いつものように悪戦苦闘中(「ぼくは王さま」シリーズ) | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

なんとか、「ぼくは王さま」シリーズの童話作家の故寺村輝夫さんから学んだことを、

けど、寺村輝夫さんとは違う形で作品化しようとして、
ただ今、悪戦苦闘中です。
 
ともかく、寺村輝夫さんのような、幼年童話向けの、ナンセンス?ユーモア童話を、
自分も書けるようになろうと腐心しています。
 
当たり前ですが、難しいミッションです。
この難しさは、僕の頭の中が小難しい理屈とリアリズムで凝り固まっているのが、
第一の原因だろうと確信しています。
基本、真面目な人間なので。
 
「ぼくは王さま」シリーズって、別に魔法使いが出てくる訳でも、
ドラゴンが歩き回っている訳でもない。
ごく当たり前の、お城の日常生活が描かれているだけなんですよね。
でも、驚くほどたくさんの作品を、寺村輝夫さんはこのシリーズをお書かきになられていて、
かつ、凄く短い掌編が大部分なんです。
 
その終わり方は、バラエティに富んでいて、それを分析しただけで、
凄く勉強になりました。
 
また、その文体で言えば、極力説明文がなくて、王さまたちをその言動だけで簡潔に描ききっていいるんです。
 
以前、10年近く前、絵本を研究して、それで修士論文を書いたり、絵本を実際に制作していたりしていた頃に、
この「ぼくは王さま」を研究分析したものでした。
それが研究の第一回だったと思います。
 
それ以降も、確か童話を書く参考に、と何度か分析してみたものの、
その秘密を解読はできませんだした。
あまりにも、統一性がなく、千差万別でバラエティに富み、そこに法則性を見つけられなかったからです。
 
ところが、今回、6枚から21枚までの掌編作品9作を、
現代詩的な組み立て分析したところ、
ある程度、法則性を見つけられました!
 
①最初に、やや無理ゲー的な要求をする。
 それは常識ではありえないこと、クジラのズボンだとか、冬に咲くチューリップだとか。
 (普通は、そんな馬鹿な要求や、願いで欲しがったりしないだろう、
  と言う〈大人感覚〉では、想定外の非常識・ナンセンスな事柄を、
  現代詩的な僕の作り方で言えば、最初に設定してるんです。)
 
②皆に命令したことは、うまく行かず。
 もしくは、王さま自身がやるとダメだった。
 (読み手には、どうなるの? と展開を見たくなる。
  基本、説明ではなく、どんどん行動。
  それを受けての次の事態が……どんどん数珠つなぎ。)
③失敗を隠そうとしたり、新たな事件を引き起こしたりして、反省。または、笑われてしまう。
 (このオチの付け方が、〈語り手回収〉で、王さまって、馬鹿ですね、で終わる時や、
  王さまが照れ笑いでごまかしたり、笑われたり、する終わり方。
  要は、変に理屈をつけて、辻褄合わせをしない。
  まるで、それまでの描いてきた過程(=各文章そのもの)に意味があった、と告げているよう。)

構成的には、起承転結が組み合わせられていると言えるかも知れません。
起が①、承転が②、結が③。
でも、そうした単純な起承転結の展開や流れだけでは、説明出来ないんですよね。
 
これ、どう言うことか、説明しにくいんですが、
描かれた文章(=王さまと、王さまを巡る騒動)自体に意味がある、詩の文章感覚がそこにある気がするんですね。
一見、無駄な文がそれの表層的な意味内容とは別に、表現したいことがあって、
そこに集約され書かれている機能があると言えるでしょうか。
寺村輝夫さんの文章は、完全な散文で、何の修辞技法も使われないシンプルな文体なんですが、
それゆえに、散文詩以上に、ポエジーが、(ユーモア・ポエジー、ですが)ある気がするんですよね。
 
うーん、うまく言えない。
ただ、この見えない不思議な散文の感覚を自分のものにしたら、
次のステージへ進める気がします。