今回、なぜ純文学を書こうとすると書けなくなるのか。
十二国記シリーズ最新刊「白銀の壚 玄の月』を読んで、わかった。
純文学だと、現実世界を描くからって、自惚れてしまう。
知ってる世界だから、その因果プロットなり、人間関係、社会の成り立ちを説明せずとも、わかると放棄してしまう。
読み手に世界を案内しようとする姿勢が薄くなってしまうんだ。
それが世界の成り立ちを誰もがわかっていると読み手にも自分にも強要する自惚れ的な態度である。
一方、ミメーシス的な本質世界からの電波の感知を放棄した無思慮で最低な行為でもある。
そう。
世界は混沌として無秩序で、人間も謎のままなのに。
その一面を照らし描き出すのが芸術であり、文字よ物語の力でお香あののが文学なだけなのに。
この断りを、全く忘れ、考えぬまま、やろうとするから行き詰まるのではないか。
十二国記シリーズの世界観、人物群、作品世界、その理(ことわり)。
人物たちの圧倒的な分量の行動描写と、僅かな量の内言と必要最低限な内省。章途中でも変わる様々な焦点化人物(=語り手人称・視点人物)。
主人公・副主人公クラスだけでなく、文字通り、名を与えられぬ貧しい庶民の時もある。
それがまるで、戴国そのものがこの物語の主人公だと、無意識に伝えてくるようだ。
今回の作品『白銀の壚 玄の月』は、
いや、この十二国記シリーズは、と言うべきか、いつも主人公たちが自問自答する。
生きるとは、国とは、王とは何か、と。厳しい自然と、その象徴悪である妖魔の存在が片方にあって、
その問いかけの底には毎日の生活に苦しむ民衆がいる。
生きることを、読み手も主人公たちとともに悩まざるを得ない。
今作は、仇敵に襲われ傷ついた正統な王を探す話であり、
日々の生活に苦しむ庶民の話。
ミステリーのように謎かけを解きながら、
読者はこの現実とは異なる神仙と麒麟がいるファンタジー世界を旅する。
圧倒的な面白さでした。
(ネタバレになるので、ぼかして書きます。)
ハイ・ファンタジーの面白さを具現した作品。
世界的な娯楽映画にされても不思議じゃない壮大な物語なのに、いまだアニメーション化されただけ。
この12日に発売された1・2巻は読了しました。
残りの3・4巻は11月9日発売。
いい小説や物語を書きたいと心から思いました。