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2016-07-15 22:19:33

大衆抹殺論(2)

テーマ:ユートピア

大衆抹殺論は基督抹殺論と対を成すものです。と言うのも、基督は大衆の願望の投影に他ならないからです。周知のように、幸徳秋水は当時の実証主義的な聖書学などを援用して基督の史的実在性を否定せんとしましたが、大衆自身がそのような基督の実在を望んでいる限り「基督抹殺」など到底不可能でしょう。これは「基督抹殺」を「天皇抹殺」と読み替えた方が(おそらくそれが幸徳の真意だった)、我々日本人にとってはより切実な問題として胸に響くと思われます。実際、今天皇制の是非を問う国民投票を実施すれば、圧倒的多数を以て天皇制の存続が支持されるのではないでしょうか。たといどんなにエライ学者先生たちが万世一系のデタラメさを科学的に立証したとしても、そんなものは大衆の願望の前では全く意味を成しません。では、大衆の願望とは何か。言うまでもなく、それは家庭の幸福です。大衆は自分たちの家庭の幸福を永久に保障してくれる実力者を待望しているのです。その実力者は強大であればあるほど望ましい。今回の参院選でも、そうした大衆の願望が勝敗を決したと言えます。つまり、勝ったのは自公勢力ではなく、あくまでも大衆なのです。そこには一片の理想もありません。これはEU離脱を選択した英国についても同様であり、EUの理想が自分たちの家庭の幸福を脅かしていると判断した大衆が勝利したのです。おそらくインテリどもは、かくも愚かな大衆の選択を嘆き、非難し、罵倒するでしょうが、そんなことを百年繰り返しても絶対に大衆には勝てないでしょう。軽蔑されるべきは大衆ではなく、むしろ敗北し続けるインテリの方なのです。我々は理想実現の戦略をラディカルに改めねばなりません。

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2016-07-14 19:57:41

大衆抹殺論:どうして私は信頼を失ったのか

テーマ:ユートピア

先日の夜のことです。仕事を終えて、とぼとぼとボロアパートへの家路を辿っていると、私の数メートル先を同じように歩いていたサラリーマン風の男が一軒の小さな家に入っていきました。ドアを開けて「ただいまぁ」と草臥れた声で言う。すると間髪を容れずに「おかえりッ!」と元気のいい幼い子どもの声が返ってきます。私がその家の前を通り過ぎる頃にはすでにドアは閉められていましたが、何やらドタバタと子どもの走り回る気配がしていました。そして、弾けるような笑い声。これから一家団欒の夕食でも始まるのでしょうか。お父さんの足元に子犬のようにまとわりつく子どもの姿を思い浮かべながら、私は改めて家庭の幸福に圧倒されていました。おそらく、このお父さんは束の間、その日の嫌なことを全て忘れることができたでしょう。「この子のためなら、どんな嫌なことにでも耐えることができる。嫌な上司や顧客に頭を下げることなんか何でもない。家庭の幸福のためなら、いくらでも土下座してやる!」かくしてお父さんはエンヤコラ毎日歯を食いしばって頑張り、その姿を見て育った良い子もまたやがて親になりエンヤコラ毎日家庭の幸福のために生き始めるわけですが、このような親子に対して果たして「家庭の幸福は諸悪の本」などと言えるでしょうか。


