大衆抹殺論(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

大衆抹殺論(10)

「これまでの全ての革命は敗北するか変質した。そこから革命的闘争を放棄しなければならない、と結論すべきなのであろうか。諸革命の敗北、諸組織の変質はそれぞれの水準で既成社会がプロレタリアートとの闘いで一時的にどうにか勝ちを収めた、という同じ事実を示している。そこから事情は常に同じであろうと言いたいのなら、その時は論理的でなければならないし、どこかに引きこもらなくてはならない。と言うのも、組織の問題を提起することは自分たちが共同で、従って組織されることによって闘うことができるし、闘わなくてはならないと確信し、自分たちの敗北が不可避であると仮定しない人々の間でしか意味を持たないからである」(コルネリュウス・カストリアディス)

既成社会とは大衆社会です。そこでは大衆の生活が第一とされ、大衆の幸福が至上の価値をもって君臨します。かつてヘーゲルは「オリエントでは一人が自由であり、ギリシア・ローマでは若干の人が自由であり、ゲルマンでは全ての人が自由になる」と述べましたが、地理的な問題はさておき、我々の歴史が「全ての人が自由になる世界」に収斂すべきことは間違いないと思われます。では、大衆社会がそのような世界なのでしょうか。

一人だけの自由、すなわち独裁者の自由はそれ以外の一般大衆を抑圧します。大衆(他者)を抑圧することで自分だけが好き勝手なことをするのが独裁者の自由だと言ってもいいでしょう。勿論、そのような我儘が真の自由である道理はなく、大衆もいつまでも抑圧されたままではいません。虐げられた大衆はやがて蜂起して、必ず独裁者の首を刎ねます。大衆蜂起による独裁者の打倒!これは今や殆ど歴史の法則と化しているように思われますが、現実には未だ独裁者はこの世界に潜在しています。何故か。現代の独裁者はもはやかつてのような暴君の顔を持っておらず、むしろ大衆の味方のような顔をしているからです。大衆の味方? 然り、大衆の幸福は独裁者の存在と不可分なのです。もし独裁者の完全否定を望むなら、大衆は幸福以上の価値を人生に求めることになるでしょう。しかし、それは大衆自身の自家撞着に他なりません。くどいようですが、大衆社会には幸福以上の価値などあり得ないのです。

問題を整理します。独裁者の「一人だけの自由」が否定されるべきなのは当然であり、もはやそこに原理的な議論の余地はありません。問題は、それにも拘らず独裁者はこの世界から根絶されておらず、大衆もまたその根絶を本当には望んでいないという現実にあるのです。更に言えば、「全ての人が自由になる世界」の実現を阻んでいるのは独裁者というよりも、むしろ大衆です。確かに自由を求める大衆蜂起によって目に見える暴君としての独裁者は打倒されました。しかし、それによってもたらされた自由社会の内実は個人主義を核とする格差社会に他なりません。すなわち、一方に贅を尽くした豪邸生活の自由もあれば、他方に狭いながらも楽しい我が家の自由もある、という世界です。尤も、自由を富の多寡によって格付けしたところで、金持の自由だけが幸福をもたらすわけではないでしょう。金持にはできることが貧者にはできないという現実はあるものの、落語の長屋世界に見られるような貧者の自由もまた幸福の一つのカタチです。また、自由とそれによって得られる幸福が上流・中流・下流と分けられるとしても、全ての人にそれらへの機会が均等に与えられているのなら、格差社会も強ち不当だとは言えません。例えば、最近のスポーツニュースではプロ野球選手の契約更改が報じられていますが、今シーズン大活躍した選手が億単位の高額年俸を獲得しても、誰も不当だなどとは(羨望はしても)思わないでしょう。能力のある者がそれに見合った努力を積み重ねて得た成果に対してはそれ相応の報酬が与えられるべきであり、能力のない者(障害のある者も含む)、能力があっても努力をしなかった者の成果に対する報酬が少なくても、それは正当なことです。実際、これといった特性のない一般大衆にとって、糾弾されるべきは大金持そのものの存在ではなく、怠け者のボンクラが親の七光りで甘い汁を吸っているような不当性でしょう。或る人が己の才覚(たとい悪知恵であったとしても)を駆使してどんなに巨万の富を築いても、大衆はそれに憧れこそすれ決して非難の眼差しを向けることなどありません。むしろ、才覚のある人の強烈なリーダーシップの下で自分もそれなりに豊かになれることを望んでいると思われます。「願わくば自分にもそんな才覚があれかし」と思いながら、凡庸な自分の身の丈に合った自由を享受する――そこに大衆の幸福があります。これこそ独裁者が打倒された後に訪れる自由社会であり、そこには格差を容認した大衆の自由と幸福が渦巻いています。上流の自由もあれば、中流・下流の自由もある――果たしてこれが「全ての人が自由になる世界」だと言えるでしょうか。

