なんとか、「ぼくは王さま」シリーズの童話作家の故寺村輝夫さんから学んだことを、
けど、寺村輝夫さんとは違う形で作品化しようとして、
ただ今、悪戦苦闘中です。
ともかく、寺村輝夫さんのような、幼年童話向けの、ナンセンス?ユーモア童話を、
自分も書けるようになろうと腐心しています。
当たり前ですが、難しいミッションです。
この難しさは、僕の頭の中が小難しい理屈とリアリズムで凝り固まっているのが、
第一の原因だろうと確信しています。
基本、真面目な人間なので。
「ぼくは王さま」シリーズって、別に魔法使いが出てくる訳でも、
ドラゴンが歩き回っている訳でもない。
ごく当たり前の、お城の日常生活が描かれているだけなんですよね。
でも、驚くほどたくさんの作品を、寺村輝夫さんはこのシリーズをお書かきになられていて、
かつ、凄く短い掌編が大部分なんです。
その終わり方は、バラエティに富んでいて、それを分析しただけで、
凄く勉強になりました。
また、その文体で言えば、極力説明文がなくて、王さまたちをその言動だけで簡潔に描ききっていいるんです。
以前、10年近く前、絵本を研究して、それで修士論文を書いたり、絵本を実際に制作していたりしていた頃に、
この「ぼくは王さま」を研究分析したものでした。
それが研究の第一回だったと思います。
それ以降も、確か童話を書く参考に、と何度か分析してみたものの、
その秘密を解読はできませんだした。
あまりにも、統一性がなく、千差万別でバラエティに富み、そこに法則性を見つけられなかったからです。
ところが、今回、6枚から21枚までの掌編作品9作を、
現代詩的な組み立て分析したところ、
ある程度、法則性を見つけられました!
①最初に、やや無理ゲー的な要求をする。
それは常識ではありえないこと、クジラのズボンだとか、冬に咲くチューリップだとか。
(普通は、そんな馬鹿な要求や、願いで欲しがったりしないだろう、
と言う〈大人感覚〉では、想定外の非常識・ナンセンスな事柄を、
現代詩的な僕の作り方で言えば、最初に設定してるんです。)
②皆に命令したことは、うまく行かず。
もしくは、王さま自身がやるとダメだった。
(読み手には、どうなるの? と展開を見たくなる。
基本、説明ではなく、どんどん行動。
それを受けての次の事態が……どんどん数珠つなぎ。)
③失敗を隠そうとしたり、新たな事件を引き起こしたりして、反省。または、笑われてしまう。
(このオチの付け方が、〈語り手回収〉で、王さまって、馬鹿ですね、で終わる時や、
王さまが照れ笑いでごまかしたり、笑われたり、する終わり方。
要は、変に理屈をつけて、辻褄合わせをしない。
まるで、それまでの描いてきた過程(=各文章そのもの)に意味があった、と告げているよう。)
構成的には、起承転結が組み合わせられていると言えるかも知れません。
起が①、承転が②、結が③。
でも、そうした単純な起承転結の展開や流れだけでは、説明出来ないんですよね。
これ、どう言うことか、説明しにくいんですが、
描かれた文章(=王さまと、王さまを巡る騒動)自体に意味がある、詩の文章感覚がそこにある気がするんですね。
一見、無駄な文がそれの表層的な意味内容とは別に、表現したいことがあって、
そこに集約され書かれている機能があると言えるでしょうか。
寺村輝夫さんの文章は、完全な散文で、何の修辞技法も使われないシンプルな文体なんですが、
それゆえに、散文詩以上に、ポエジーが、(ユーモア・ポエジー、ですが)ある気がするんですよね。
うーん、うまく言えない。
ただ、この見えない不思議な散文の感覚を自分のものにしたら、
次のステージへ進める気がします。