引き続き、現代性のある作品と、古典的な名作を同時並行で比較しつつ、
数を読む作戦を続行中です。
この作戦を名付けて、 「対: 物神化の非才能主義オペレーション」と呼びます。
なぜ、この作品が凄いのか、才能が溢れてるから、だとか、
作者のデビュー作で完成された作品になっているのは才能だとか、
言い切ってしまうと、
我々、凡人は端から参戦できません。
凄いのは、どこか、何か。
理由を探ることで、説明できれば、その原理を吸収できますから。
僕はもともと、9年前まで小説なぞ書きたくても書けなかった人間ですからね。
あの頃に比べれば、今は驚くほど「分かって」いる。
ひたすら悩み、試行錯誤し続け努力した結果です。
ただ、つい全てを才能不足にして逃避したい誘惑に駆られる時があります。
小説を書く行為そのものを神秘化してしまい、
神から天賦された才能のもと、選ばれたことで全てが書かれる。
そう、思いたくなるんですよね、無意識のうちに。
その方が楽ですから。
言わば、行為や作者を神格化してしまう。
どれだけ努力しても、何も変わらない。
何も分からないのは、才能がなく、自分が選ばれていないから、しかたがないんだ、と。
これが物神化現象。
何をしても変わらない徒労感は、疲れますから。
けど、究極の時点では、才能の有無が問題になるにしろ、
まだ、そこまでを求められているわけではなく、
現在の自分は初歩の初歩で、躓いているだけだと思います。
例えば、
1人称でも、「私」以外の人物をないがしろにして、ストーリーの奴隷と化してはいないか。
主人公を視点人物と考えるから、
主人公オンリーになってしまう。
あくまでも、焦点が当たって、
読者を作品世界へ誘導する役なだけなのに。
まだまだそんな思い違いは多いと思います。
どちらもストーリー展開はあるけれど、
争点はそこじゃない。
詩は現実をそのまま流用して、書けるけど、
小説は、擬似作品世界を作り上げた上じやないと、
書けないのではないか。
そこが違いの本丸だと思う。
詩は限られた枚数での省略世界。
小説は、どこまでも無限に枚数を追加できて、その圧倒的にたくさんの枚数で擬似世界を作り上げた上で語る世界。
そこが、詩と小説の根本的な違いだと思う。
同じ文学と呼ばれて、現実を投射・投影するけれど、
圧倒的に違う作品世界。
単に韻文と散文の種類違いじゃないと思う。
小説には、その中に、詩的文章どころか、詩そのものを含有出来る圧倒的な「広さ」があるから。
結局、
小説は何かを考えていると、
詩とは何かも考えざるを得ませんでした。
これについては、また明日、詳しく書きます。