日曜日は「上田早夕里×大矢博子トークショー(椙山文化フェスティバル)」にオンライン参加しました。
これは愛知県にある椙山女学園大学さんの主催のものです。
なんと無料でした。
厚くお礼申し上げるとともに、ここに少し宣伝させていただきます。
何度か開催されてあるのはチェックして、存じていても、今まで日にちが合わなくて参加できていませんでした。
今回、Peatixからの情報をゲットして、無事に参加できました。
上田早夕里さんは、兵庫県神戸市出身で、僕が大好きなSF作家系の小説家です。
何冊も本を持っています。
特に、その近未来の地球を描いた『魚舟・獣舟』や『夢みる葦笛』はすごく大好きな作品です。
いつか、僕もこんな作品が書けたら死んでもいいと思うような面白さです。
近年は歴史小説もたくさんお書きになっています。
なぜなのか、と疑問に思っていたんですが、今回のトークショウでその疑問が氷解しました。
二冊出した後、編集者から、SFは売れないから、他のジャンルを書いて欲しいと要請されたからだそうです。
だから、SFと一般小説と交互に書く戦略を取られておられるんだそうで、
「作家は本を出さないと、忘れられるから」とおっしゃった言葉が印象に残りました。
また、『播磨国妖奇譚』シリーズも2000年にお住まいが姫路市に変わって、地元の話を、
「これは神様が書け」と命じているんだ、と思って書かれた、そうです。
これもまた、面白い話だし、この作品も持っていてもチラ見しかできていませんが、改めてしっかり読もうと思いました。
あと、SFと歴史小説で書き方の違いはありますか、の質問に対して、
「SFでも現実でも、特に書き分けてません。
集まった資料で、こうだったのではないか、と想定するというのはSFの手法で、現実にあるものから類推して書きます。
両方、同じです」
とお答えになられたのも、非常に印象的でした。
そうして資料をもとに、「こうだったのじゃないか」って考える考え方って、論文を書くときと同じ工程だったからです。
で、そう気づくと、やっぱり「ここまでおいで」と招かれている気がしました。
実際は、小説を書くのは、SLIMの月面ピンポイント着陸と同じくらいの難しさなのになあ、とため息をつきながらも、そう思ってしまう自分がいます。
そういえば、土曜日に受講したマーサ・ナカムラさんの詩の教室の経験から、自作の既存の詩を書き直しました。
心象風景と、描写の違い、そのほか少し視点を変えて、見直すと、自作の詩に足りない点がたくさん見つかりました。
マーサさんのたった一言で、視点が180度大きく変わりました。
これが「学び」の力ですね。
数段階、上に行けた気がします。
すごく微妙な違いで、詳細はここに書きつくせませんが、
今回の小説創作での丁寧さという身も蓋もない書き方の欠落と同じく、そう目新しいものではありません。
僕の勘違いで、見過ごしていた点で、各文を丁寧に読み手側に立って書く気遣い、だけでした。
わかってみれば、なあんだ、って話です。
(もちろん、マーサさんが具体的にこうしなさいと指示したわけではありません。
「上手い心象風景ばかりにせず、ふつうの外の描写をしましょう」という趣旨を述べられただけです。
だから、また僕の勘違いかもしれません。
ただ、僕は外の描写をこれまでも、そして、提出作品もしていたつもりだったのです。
でも、散文作家的な眼と批評家意識で分析すると、確かに心象風景化していました。
もちろん、僕も散文的な描写文なら、いくらでも書けます。そんな散文詩は書いてきました。
でも、そうしたら乾いてしまって(笑)、ポエジーを忍ばせられなかったんです。
きっと、書き手として見えている部分で勝負していたから。
それが、マーサさんの詩篇の描写を見直すと、乾いていても、どこかしっくりとポエジーが滲む。
なぜかの具体的な手法は気づきましたが、それは企業秘密です。(笑)
どうせ、また勘違いかもしれませんしね。
でも、その根幹は、読み手への「わかってもらおう」との読み手への見えない親切心でした。
これはわかりやすい平明な表現と必ずしもイコールではありません。
そこを勘違いしてました。
これから書く詩はもちろん、改稿した作品も努めて、この読み手への見えない親切心で書いてみます。
僕の詩は難解だと言われたりする点が、表層でなく、以後、深層的に大きく変わりますから、ご覧ください。)
こういう些細な勘違いや思い違い、そこを疎かにしていると、大きく成長できないものなんですね。
やはり、他人からの批評、講評は千金に値します、よ。
僕が何年も、十数年も悩んだり、新しさを求めて呻吟した苦しみは全くの無駄だったようにも感じますが、
実際は、それらの回り道があればこそ、気付けたものなんでしょうね。
また、このシンプルな丁寧さの類いの背後に、そうした書き手からの新奇な手法も活きてくる気もしています。
でも、詩はちょこっと書いたら、また小説の苦しみへ戻ります。
詩のそこを詰めれば進歩はわかっていますが、そちらは楽なので。
山中鹿之介「我に艱難辛苦を与えたまへ」
芸術の女神様、いや、もう要らないです、艱難も辛苦も。
仕事でも、創作でも、もう十分、頂きましたから。
けど、「艱難、汝を玉となす」は至言だと思い、頑張ります。