周知のように、ゴーギャンは「親が子のために生き、その子が親になってまた子のために生きるという馬鹿げたことを永遠に繰り返していたら、一体誰が芸術を創造するのか」と述べていますが、芸術よりも日々の暮らしを大切に思う人の方が大半でしょう。と言うより、たとい名もなく貧しい市井の営みでも、愛する家族と共に築く日常生活の幸福こそ大衆にとっては掛替えのない芸術なのです。そもそもゴーギャンは親が子のために生きることを犠牲と認識しているようですが、「ヨイトマケの唄」の母ちゃんや父ちゃんに犠牲の意識など皆無でしょう。むしろ、子のために生きられることこそ至上の喜びであり、それが親自身の人生の生甲斐にもなると思われます。しかし、それで本当に良いのでしょうか。良いも悪いも、親が子のために生きるのは自然の理であり、あらゆるイキモノはその繰り返しに終始しているとさえ言えます。実際、「子どもより親が大事と思いたい」などと嘯くのは人間だけであり、親のエゴイズムは極めて不自然なことです。しかし、それにも拘らず、「芸のためなら女房も泣かす」ような生き方、更に言えば自分が本当にやりたいことのために妻子を棄ててしまうような人間の生き方にも何か否定し難い真理があるのではないでしょうか。確かに、それは自分勝手で、自然にも道義にも反する堕落した生き方には違いありません。しかし、自分自身の主体的な欲望に徹する堕落にこそ人間の真理があるとも言えるのです。自分のことなど一切後回しにして家族に尽くすマイホーム・パパとあくまでも自らの欲望に徹する火宅の人――すでに勝負は決しており、今の世界は前者の「家庭の幸福」を支持する大衆を中心に動いていますが、私は敢えてもう一度勝負を挑みたいと思っています。果たして大衆の夢を逆撫でする人間の理想は再び土俵に上がることができるのでしょうか。このような問いを立てれば、おそらく「俗なる大衆を聖なるインテリが啓蒙する」という構図が想定されるでしょうが、それは全く私の本意ではありません。と言うのも、大衆抹殺論は他ならぬ大衆自身の問題であるからです。

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2016-06-24 22:30:35

敗北の六月(10)

テーマ:ユートピア

周知のように、アメリカの公民権運動は一人の黒人女性がバスの白人優先席に座ったことから始まりました。当時のアメリカには人種分離法(ジム・クロウ法)なる悪法があり、彼女はそれを十分承知した上で敢えてその法律違反に及んだのです。実に勇敢な女性だと思います。しかし、人種分離法は本当に悪法だったのでしょうか。厳密に言えば、人種分離と人種差別は異なります。勿論、人種分離の名目で黒人(を筆頭とする全ての有色人種)が差別されていたことは厳然たる事実であり、実質的には「人種分離=人種差別」だったでしょう。しかし、人種分離を差別なく行うことは原理的に可能であり、むしろその方が無駄な争いを回避できるのではないでしょうか。すなわち、一台のバスに白人優先席のみがあって黒人優先席がないから差別になるのであり、初めから白人専用のバスと黒人専用のバスを分離して運行すれば軋轢が生じる余地などなくなるのです。そもそも白人と黒人は身体的にも文化的にも異なり、その間に壁が存在することは極めて自然なことです。その上で、壁にドアを設置すれば、互いの長所を適宜学び合う交流もでき、黒人は白人と対等に発展していけるでしょう。かくして壁は快適な市民生活に不可欠なものであり、人種分離法も一概に悪法だとは言えないという論理が成立するのです。


しかし乍ら、マーティン・ルーサー・キングはこうした人種分離の論理に真向から戦いを挑み、一つの夢を語りました。言うまでもなく、それは「かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが兄弟愛で結ばれたテーブル(the table of brotherhood)に共に座すことができるようになる夢」です。キングは端的に「我々は兄弟(姉妹)として共に生きることを学ばねばならない、さもなければ愚者として共に滅びるに違いない」とも語っていますが、これは正に新しき村の精神に基く理想でもあります。しかし、我々は本当に全ての人間を兄弟姉妹として共に生きられるでしょうか。少なくとも、この文脈における共生の理想が自然に反するものであることは明らかです。その証拠に、人種分離法が廃止になっても、白人街、黒人街、日本人街というように、それぞれの人種・民族は自然に棲み分けて生活するのです。ロシアや中国といった大国が抱える民族問題も煎じ詰めれば民族自決という人間の自然性(自然の情)を抑圧していることに起因しています。従って、あくまでも自然に即して考えるならば、我々はそれぞれの人種や民族に分かれて自分たちだけの共同体を形成すべきであって、それ以上の理想を求める必要はないのです。しかし、それにも拘らず、やはり理想は囁きます。セカイガゼンタイコウフクニナラナイウチハ、コジンノコウフクハアリエナイ。この囁きに耳を傾けたキングが個人の人種や民族を超えた兄弟愛brotherhood(ザメンホフの文脈では人類人主義homaranismo)による共生の夢を語ったことは先述しましたが、そのキングも結局は暗殺されてしまいました。理想を貫いて生きるためには、それ相当の覚悟をしなければなりません。