ところで、安倍首相はかつて「日本は貧困かといえば、決してそんなことはない。日本は世界の標準でみて、かなり裕福な国だ」と国会で発言しましたが、おそらく大衆はこんなノーテンキな認識さえ許容するでしょう。実際、「日本の貧困率は16%で、6人に1人が貧困だ」などと報じられても、それは相対的貧困率にすぎず、本当に生存の危機に瀕している絶対的貧困者は(世界の標準でみて)極めて少数だと思われるからです。勿論、たとい少数であっても、餓死寸前の生活困難者やホームレスの人々が苦しんでいる現実を無視すべきではなく、ましてや「日本はかなり裕福な国だ」などと嘯いていられる神経は実に醜悪極まります。しかし、それならば何故、安倍政権はかくも長きに渡ってこの国を支配し続けていられるのでしょうか。答えは簡単明瞭、大衆がそれを支持しているからです。大衆はたとい自分が金持になれなくても、曲がりなりにも日々の暮らしが持続していれば、それで幸福になれます。なかなか安定した生活とまでは言えない。しかし折に触れて目に飛び込んでくる路上生活者の悲惨な姿に比べれば、まだ自分はマシだと思う。自分さえ、自分の家族さえ、自分の周囲の友人知人さえ平穏無事であればそれでいい。現実に貧困の泥沼の中でもがき苦しんでいる人々に対する心の痛みは歳末助け合い運動などへの募金で善意に変換することができるでしょう。宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べましたが、「世界全体の幸福」などという理想よりも「個人の幸福」という現実が重視されるのが大衆社会なのです。それは移民を拒絶する英国民や米国民の現実的な選択もさることながら、沖縄に米軍基地の殆どを押し付けて自分たちはのうのうと平和な日々を享受している我々の社会の現実でもあります。

何れにせよ、人間が幸福を願うのは極めて自然なことです。トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭で「幸福な家庭は皆一様に似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ不幸の相も様々である」と述べていますが、「家庭の幸福」は言わば幸福の最大公約数の如きものであり、大衆の生活も結局はそこに安らぎを見出していくものと考えられます。すなわち、能力に恵まれた人たちはノーベル賞とか金メダルなどに象徴される夢の実現に至上の幸福を求めていくでしょうが、一般大衆はそうした天才たちの華麗な人生に憧れつつも「家庭の幸福」というささやかな現実に自らの至福を織り込んでいくのです。とは言え、「家庭の幸福」を得ることもそんなに容易なことではありません。愛する人と暮らし、やがて子供を授かり、一家団欒の時を得る――そんな何でもないようなことこそが幸せの原点であり、そこへと至る困難さは金持の家庭でも貧乏人の家庭でも大差ないでしょう。子供たちに巷で人気の高価な玩具をプレゼントできる裕福な家庭とそれができない貧しい家庭――前者の方がより幸福とは一概に言えないのは当然です。むしろ、金に目が眩まない分だけ貧乏人の家庭の方が原点に接近しやすい場合もあり得ます。かくして人は貧富の差に関係なく、それぞれの道を辿って自由に幸福を求めるわけですが、ここには一つ大きな問題があります。それは所謂「not in my backyard」の生活態度です。つまり、誰しも自分たちの幸福を脅かすものは排除したいと思い、世界のどこかで誰かの幸福が侵害されている現実には同情するものの、その脅威を自分たちで積極的に担うことは断固拒絶する、というエゴイズムです。先述の移民や米軍基地の場合も然り。移民の存在が自分たちの幸福を脅かしているとなれば移民を徹底排除しようとする。それが非人道的な選択だとしても、誰も「じゃあ、自分たちの町で移民を受け容れよう!」などは言いません。移民たちの幸福は自分たちの幸福とは別次元の問題なのです。米軍基地も同様であり、それが沖縄の人たちの幸福を脅かしているのは明白ですが、誰も自分たちの町への米軍基地の移設は望まない。もし奇特な人が「これまで沖縄の人たちに押し付けてきた苦しみを今度は我々が担おう!」などという理想論を掲げて地元への基地移設を推進しようとすれば、その人はたちまち袋叩きにあうでしょう。それが自分たちの幸福を至上のものとする大衆の論理です。そして、強大な権力を持った独裁者が大衆の幸福をあらゆる脅威から守ってくれるなら、大衆はその独裁者を大歓迎するでしょう。かつて大衆の自由を抑圧した暴君としての独裁者は今や大衆の幸福を保全する見えざる独裁者として甦っています。ここに大審問官の論理が息づいているのは明白ですが、我々は大審問官とそれを歓迎する大衆の論理をラディカルに否定することができるでしょうか。もしできるとすれば、それこそが革命を意味するのですが、冒頭でも引用したようにそれは常に敗北してきました。自分たちの自由と幸福を抑圧する独裁者に対する大衆蜂起には勝利しても、その先にある筈の民衆連帯にまではなかなか到達できません。革命は未だ遠し。大衆勝利から大衆抹殺への反転攻勢を試みても、それはいつも結局は大衆と大審問官の論理に呑み込まれてしまいます。幸福に至上の価値を見出す大衆社会の城は正に真田丸の如き難攻不落の様相を呈していますが、突破口はないのでしょうか。先述の宮澤賢治の言葉に即して言えば、「個人の幸福」という現実を「世界全体の幸福」という理想に止揚するためには幸福を超越する次元への逆説的飛躍が要請されると思われます。そこにしか突破口はない、と今のところ私は考えています。