「腰越状」をめぐる謎と真相①[梶原景時と大江広元] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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源義経が兄頼朝の勘気に触れ、その弁解のために滔々と綴った「腰越状」。



今回はその腰越状をめぐる謎解きにチャレンジしたいと思います。



まず通説により、義経が腰越状をしたためた前後の情勢を確認しておきましょう。


平家一門を壇の浦(下関市)で滅ぼして京に凱旋した義経は、梶原景時らの讒言によって兄頼朝の怒りを買ってしまいます。


兄の怒りを解こうと、元暦(げんりゃく)年(1185)五月七日、義経は京を発ち、捕虜平宗盛父子を護送しながら鎌倉をめざしました


しかし、頼朝は宗盛父子の身柄を受け取ったものの、弟の鎌倉入りを許さず、義経は鎌倉のすぐ手前にある腰越(こしごえ)満福寺(まんぷくじ)頼朝の側近・大江広元宛てに長文の嘆願文をしたためます。


れが腰越状です。


()衛門(えもんの)少尉(しょうじょう)源義経恐れながら申し上げ候」


という書き出しにはじまり、頼朝の代官として多くの勲功を挙げたにもかかわらず、それが認められるどころか、逆に勘気を蒙ったことを嘆いています。


そして、義経に野心のないことを日本全国の神に誓い、何通も起請文を書き送った事実を述べ、最後は広元の慈悲にすがっているのです。


しかし、義経が書いた起請文を握りつぶしていたのは、他ならぬ広元でした。


ついに義経は兄頼朝との面会を果たせず、六月九日、ふたたび宗盛父子を護送して京への帰還を余儀なくされます。


その後、いったん義経に与えられていた平家没官(もっかん)領二十四ヶ所頼朝によって没収されます。


そして、十月に入ると、頼朝との関係をより悪化させる事件が起こります。

(つづく)