さて、本日のトップニュースは英国のEU離脱が国民投票の末に決定したことです。かなり僅差の勝負だったようで、この結果だけで英国の理想を問うことなどできませんが、英国民の過半数が理想よりも現実を選んだことは間違いない事実でしょう。我々のこれまでの文脈に即して言えば、英国民はEUの理想によってヨーロッパ中から押し寄せてくる移民たちとの共生よりも英国民だけの幸福を選んだ、ということです。ネット上のニュースによれば、「残留派=高い教育を受けた人、グローバル化の恩恵を受ける人、国際的な経験が豊富な人、一定の高収入がある人、若者層」・「離脱派=労働者階級の一部、それほど教育程度の高くない人、グローバル化の恩恵を受けない人、一部の高齢者」という階級差があるとのことですが、「理想を求める余裕のある人間」が「現実の生活に追われて理想なんか求めている余裕のない人間」に敗れたという構図が浮き上がってきます。正に敗北の六月に相応しい結果だと言えるでしょう。この極めて現実的な結果からどのように生き始めるかは決して英国民だけの問題ではない筈です。

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2016-06-23 19:09:36

敗北の六月(9)

テーマ:ユートピア

祝祭酒場の常連の安藤さんは、未だ五十代の前半ながらすでに頭髪がかなりヤバくなっており、口さがない連中から「薄毛のアン」などと呼ばれています。かかる無礼にも拘らず、アンさんはいつもカウンターの片隅で一人静かに微笑みながら盃を傾けていますが、実は誰よりも理想を貫いて生きようとしています。しかし、「理想を貫いて生きる」とは如何なることか。理想には夢とは違って明確な目標がありません。すなわち、「なりたい者になる」とか「やりたい事をやる」ということに夢の本質があるのに対し、理想はそれとは全く異なる次元でその真価が問われるのです。それは夢が成就してもしなくても、我々の日常生活の中で折々の生き方の決断を迫ります。アンさんは或る時、その具体相について次のような話を私にしてくれました。

「誰しも美女と結婚したいという夢を抱くでしょう。男なら極めて自然なことです。当然、私だって例外じゃない。おや、笑いましたね。あなたは今の私の姿を見て信じないかもしれないけど、これでも若い頃は結構女性にモテたんですよ。ちょっと、そんなに笑うもんじゃありません。別に信じてくれなくてもいいですけど、私が非常な美女と結婚寸前にまでいったことは本当なんです。いやぁ、あの時の有頂天を思い出すと今でも胸が熱くなります。それは確かに私の夢が叶ったと思わせる瞬間でした。しかし、そんな有頂天も束の間、まるで下手な小説のように私を真っ逆様に転落させる悲劇が起こりました。或る不幸な事故によって、彼女の美しい顔に消しがたい醜い傷跡が刻み込まれてしまったのです。私は悩みました。ひどく苦しみました。彼女はもはや昔の彼女にあらず。別に二目と見られぬ醜女になったわけではありませんが、顔の傷は心にまで達し、底抜けに明るかった彼女の全てが一変したのです。ひどい言い方かもしれませんが、この時、美女と結婚したいという私の夢は無残にも潰え去りました。しかし、問題はそれからです。夢の崩壊の瞬間から、私の胸の奥底から理想が囁き始めるようになったのです。オマエハコノママ、カノジョトワカレテシマウノカ。ミニククナッタカノジョカラニゲダスノカ。ソレデイイノカ。繰り返し繰り返し、そんな囁きが延々と続くのです。理想が言いたいことは明白です。醜くなった彼女を美しかった時と同じ様に愛しなさい――それが理想です。しかし、これは自然の情に反します。自然は常に美しいものを愛するように促すのです。散々悩んだ末に、私は結局彼女と別れました。それから何度も別の美女と恋愛をしましたが、彼女に替わる美女はおらず、また理想の囁きを無視したことが負い目となって、私は未だに独身です。できることなら、私はもう一度彼女とやり直したい。彼女が醜くなったあの時点に戻って、今度こそ理想を貫いて彼女と一緒になりたい。しかし、覆水盆に帰らず、一度理想を貫けなかった私を彼女の方が完全に見限ってしまいました。全く笑い話にもなりません。あなた、ここ笑うところですよ」

