「王族とは、継続性を象徴するのです」そう考えていたグレース・ケリーは、長女カロリーヌ公女の一度目の結婚(1978年)が早すぎると感じていたそうです。
祖母 グレース・ケリー モナコ公妃
まだ21歳。相手は17歳年上。相手はプレイボーイとして名をはせていたため、もっと着実に幸せになれる相手を探してほしいと。しかしその思いは娘には届きませんでした。
Princess Caroline told her parents about her relationship with Philippe Junot, they became very worried and didn't approve it very much.
母 モナコ公女カロリーヌ
グレースはまた、このような言葉を残しています。
「幸福、幸せであるということが、永遠に続く状態はないのだと思います。人生ってそんなものでしょう?」
誰にでもあてはまるのですが、この言葉は皮肉にも、娘カロリーヌの人生のよう。
(カロリーヌ公女の希望で爵位なし)
母の深い思いは娘には伝わらず、カロリーヌ公女は1978年Philippe Junot と結婚し...1980年に離婚。仲の良かった親子の溝は深まるばかりでした。グレースは交通事故で1982年に突然この世を去りました。
グレースは1982年の事故直前に、パーティーや社交界で華々しく遊び...すぎるやんちゃな二人の娘の行く末、他への思いやりを心配するインタビューを残しています。
1978年1月28日、1度目の結婚 civil ceremony
Caroline was 21 when she married 37-year-old Philippe Junot. This image was taken during the couple's civil ceremony, held on June 28, 1978
1978年1月29日 結婚式
Their religious marriage took place on June 29, 1978 at the palace. Pictured in the background are the bride's parents, Rainier III and Princess Grace
グレースの死後、1983年めぐりあわせのようにカロリーヌ公女は大切な相手ステファノ・カシラギに出会い、落ち着き、3人の母になりました。
しかし幸せは長く続かず、大切な大切な夫を1990年33歳の時にに急な事故で亡くすことに。
1983年12月29日、2度目の結婚 civil ceremony
Princess Caroline married Stefano Casiraghi in a civil ceremony on December 29, 1983 at the Grimaldi Palace. Rainier III was already a widower following the tragic passing of Princess Grace in a traffic accident the previous year
1984年6月8日、妊娠6か月と発表。この七年後、夫は突然事故死。
At the time, the princess was already expecting her first child, and Andrea Casiraghi was born six months later on June 8, 1984. Sadly, seven years later, Stefano died in a high speed powerboat crash
Caroline and Stefano with the Trio in 1988
モナコ公室は自由過ぎるところはありますが...娘シャルロットが年上でコメディアン兼俳優の方の子を産む娘をどんな思いで見ているでしょうか。グレースのように、内心幸せになれる相手との結婚を望んでいるのか...。自分のように3回でも心の向くまま...と思っているのか。(モナコ公室は二人が婚約したことを発表しました。お兄様アンドレア氏が8月31日に結婚するので、拒否しなければサッシャ君が王位継承権を得ることに。)
今までご紹介したグレース・ケリーの言葉
「娘たちとはお互いに愛を与え尊重してきました。しかし親友にはなりえない。 」
「生まれる変わるなら...?犬がいいわ。気楽そうだから。」
「私は女優に挑戦したように、結婚にも挑戦したのです。」
以前にもご紹介したグレースの人生を少しだけ振り返ります。グレースはいつも両親の、とくに父親の愛を乞い続け、その思いは生涯彼女を捉え続たといわれています。
1929年グレース・ケリーはアメリカ・フィラデルフィアの裕福な家庭で生まれました。
1920年、アントワープオリンピックでボート選手として金メダルを取ったことのある父親にとって、内気で身体の弱く、芸術と読書が好きなグレースは愛せる存在ではありませんでした。父は兄や姉をかわいがり、「グレースに出来る事なら姉のペギーならもっとずっと上手くこなせる」と公言していてました。この言葉は呪いのようにグレースの人生に付きまといます。また母親も、グレースより妹をかわいがりました。
グレースは幼少病弱でしたが、女学校でどんどん美しく成長し、 ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志し、ニューヨークのアカデミ-・オブ・ドラマティックア-ツに入学。1949年にブロードウェイデビューしました。1951年、22歳で映画デビュー。そしてアルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優となり『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』とヒロインをつとめます。
そして1955年、「喝采」でハリウッドの頂点に輝きました。アカデミー主演女優賞に輝いたグレースのスピーチはとても短いものでした。そしてその後のインタビューで「これでやっとケリー家の一員になれました。」と語りました。
しかし父は記者に、喜びの言葉ではなく、あの言葉を放つのです。「信じられない。姉のペギーならば....」グレースにとっては人間として、女優として世間がどう彼女を評価し、褒め称える言葉を聞いても意味の無いものだったのかもしれません。
公妃になったあとのインタビューで(『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞して)「私は幸せではなかったの。名声はありました。でもそれを一緒に分かち合う人がいないと、あまりにも空虚に感じるでしょ。」と振り返っています。
父の気に入らない相手はどんなに恋をしていても別れました。そしてグレースは運命の相手と、父が満足してくれる最高の結婚相手を見つけました。父は取材陣に「こんなに素晴らしい結婚式は見たことがない」と賞賛の言葉を残しました。でもグレースを認める言葉はなく...。
シンデレラストーリーは続きますが、モナコ公妃となった彼女の人生は波乱に満ちたものとなりました。
ヨーロッパの上流社会・宮中のしきたり、偏見、語学の壁。夫の愛人のうわさ。良い妃、良き妻、子供たちの良き母・・・・。晩年のグレース妃はアルコールをかなり口にするようになって体型が崩れてしまいました。
モナコ公妃になってアメリカに帰国した際、パーティーを開きました。華やかな社交場に父は「うんざりだ。グレース」と言葉をかけました。その後しばらくグレースが実家から距離を置きます。それでも自分の居場所を見つけるように、現在のように裕福ではなかったモナコにカジノや観光客の集客、バレエをはじめとする芸術への貢献をしました。
1962年、父ジャックの死でグレースは最後まで自分を認めてくれていなかったということを知り、「一度でいいから父に愛されたかった」と泣き崩れたそうです。
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