プロ詩人の方が、口々に言う、
「詩は自由だ」
「決まった形式はない」
「だから、他人の真似をしても仕方がない」
これは、正しくもあり、正しくもない、と僕は信じています。
だって、これは、「詩」の部分を、「小説」へ変えたって、同じことが言えますからね。
むしろ、小説の方が枚数制限が詩よりも遥かに大き区取れるので、もっと自由ですから。
原稿用紙100枚の小説はザラにあって、短編ですが、
同100枚の詩って、読むのが大変、書くのも大変。それは詩集の単位でしょう。
詩も小説も書く人間である僕には、詩人の方々の自己のジャンルに酔いしれた言葉は通用しません。
もちろん、そんな詩人ばかりではないことは存じておりますが、
そもそも、自由を声高に騒ぐ人は、定型詩の一種である俳句や短歌を、詩とは認めていないのですかね?
同じですよ。
字数制限故の自由さがあります、
もちろん、
詩は自由に書くものです。
だからこそ、他人の詩から学ぶことができる。
自由に書くは、自由に学ぶことだ、と僕は思いたいです。
他人から学ぶ姿勢がなく、独善的に自己模倣だけを続けることが、真の詩人だと僕には信じがたいです。
いや、他人の詩だけじゃなく、
他人の短歌、俳句、小説、さらには自然から、時代から、
学び取る対象は無限大だと、思いたいですから。
形式が無ければ、
作ればいい。
そして、しばらくしたら、その自分で作った形式を壊せばいい。
世阿弥の『花伝』で言う、《守・破・離》です。
だからこそ、僕はジャンル横断して行くのです。
何を学ぶかを意識しながら。
努力で詩が書けるようになった僕は、
才能天授主義と同じくらい、詩を自由に書け説が苦手です。
眉に唾をつけたくなります。
なぜか、両方を合わせて声高に叫ぶ人がいる気がするのは、偏見でしょうか?
もちろん、信じるのは勝手ですが、他人へ押し付けないで欲しい。
それこそ不自由の押し付け。
エセ宗教と同じ匂いがします。