アンさんはいつもの微笑みを絶やすことなく、すっかり冷たくなった酒を呑み干しました。彼もまた、敗北の六月を生きる悲しい人のようです。

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2016-06-22 19:30:52

敗北の六月(8)

テーマ:ユートピア

六月は戦(いくさ)に敗れ、理想が現実の支配勢力によって幽閉生活を余儀なくされている季節です。幸い理想は未だ処刑されておらず、現実の様々な局面にその存在感を現します。例えば、級友の一人がクラスの皆からいじめられ、自分もそのいじめの輪に入らなければ同じようにいじめられるような場合、理想は「イジメナンカ、クダラナイカラヤメヨウ」と囁きます。その結果、自分もいじめられる側に転落するのが現実ですが、それでも理想の囁きは止まないでしょう。確かに、そうした局面は日常生活の折々に出来(しゅったい)し、現実は理想の囁きを掻き消そうとします。会社の不正を糾弾して逆にクビになったり、ヤクザの迷惑行為を注意して逆に半殺しの目に遭ったり、理想は大抵その人の損になることばかりもたらします。だから親もその子どもに「不正や不義を見ても関わってはいけません!」と教育するわけですが、これも当然と言えば当然です。「義を見てせざるは勇無きなり」とは言うものの、なまじ勇敢に理想を貫いたりしたら大変です。人の命は地球よりも重く、まして自分の命より大切なものはこの世に存在しません。「身捨つるほどの祖国」もなくなった平和なパラダイスでは「君子危うきに近寄らず」こそ賢明な現実なのです。しかし、それにも拘らず、理想は囁き続けます。「イノチハソマツニシテハイケナイガ、コロサレテモシナナイモノガアルノデス」 理想は実に危険です。そもそもこの世界に戦争をもたらすのは理想主義者です。もし皆がこの腐敗した世界の現実に唯々諾々と生きるなら、戦争など起こりようがないでしょう。ただ「こんなもののために生まれてきたんじゃない!」と叫ぶ理想主義者だけが戦争を引き起こすのです。全く危険極まりないことです。だからこそ現実は理想を牢に閉じ込め、大衆はそれを支持したのです。しかし、理想は依然として囁き続けます。我々は理想の息の根を止めるべきでしょうか。それとも理想を牢から救い出して、現実をこそ変革すべきでしょうか。すべてはこれからです。

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2016-06-21 19:11:41

敗北の六月(7)

テーマ:ユートピア

五月は理想社会実現のために戦った季節です。しかし、理想社会とは何か。取り敢えず「人間が本当に人間らしく生きられる社会」と言ってみても、その具体相が今一つ明確ではありません。そこで私は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮澤賢治の言葉を併せて思耕します。すると個人のエゴイズムは理想に反するものであることが明らかになります。自分だけが、自分の家族だけが、自分の国だけが幸福になっても、それは理想社会ではありません。理想社会はあくまでも世界がぜんたい幸福になる共働態なのです。ただし、誤解のないように断っておきますが、それは全体主義の共同体とは真向から対立します。実際、五月の戦いは古い価値観によって管理された一枚岩の体制に対する反逆であったと思われます。しかし誠に残念なことに、その反逆は中途半端なものに終始し、全体主義の壁を覆すことは夢と潰え去りました。結果どうなったか。若者たちはその反逆の象徴であった長い髪を切り、「もう若くないさ」と言い訳しながら企業に就職して管理社会の一員と化していったのです。かくして敗北の六月が始まり、今も続いているわけですが、全体主義に対する反逆が個人主義の幸福へと懐柔されていくのは極めて自然なことなのかもしれません。


