を子どもと徒歩ですることは、自分の運動にもなったし、1リットルパックの牛乳を自分で持ってくれる長男は頼もしかったし、すべては、ただ単に幸せなことだったのです。生まれた子どもを舐めてしまったことから全部。——テンプル・グランディンならば、私が思わず我が子を舐めたことなど「動物感覚」の一例だと言うかも知れません。しかし、私は確信があります。私は「人間と動物の間に立つ者」などではありません。私は、生物学的に人類の一員であり、単なる一人の母親に過ぎません。

聖母マリア的な母親のイメージと合わないということで私を非難しているツレの物語も、母乳育児、布オムツ、徒歩の買物などで母性あふれる母親として美化する物語も、どちらの物語も私の実感には合っていないということです。誰が私について何を思おうと、それは彼らの自由というものです。各人、お好きな物語を妄想したらいいでしょう。それは、私には関係のないことです。子どもらには、「人はそれぞれ勝手な解釈をするけれども、放っておけばよい、たいがいは単なる勘違いなのだから」——と言っています。ふ~ん、そういう見方もありますかね、と答えておけばよいのです。