こんにちは!
とめはね教室塾長の岳雨です。
今日もお出で頂き有り難う
ございます。
今回は西晋滅亡後、難を逃れて
いた晋の王族司馬氏が
晋朝を再興し、東晋(AC317年~420年)
とした。
さて、後漢時代に統一された
とめはね書体は、
約100年間の戦国時代で
押し込められていた【ウサやウップン】を
吐き出すようにして、江南の地で
花開いた。
西晋時代に難を逃れて来た『王一族』が
主流である。
一族の一人に王羲子、王献子があって
とめはね書体の完成期を迎える事になる。
東晋王朝の貴族達の間には、
お互いの交わした尺牘(せきとく)や
詩文等を鑑賞し、愛蔵する習慣が芽生えた。
こうした事がとめはね書体の完成に
一役かったと言われている。
東晋時代の能書家は
王一族が主である。
①王羲子(307年~356年)
右軍の官職に就き『王右軍』とも呼ばれた。
とめはね書体は全ての書体に秀でて
いた。とめはね歴史上最高の大家と
称され、1600もの以前の事である。
現代のとめはねを専門に勉強する
方達には避けて通れない道である。
現代に伝わるものは、楷、行、草の
三体に限られる。
遺跡としては
楽毅論・・(348年)細楷書中第一位に
置かれるが真跡は早くから喪失。
日本では光明皇后の臨書が
有名である。
蘭亭序・・(352年)王氏のとめはねの中で
行書中『白眉』と称され、
中正温雅なとめはねで、
用筆、結体共にすこぶる変化に
富み、正に神品と言われる。
残念ながら、現今伝わって
いるものは全て後世有名書家
の臨書である。
集字聖教序・・(670年)没後300年後に、
唐太宗の命により、高僧懷仁
が王室秘蔵の中から約1800字
の文字を集め、25年をかけて
完成させたと云う。
十七帖・・王羲子の尺セキ二十九通を
集めたもの。
②王献子(344年~388年)
羲子の第七子で、父は大王
献子は小王と言われた。
遺跡としては、
中秋帖・・行頭に中秋の二字があるので
この称がある。
22字である。
洛神賦・・中間13行が残っているだけで
『洛神賦十三行』とも呼ばれている
父羲子よりも細字楷書はより
近代味があると評されている。
東晋時代は王一族の独断場であった。
次回は難南北朝時代のとめはねを
紹介していきます。
お楽しみにして下さい。
とめはね教室にお出で下さり、
ありがとうございました。