さて、問題は全体主義の壁です。五月の戦いも決して無駄であったわけではなく、それによって全体主義の壁も変貌を余儀なくされたことは事実です。もはや個人を抑圧するあからさまな暴君の顔は影を潜め、むしろ個人の幸福を第一に考えてくれる大審問官の様相を呈しています。おそらく「家庭の幸福」を安堵してくれるなら、それがヒトラーであろうと、スターリンであろうと、毛沢東であろうと構わない――というのが大衆の偽らざる本音ではないでしょうか。ここにパラダイスの罠があります。確かにパラダイスは地獄と背中合わせであり、幸福な者と不幸な者との格差には絶望的なものがあります。しかし自分だけが、自分の家族だけが、自分の国だけが不幸を免れるなら、それでいいのではないでしょうか。誰しもそれが理想とは程遠い現実であることは百も承知です。テレビなどで社会の底辺で喘ぐ不幸な人々の姿を垣間見ると心が痛みますが、それも一時のことにすぎません。「実に哀れだなぁ・・・」と同情することがあっても、今週末に彼女とディズニーランドへ行くことの方が大問題なのです。果たして、こうした個人主義の幸福を我々は批判できるでしょうか。できるとすれば、それはパラダイスを超える理想の次元からですが、そのリアリティは未だ人々の胸に深く刻み込まれておりません。それどころか、理想を語る者はむしろ時代錯誤のデクノボオとして等閑視されるばかりです。私自身はそろそろ限界ですが、理想を語る言葉、もう一度人々を理想に向き合わせる言葉を、我々は何としてでも取り戻さなくてはならないと思っています。

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2016-06-20 23:07:51

敗北の六月(6)

テーマ:ユートピア

家には壁がある。壁がなければ家とは言えません。屋根と柱だけの東屋に人は住めず、ホームレスの人たちでさえ住むためにダンボールで壁をつくります。行き場所を失った人たちが吹き溜まるネットカフェにも壁はあります。人は壁なしでは生きていけないと言ってもいいでしょう。人生の目的として人はよく「自分の家を建てること」を挙げますが、自分の家庭を築き、その生活を守る立派な家を持つことに大きな幸福があることは間違いありません。「狭いながらも楽しい我が家」とは言うものの、一般的にはホームレスのダンボール・ハウスよりネットカフェ、ネットカフェよりもボロアパート、ボロアパートよりも高級マンションもしくは一戸建ての豪邸、という具合に幸福の度合は高まっていきます。最高のパラダイスは最高の家に住む「家庭の幸福」にあるのです。


