ガンダムで言えば、額の前で、小さな黄色い稲光が走った、のでしょうか。
一つ、ふっと天啓が降りてきました。
ずっと、このブログをご覧いただいている方はご存知のように、
僕は詩はそこそこ書けるものの、どうしても小説系をちゃんと書きたくて、
日々というか、毎年、10年以上あがき続けております。
毎年それなりには発見があるものの、日進月歩で遅々として実力はあがりません。
絶望的に書けないで、全然筆が進まないときもしばしば。
(ちょうど今です。笑
気分転換に、今月分の「ココア共和国」への詩を改稿して送付しておりました)
で、ふと思ったのです。
自分にはない書き方があると思い込んで、ずっとそれを探すか編み出そうと、
ここ10年間以上、頑張って努力してきたけれど
、
もしかしたら「それって根本的に間違いじゃないか」って。
この前から、マンガのネーム作りの方法を解いた中村裕久さんの本を読み込んで、
そのエッセンスを小説創作に取り込もうと悪戦苦闘してました。
で、それとは別に再開された「さばえ近松文学賞」の去年の受賞作やら、'16年や第一回の'13年の「恋の手本」を詳しく読解分析していました。
特に、この「恋の手本」は、改めて読むと、
マンガネーム構成的に見ると、
丁寧な機能(文字通り、コミュニティ・人物・環境の紹介や情報が埋め込まれている)がある文で隅々まで構成され、一切の無駄のない作品だったんです。
つまり、まさに、イントロから短い中盤で山場があり、短い後日談の1文で締められていた、という分です。
で、ちょうどゴミ捨てでステーションへ向かっている時に、ふと思った。
僕の書き方が乱暴なのが問題なんじゃないか?
「粗雑で不親切で、書き手中心の我儘な書き方をしていることが問題なのじゃないか?
かつ、反面、冗長で無駄な文も多い」って書き方をずっとしていることが原因で、
ずっとダメダメなのでは、と。
詩の初稿も、雑な書き方だとダメダメになる、それと同じだってこと。
つまり、口先だけ、読み手ファーストと表明してるけど、
現状、全然そうじゃない。
このマンガネーム構成の視点だって、丁寧に丁寧にシーンを構成しないといけない。
でないと、表明的に受け止めてることになってしまう。
必要ようなのは、真に読み手ファースト化した【姿勢】だったんじゃないか。
そう思って取り組んでみます。