発達障害先生の苦悩の歴史とこれからの課題 | 発達障害先生、無理解者と戦う苦悩の日々

発達障害先生の苦悩の歴史とこれからの課題

(2008年7月13日のCURURUブログより)

自分は6~7年前までは生きにくさを感じながらも、定型発達の人間だと思っていた。

多少の違和感を感じながらも、小学校から高校まで大きな挫折なく生活することができた。

(仲間はずれ、イジメ、多動、苦手な事、不適応などはあったが、そんなにひどくはなかった。)



 何となく自分がおかしいと気づいてきたのは大学時代。アルバイトが続かないということだった。

塾、そば屋、洋食屋とやってきたが、長くは続かなかった。

ミスをしたり、他の人とコミュニケーションがうまく取れなかったりで、叱責されることが多くて、

挫折することが多かった。



大学は英米文学科だった。

読字や内容の理解ができない(LD)を持っていたので、

自分は人一倍頑張って勉強しなければついて行けなかった。

授業によっては突然、指名されて読まされ、意味を言わされたりするのもあった。

自分にしてみればすごく不安や恐怖が大きくて、予習をしないで授業にはでられなかった。

大学4年時に苦労に苦労を重ねた結果、うつ病にかかり体調を崩してしまった。

(でも、成績はよくてA、B、C、Dの評定で8割はAだった。)


自分はうつ病だった4年の頃は、教師になりたかったわけでなく、

何になりたいかなんてあまり考えられなかった。

教職課程をとっていたが、教員採用試験はうけなかった。

大学を就職活動もしていなかったため、卒業してもどうするかも考えていなかった。

3月に英語教員が産休に入るから英語教師を募集しているという話がどこからか耳に入り、

とりあえず電話して英語教師をやってみるかと思った。

4月から臨時採用の教師として中規模校の1~2年生の英語を担当することになった。

簡単な英語を生徒に教えるのは大丈夫だろうと甘い考えをもっていた。

しかし、理想と現実は違っていた。英語教師の仕事は単純なものではなかった。

英語教師には黒板の文字を書く、説明する、教科書を読む、例文を考える、生徒会話する、

生徒の様子を観察するなど、複数のことを同時にこなしたり、瞬時に切り替えたりする能力が

必要とされる。

自分には一度に複数のことをやる能力、瞬時に切り替える能力がないと言うことがわかった。

結局どうなったかというと、授業をするだけで頭がいっぱいで、生徒の様子が把握できなかったり、

混乱したりうまく授業ができなった。

生徒が手紙をまわしていても、出歩いていても、漫画を読んでいても気がつかなかった。

今では多少は解消されたが....


やっぱり人間関係でも他の人たちと考えを同じくして行動したり、

指導したりすることができなかった。

コミュニケーションを図れるのも難しかった。

何度も異動で学校がかわっても人間関係の問題はどこの学校でもあった。


それから、周りの雰囲気が読めずに、自分勝手だと思われるような行動も多かった。


何度も何度も挫折して落ち込んで何度も何度もうつになった。

それをくりかえす度に不安や恐怖が増してきて人と接することが怖くなってきた。

もともとは明るく活発な性格だったが、次第に暗く消極的な性格に変わってきた。

心は徐々に壊れる一方で回復することはなかった。

徐々に重くなっている心の荷物を引きずって歩くようで感じであった。


自分は「なぜ失敗が繰り返すのか?」「なぜ他の人と関わることが難しいのか?」

「なぜ他の人と合わせることが難しいのか?」などずっとずっと悩み苦しんできた。


そんなことに苦しんでいる中で、息子がADHD(現在は広汎性発達障害)と診断を受けて、

しばらくして、もしかしたら自分もそうではないかと疑うようになった。


自分の人生を振り返ってみると失敗ばかり、うまくいったためしがない。

自分もADHDではないかと思ってたくさんの精神科の病院を渡り歩いた。

(隣の県の大学病院まで行ったこともあった。)

当時はどこに行ってといっても大人の発達障がいは簡単には認めてくれなかった。

ついた診断名は抑鬱状態、うつ病、統合失調症、自律神経失調症、適応障害、不安障害、

パニック障害、強迫性障害、解離性障害などいろいろ。

結局2年前になってやっと近くの病院2カ所で認めてくれた。

片方はアスペルガー症候群、片方は多動性障害(ICD-10の方の診断名)。

やっと認めてもらえてすごくうれしく思えた。

後天性精神疾患から先天性発達障がいになった。これで発達障がいの当事者として

外に自分の思いを堂々と言えるようになったことがとてもうれしく思った。

 現在、休職中(学校へ行って仕事をしているが休職中)である。

その休職のために必要な診断書(教育委員会提出)の文書(2カ所の病院)には発達障害、

注意欠陥多動性障害ときちんと記されている。

自分は休職中にもかかわらず、あちこちで発達障害への理解と自分の思いをを訴えている。

今後も訴え続けたいと思っている。自分のためだけじゃなく、悩んでいる人たちのためにも.....

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【過去を振り返って今思うこと】

以上の内容は過去のものであり、現在は周りからの理解も得られて、

自分の得意な分野を生かすこともできて、特に大きな苦痛もなく過ごすことができている。

過去は苦いものであったが、苦い過去はよい経験でもあり、

今後の自分がよく変わっていくための大きな課題にもなった。

自分の過去を思い返して反省し、日常生活や学校生活で改善を図るとともに、

苦い経験を元にこれからも、多くの人たちへ、自分は当事者として、保護者として、教師として、

自閉症スペクトラムや発達障害についての理解啓発活動に取り組んでいきたいと思っている。


他の人たちはどれか1つ、または2つ立場でしかないだろう。私は3つの立場で物事が考えられる。

そう思うと、自分は貴重な存在であって、理解啓発をおこなうことが私の使命なのではないかと

感じるのである。

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