しかし、最高のパラダイスを求めることに人間の究極的な理想があるでしょうか。私はここで「最高の家とは何か」という問題に改めて深入りするつもりはありません。と言うのも、先に述べた一般的な意味での「最高の家」、例えば何億円も費やした建物としての「最高の家」が二次的な問題でしかないことはもはや自明だからです。たとい茅屋であっても、共に暮らす家族の関係が充実していれば、そこは「最高の家」になります。逆に金ピカの豪邸であっても、その家族関係が冷え切っていれば、そこはむしろ「最低の家」に近いものになるでしょう。この文脈において、五月の反逆は形骸化した家、すなわち外見(建物)は立派でも内容(人間らしさ)のない「人形の家」に対するものだったと理解できるかもしれません。その反逆の一つの形はパラダイス(豪邸)からアルカディア(狭いながらも楽しい我が家)への回帰、すなわち「モーレツからビューティフルへ」のライフスタイルの転換です。更に言えば、ヒッピーに象徴されるカウンターカルチャーは「本当に人間らしい生活」の追求だと言えますが、それは伝統的な家を含む非人間的な壁(旧体制)を破壊して自然に還る運動でした。しかし、幸か不幸か、その反近代の運動はついに壁そのもののラディカルなディコンストラクションにまでは至りません。何故か。差別という名の非人間的な壁は悪しき人工の産物だとしても、差異という壁は自然の産物だからです。例えば、男女差別の壁はなくさねばなりませんが、さりとてそれは男湯と女湯の壁をなくすことにはならないでしょう。男性と女性は違う。白人と黒人も違う。差別の壁をなくしても差異の壁はなくなりません。そもそも私とあなたは違うわけで、人間の本質が諸関係の総合にあるにせよ、その核となるのは(キルケゴールを援用すれば)「自己自身に関係する関係」です。つまり、人間には一人っきりになる時間と空間が必要不可欠であり、それを確保する基本的な壁なくして個人の生の充実などあり得ないのです。ただし、その壁の内側に引きこもり続けるならば、その充実はついに自己満足の閾を出ないでしょう。勿論、「自己満足で結構!」と開き直る生き方もあるでしょうが、それでは余りにも寂しすぎます。しかし、単なる自己満足以上の生の充実を求める時、それは往々にして個人の壁(自己自身に関係する関係)とは別の新たな壁をつくることに至ります。それが対の壁であり、家族の壁なのです。更にもう一つ、国家という壁がありますが、五月の反逆は正にこの壁に対するものだったと私は理解しています。恰も「楽しい我が家」がいつの間にか息苦しい「家長制度の家」と化してしまうように、我々の魂のふるさとであった「くに」も知らぬ間に忠誠を強要されるような「国家」へと変貌します。そして民衆を他の「国家」との戦争に駆り立てる悲劇にまで行き着くのですが、全て原因は国家という壁にあります。残念乍ら、五月の反逆では国家の壁をブチ抜くことができず、むしろ逆に撥ね返されて敗北の六月の今があるのですが、どうしてこんな結果になってしまったのでしょうか。敗因は色々と考えられるでしょうが、結局のところ、大衆の願望が国家の壁をブチ抜くことではなく、むしろ国家の壁に守られてそれぞれの「家庭の幸福」を享受することにこそあった点が決定的だったと思われます。確かに、そこには国家の更なる変貌があります。実際、悲惨な戦争の体験を経て、あからさまに御国のために尽くすことを強要するような国家の壁はなくなったように見えます。しかし、本当にそうでしょうか。かつての御国第一主義に反逆した人々の多くは家庭第一主義へと転向しました。国家自身も「国民の生活が第一」などと嘯き、世の中の価値観は国民一人一人の「家庭の幸福」を至上のものと見做しています。正にパラダイス! 敗北の六月は今や、太陽の季節を迎えようとしているかのようです。(どうも再び思耕が迷走して収拾がつかなくなったので出直します。)

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2016-06-10 18:11:57

敗北の六月(5)

テーマ:ユートピア

私は壁をつくる。その壁の内側に引きこもり、自分の好きなことだけをして過ごす。それを個人幻想の快楽とします。その快楽だけで充実した人生を送る人(その多くはオタクと呼ばれる)もいるでしょうが、少なくとも最高の生の充実とは言えません。大抵の場合、人は愛する異性(同性もあり得る)を見出し、二人で壁を築き、その内側で二人の好きなことだけをして過ごしたいと願います。これを対幻想の快楽とします。かつて「世界は二人のために」という歌が流行しましたが、互いに愛し合う二人のためだけにある世界の蜜の味は(未だ私は体験したことがないものの)間違いなく個人幻想の快楽を超えるものでしょう。更に二人の間に子どもが生まれれば、家族で壁をつくり、その内側で一家団欒の快楽を味わうことができます。それは個人幻想や対幻想の快楽に優る充実を生にもたらしますが、子どもはいつまでも子どものままではありません。やがて子ども自身が個人の壁をつくり、愛する人と二人で壁をつくるようになり、延いては自分の家族の壁を新たにつくるに至ります。その際、親の家族の壁と子どもの家族の壁が同心円の層となる(大家族化)ことも考えられますが、最近はそれぞれの壁が独立する(核家族化)ことの方が一般的でしょう。どちらの「家族のカタチ」になるにせよ、個人幻想の快楽に端を発する人生の充実は対幻想の快楽を経て「家庭の幸福」に極まると言えます。


