「あの方は私達の一員ね」
英国エリザベス女王の母クイーンマザーは、オードリーが謁見した際に孫娘のアン王女に身を乗り出して囁いたそうです。
Audrey Hepburn getting ready on the set of Roman Holiday
クイーンマザーがどれほどオードリーのことを知っていたかはわかりませんが、つまり「(特権階級)のひとりね」という意味。
“It has been repeated…that when the Queen Mother first saw my mother, she leaned over to Princess Anne and whispered, ‘She’s one of us.’” - Sean Hepburn Ferrer (son of Audrey Hepburn)
Audrey Hepburn photographed by Cecil Beaton, 1963.
オードリー・キャスリーン・ファン・ヘームストラ・ヘプバーン=ラストン、別名「エッダ・ファン・ヘームストラ=ラストン」
※戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)オードリー。
お母様が男爵夫人で貴族の血をひいており、先祖がオランダ首相で憲法を草案し、一時は国外に逃れていた国王をオランダ国王として帰国させ、オランダ王家とも親密な関係にあったヘームストラ家とラストン家。
オランダ、ユトレヒト州の小さな古城「ハウスドールン(Huis Doorn)」はドイツ最後の皇帝及び第9代プロイセン王 ヴィルヘルム2世が、1920年から逝去するまで亡命生活を送った場所として有名ですが1918年のドイツ革命勃発に伴い、オランダへと亡命しました。
ヴィルヘルム2世が1919年にハウスドールンを購入した当時、持ち主はヘームストラ男爵夫人(バロネス・ファン・ヘームストラ)、つまりオードリー・ヘプバーンの祖母でした。オードリーの母エラは、少女期をこのハウスドールンで過ごしました。
ヴィルヘルム2世の遺言は「ドイツに王制が復古したら墓はドイツに移して欲しい」という内容でしたが、ドイツは王制に戻ることは無く、ドイツのラストエンペラーは現在もハウスドールン敷地内の霊廟に眠っています。
オードリーはロンドンから中立国のオランダでに戻りましたが、ナチスの占領下にあったオランダのアルンヘムで少女時代を過ごしました。
ナチスによって父との関係を失い、オードリーと男爵夫人であるオードリーの母は戦争ですべてを失います。アルンヘムの地下室でナチスの恐怖に怯え、叔父が処刑されたり、兄が強制収容所に連行されたりの中で、食べるものも着るものも殆ど無く、野のチューリップの球根で飢えを凌ぐ毎日を過ごし、バレエやレジスタントの活動をしました。戦争が終わり、ロンドンに出てきたのは16歳。
写真のモデルやナイトクラブのダンサーをしますが高身長の為に、バレリーナへの道を断念し、ミュージカルのオーデションを受け、22歳の時に『われらモンテ・カルロより』の端役の花嫁のシーンをホテルで撮影中、コレットがオードリーを見て「ほら、見て。あれが私のジジよ。」と運命が切り開かれていきます。