自分的には、大きく小説の秘密へ近づけました。ゲシュタルト・メイクすること | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

小説の秘密へ行く前に、一言だけ詩について、言わせてください。

 

金澤詩人賞の’23年度の入選作品と入賞結果がWEB上で公開されましたね。

僕は、今年は、スコーンと落選でした。笑

 

で、入選作をチラ見しながら、思いました。

詩は基本、読み手ファースト。

自分の気持ちを知ってよ、が多い。

でも、僕の、詩への関わり方は、読み手ファーストと書き手ファーストな部分と両方があり、どちらの要求も強いんだな、と。

 

へんちくりんな僕は、詩を書くとき、小説書き意識が残り、

小説・物語系を書くときには、詩の意識が暴れます。

それが、ある意味、僕には、前期の「読み手ファーストと、書き手ファーストの相克」なんでしょうね。

 

ですから、詩は自由だ主義の方は前者優先か、と思うのですが、その趣旨に賛同しつつも違和感を禁じ得ません。

詩を書く際に、どこかで共感を求めていますから、書き手の存在を無視できません。

 

すると、お前の難解な表現は書き手無視じゃないか、とご指摘があろうかと思いますが、簡易な表現イコール読み手向け、だとは思っておりません。

自分の中の、モヤモヤを言語化しようとすると、現在の僕の力量では、既存の言葉では難しいのですね。

吉野弘や黒田三郎の平明な詩作品って、実はすごく難しい、と僕は思っています。

表面的な、平易な言葉を真似ても到達できません。

(僕の22歳の、国文学科の卒業論文は「黒田三郎」でしたよ。

 何を書いたか、もう覚えておりません。笑)

 

さて、昨日のブログで、書き残してしまった、小川洋子さんの短編集『夜明けの縁をさ迷う人々』の分析結果ですが、

小川洋子さんの講演会での発言をもとに、深く深く考えながら、数年ぶり2回目の分析読みを行いました。

 

このブログの3/24(日)で報告した、小川洋子さんの講演会でのお言葉。

「作家は、正しいと正しくない、生と死とかの境界線を否定することから始まるのではないか」

 

「作家は、言葉を使って、世界の美しい真理を見出そうとするが、数学者は数式で、真理を見い出す」

 

「若いときは自分をわかって欲しいと思って書いていた。でも、今は、実はこんな(境界線にいる)人がいることを伝えたい

 

分析すると、これらのお言葉通り、境界線上の人たちと出来事が確かに書かれておりました。

ここまで、数年前の分析読みでも理解し到達できていたことです。

さて、問題はこの「真理」という事実、です。

 

ここで、これもこのブログで紹介した苫米地英人さんの「ゲシュタルト・メイク」して考えました。

すると、(うなく言えないんですが)「モヤモヤな真理の影、形になる前のもの」が仄かに見えた気がしました。

 

 

これ、皆さんも一度は見たことがある、「ルビンの壺」と呼ばれる図です。

騙し絵でもあり、認知心理学でもよく引用されます。

 

苫米地英人さんは、物事をすべて抽象化して、このどちらでも解釈される状態のようなものへ転換できることが大切だと説いている。

それが、その著作を、図書館で借りたものはたくさん流し読みし、古本で手に入れたものは詳細に分析読みして、僕が達した結論です。

 

ここでは、詳しく述べませんが、今まで、このブログで何度も書いてきた僕の詩の書き方は、

そのプロセスだけを簡単にまとめると、以下の通りです。

 

「ある観点から日常から切り出した一瞬間の事象についての「モヤモヤ」感慨があって、それを言語化してゆく」

 

その言語化がうまくできなくて、難解表現になるのは、今日も記した通りです。

 

でも、100枚近くになる小説の場合は、そんな切り取りだけで構成できるほど単純な物でありません。

だから、ずっと書きあぐねておりました。

 

先般、自分が書いた260枚になる講談社児童文学新人賞の児童文学作品のように、

形式的には小説風のものであっても、第一流どころか、三流にもなっていない、ぶざまな作品にならざるを得なかったんですよね。

 

僕の詩のレベルがどの程度かは自分では不確かですが、少なくとも二流近くには達していて、物語・小説系とは一線を画しているのは、受賞・入選歴からは客観的な事実として、一目瞭然です。

でも、繰り返し述べているように、僕はそれを、ああ、自分には才能がないんだ、で終わらせたくない。

 

詩と小説で、表現形式や、物理的な枚数差は別にして、何がどう違うのか、僕は理論的に確かめずにはいられないのです。

自分の中の、文章創作感覚として、「何がどう違うのか、何がどう同じなのか、その差は感覚遺伝子の配列的にどう違うのか」を知りたい。

知れないのならそれでいい、それを組み直して再現してみたい、我が物にしてみたくて、仕方がないのですね。

 

で、現時点で得た結論が、自分の中で「モヤモヤ真理の、形になる前のもの」を見つけ出し、それを元に、言語表現化するということです。

もっと、端的に言いましょう。

要は「ルビンの壺」のように、境界線を両方含む「モヤモヤ真理」から具現化・文章化して表現を書いて、壺なり人物なり顔なりを読み手に感じてもらう、発見してもらうようにすることです。

 

実際、詩においても、最後の行を書くまでは、自分が一体、何を感じ、何を言いたいのか、はっきりとしません。

「モヤモヤの姿」は最初、はっきりしないんですよ。

ここ言う「はっきりする」とは必ずしも、その世界観を文章として、こう言いたいと詩中の行や語句として100%書いていることではありません。

 

つまり、詩も小説もその「ゲシュタルト・メイク」するプロセスは同じなわけです。

でも、詩の方が短い言語集団なので、言い換えやすいです。

小説は、優れた小説は、短い言葉に要約した文章として、言語化できない割合が高いです。

国語の授業で書かせられる主題文(笑)は、単なる気休めであり、一側面にすぎません。(おいおい)

 

うーん、ここまで書いても、うまく言語にまとめられないぞ。

 

つまり、僕らは自分なりの「モヤモヤ真理の、形になる前のもの」を見つけ出すことが大事であり、次に、それを小説として文章表現化しようと言う行動・構成ですね。

ただ、そのために一番欠かしてはならなず、必要なのが「ゲシュタルト・メイク」能力だと言うことです。

 

「真理」から、小説用の「ゲシュタルト」方法の体得と構成が必要で、プロセス自体は同じでも、詩の方法とは全く違う。

それは、決してよく言われる、「ストーリー展開」を考えることではなく、

(それだと、僕のずっと悩んできた【呪縛】の囚われてしまう)

また、僕も時々やった香盤表とも違う。

それだと、この「ゲシュタルト」能力がないと、仏作って魂入れずで終わってしまうんですね。

 

最後に一言、赤字の箇所「自分をわかって欲しいと思って」も、小説家の言う自分ファーストと、詩人のそれは同じ言葉でも、結果は全然違うと僕は思います。

 

 

 

ともあれ、小川洋子さんの『夜明けの縁をさ迷う人々』をぜひ、お読みになってください。

でも、僕も16年間小説系を書いて、詩がそこそこ書けるようになって初めて、「モヤモヤ真理」らしきものが見えたので、

なかなかストーリーしか見えなくて難しいと思いますが。

 

ではでは。