島津義久が秀吉に降伏したのち、龍造寺は秀吉の知行割に従い、肥前一国のうち七郡が安堵されます。
直茂は秀吉にも能力を認められ、天正一八年(1590)に病がちだった当主の政家が隠居すると、いよいよ龍造寺家内での直茂の立場は確固たるものとなります。
秀吉も、事実上、直茂を当主として遇することになりますが、龍造寺家の当主はあくまで、わずか五歳で父政家から家督を継いだ高房でした。
このことは、秀吉の所領安堵状が龍造寺高房宛てであることからも分かります。
ただし、高房の名代であるとはいえ、直茂は朝鮮出兵で龍造寺軍団を率いて奮戦し、この朝鮮出兵によって、直茂は龍造寺家臣団を完全に掌握します。
その間、龍造寺家臣団は当主の高房のみならず、直茂とその嫡男の鍋島勝茂に忠誠を誓う起請文を出しています。
表看板は龍造寺家の単独政権に見えつつ、実際には「龍造寺・鍋島連合政権」であったといえるでしょう。
慶長三年(1598)八月、朝鮮出兵中に秀吉が死去すると、直茂はその年の一二月に釜山から帰国しました。
二年後の関ケ原の合戦では西軍に与した嫡男の勝茂を佐賀へ呼び戻し、危ういところで龍造寺家が改易となる窮地をしのぎました。
天下分け目の関ケ原の勝者となった徳川家康も秀吉と同じく、直茂を龍造寺家の当主として扱います。
(つづく)
サブブログもぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/omosirorekisigaku/