当時、高齢に達していた直茂は、勝茂への家督継承を図ろうとしていましたが、世間はその勝茂を事実上の佐賀藩主とみていました。
たとえば、江戸幕府から命じられた城普請の現場で、龍造寺家の受け持ち区域は「鍋島信濃守(勝茂のこと)丁場」などと呼ばれているのです。
幕府も龍造寺高房を正式な佐賀藩の藩主とは認めず、慶長一二年(1607)、そのことに憤慨した高房は妻を殺害してみずからも自殺未遂を図り、その傷が元で亡くなってしまいました。
当主が不慮の死を遂げ、龍造寺の嫡流が絶えたわけですから、藩そのものが取り潰される恐れもありました。
しかし、そうはなりませんでした。
幕府が直茂を事実上の藩主とみなしていたからです。
その三年後、勝茂が鍋島家の家督を継ぎ、初代佐賀藩主となります。
以上みてくると、禅譲か、簒奪かという問題より以前に、そもそも「下剋上」とはいえないように思えます。
直茂は隆信の「弟」で、いわば龍造寺一族です。
事実、隠居した龍造寺政家は鍋島に龍造寺姓を与えようとし、一時、勝茂は龍造寺姓を名乗っていました。
つまり、同じ一族間での政権移譲とみられ、下剋上とは別物。順当な家督継承とみなすことができます。
ただし、直茂が幕府や世間にそう思わせるように仕向けた一面があったことだけは付記しておきたいと思います。
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