勿論、「家庭の幸福」が永遠に続くとは限りません。最近流行の不倫で亀裂が生じ、そのまま崩壊してしまうこともあり得ますが、そのような不測の事態がなくても主に子どもの成長に応じて「家庭の幸福」は様々に変容します。時に子どもの反抗・非行・引きこもり等によって崩壊の危機に瀕することもあります。しかし、そうした紆余曲折の一切を含めての「家庭の幸福」であり、「ヨイトマケの唄」よろしく子どものために苦しむこともまた人生の充実となるのです。ちなみに朝ドラの「とと姉ちゃん」の生の充実もそうです。彼女は自分のことは全て後回しにする。自らの個人幻想・対幻想の快楽を極力封印していると言ってもいいでしょう。しかし彼女に自分が家族の犠牲になっているという意識は皆無です。家族のために生きることが(たといそれが苦しみに満ちたことであったとしても)彼女の生に充実をもたらしているからです。親は子どもの成長ために苦しみ、子どもは老いて呆けた親の介護で苦しむ。それは当然の循環であり、そこに犠牲の意識などあり得ません。


しかし乍ら、現実には「家庭の悲劇」が絶えません。親が子どもを殺し、子どもが親を殺す世の中です。何故こんな惨めなことになってしまったのか。逆説的に言えば、原因は「家庭の幸福」にあります。太宰治がいみじくも述べたように、「家庭の幸福は諸悪の本」なのです。まもなく今年もまた桜桃忌が巡ってきますが、敗北の六月には人を死に誘(いざな)う魔力があるのかもしれません。

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2016-06-09 19:32:22

敗北の六月(4)

テーマ:ユートピア

連日、杜撰な思耕のまま便りをしていますが、もはや私の弱った頭脳では精緻な思耕など望むべくもなく、徒に時間を費やしても大した成果が得られないので思いつくまま書き綴ることにします。結局、私が問題にしたいのは人間の究極的な理想です。理想というものは一般的に人間の自然な欲求に基く幸福願望だと言えますが、それは往々にして自然を超える欲望と化して限りなく膨張していきます。前者の自然に即した幸福願望をアルカディア志向と称するならば、自然を人工的に制御することによる後者のそれはパラダイス志向と理解することができるでしょう。理想を求める人間の歴史はアルカディアからパラダイスへと移行してきたと考えられますが、環境破壊や経済格差などパラダイス志向が絶望的に行き詰っていることは明白です。それ故、アルカディアへの回帰が求められたりするわけですが、「自然に即した幸福願望」とは如何なるものでしょうか。


さて、純粋アルカディアは「無為自然の楽園」ですが、自然にそこにあるものを食べているだけの完全に受動的な生活など現実にはあり得ません。人間に限らず、あらゆるイキモノに無為はあり得ないと言ってもいいでしょう。殊に人間は狩猟採集段階に止まらず、農耕や畜産によって食糧の生産量を飛躍的に発展させてきました。これによって多くの人を養うことが可能となり、社会の規模も大きくなっていきますが、同時に貧富の差も大きくなっていくのは歴史の教科書にある通りです。しかし、たとい環境破壊や経済格差の原因が自然の許容範囲を超えた生産量の拡大にあるとしても、もはや逆戻りはできません。勿論、小農的アルカディアの清貧生活に活路を見出す道は否定できませんが、精神的にも物質的にも豊かな生活を求めるパラダイス志向の流れは容易に方向転換できないからです。例えば、環境破壊の問題解決は豊かな生活の断念ではない筈です。確かに電気もガスもない自然のままの生活に戻れば環境破壊はなくなりますが、そのような解決を望んでいる人など殆どいないでしょう。重要なことは、環境を破壊する原発などに替わる自然エネルギー技術の新たな開発によって今まで通りの、いや今以上に豊かな生活を実現することに他なりません。清貧生活に心の豊かさを見出し、それこそ人間の真の豊かさだと信じる人たちを無視するつもりはありませんが、物質的な豊かさを捨て切れなかった人たちが主流となっているのが敗北の六月の偽らざる現実なのです。

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2016-06-08 23:15:45

敗北の六月(3)

テーマ:ユートピア

山崎豊子の「二つの祖国」は誠に心打たれる大作です。私事ながら、アメリカ留学に出発した昭和五十九(1984)年のNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」の原作がこの作品だったので、若き松本幸四郎演じる日系人の苦闘とこれから始まる自らのアメリカ生活への不安とが重なり合って実に複雑な思いに駆られていたことが今でも甦ってきます。幸い、五年に及ぶ留学生活で私自身はそれほど酷い差別を受けませんでしたが、当時の日系人の生活は苛酷を極めたようです。しかし、これは単に「アメリカは悪い!」という問題でないことは言うまでもありません。悪いのは日本も同じで、日系人はアメリカでは日本のスパイとして、日本ではアメリカのスパイとして、それぞれ不当に弾圧されて何処にも居場所がなかったのです。国の正義が問われるのは当然ですが、根源的な問題は正義を歪めてしまうもの、すなわち壁の存在です。壁があるからこそ、それぞれの壁の内側にいる異分子が排除の対象とされるのです。しかし、よくよく考えてみれば、これは免疫システムと同じで極めて自然かつ必要なことだと言えます。壁もなく、あらゆるものの侵入を自由に許していたら、身体も社会もたちまち病気になってしまうでしょう。従って、「壁のない世界」は自然に反する極めて危険な理想だと見做されても仕方ありません。しかし、本当にそうでしょうか。


そもそも異分子とは何か。免疫システムは私の内部に私でないものが侵入してくるのを防ぎます。その際、私自身が一つの壁であり、私以外のものは全て異分子として排除の対象になるでしょう。しかし私が恋をして或る女性と結ばれれば、彼女はもはや私の異分子ではなくなります。と言うより、私と彼女は一対の存在となり、それぞれの壁は消滅するのです。尤も、やがて愛が冷めればそれぞれの壁も復活し、私と彼女の対存在の方が消滅しますが、愛が持続して子宝に恵まれれば血縁の輪が広がっていきます。その結果、家族を中心とした親類縁者もまた私の異分子ではなくなります。更に言えば、同じ国土に生まれ、同じ言葉を話し、同じ歴史と伝統・習慣を共有する者、すなわち一つの共同幻想を抱く者は私の同胞であり、異分子ではなくなります。このようにして私は今、日本という壁の内側で生活しているわけですが、そこが一枚岩のパラダイスでないことは明白です。しかし、一枚岩のパラダイスとは何でしょうか。異分子(外国人)を全て排斥(攘夷)して純粋に日本人だけの国にすることでしょうか。しかし、純粋な日本人とは何か。法的に帰化しただけでは、例えばドナルド・キーン氏のように普通の日本人以上に日本の歴史と伝統に造詣が深くても純粋な日本人にはなれないのか。逆に民族としては日本人でも天皇制を否定する者はどうか。どうも私の思耕は迷走するばかりですが、異分子の排斥を徹底しようとしてもキリがなく、純粋な同胞だけから成る一枚岩のパラダイスなどというものは現実にはあり得ないことを取り敢えず明言しておきたいと思います。

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