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2017-02-09 23:52:56

キチガイと大衆社会(7)

テーマ:ユートピア

婆さん社長は明らかに自分の会社を「御恩-奉公」の封建制的構図でしか理解しておりません。すなわち、我々従業員は生活を安堵して下さる御主人である社長様のために尽くすべき奉公人なのです。実際、社長は時々我々のことを奉公人と呼ぶことがありますし、経理を担当している私などは番頭さんと称されることもあります。周知のように、これに対して労働基準法には「労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」と明確に謳ってありますが、「対等の立場」が本当の意味で実現している会社など皆無だと思われます。それは有給休暇の平均取得率が50%程度に止まっていることからも明らかでしょう。尤も、本日のニュースによれば、オリックスという会社は社員に休暇の取得を促すために5日以上続けて有給休暇を取ると最大で5万円の奨励金を支給する制度を4月から導入するそうです。それによって昨年度は65%だった有給休暇の取得率を来年度は80%以上に引き上げたいとのことですが、こうした流れが一般化していけば労使の「対等の立場」はやがて実現に近づいていくのかもしれません。しかし乍ら、これは何か奇妙な感じがしないでしょうか。何故、奨励金まで出して社員の休暇取得を促さねばならぬ必要があるのか。その御蔭でオリックスという会社の企業イメージは格段に良くなるのは当然ですが、そもそも労働者の権利である有給休暇をどうして多くの社員は積極的に取ろうとしないのか。そこには「取りたくても取れない現実」があるのでしょうが、そうした「大衆の現実」の改善が会社主導で(社員自身の主体的意志によってではなく)行われるとすれば、それは依然として「御恩-奉公」という構図から一歩も踏み出せていないことを意味するのではないでしょうか。勿論、有給休暇を誰に気兼ねすることもなく自由に100%消化できる「優良企業」で働けることは実に幸福なことでしょう。しかし、それは優良な御主人様の下で働ける幸福と一体何が違うのか。キチガイの混乱はまだまだ続きます。

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2017-02-08 20:35:06

キチガイと大衆社会(6)

テーマ:ユートピア

私が糊口を凌ぐために現在勤めている職場は典型的な同族会社であり、八十過ぎの婆さん社長の私物と化しています。当然、その時代錯誤的なワンマン経営には納得できないことも少なくなく、私は折に触れて辞意を表明していますが、基本的には優遇されていることもあってズルズルと勤務し続けているのが現状です。実際、私自身が勤務上の不利益を蒙ることは殆どなく、むしろかなり自分の意向を通しています。ただし、それはあくまでも婆さん社長からの恩恵として認められているものであり、他の従業員(と言っても実質的には二人のおばさんしかおらず、他は婆さんの娘など勤務実態のない幽霊社員)には認められないものです。例えば、最近私は高齢の母の介護の問題もあって毎月帰省しておりますが、それは私だけに与えられる特別休暇の形になっています。それが何かと心苦しいので、先日私は社長に年次有給休暇制度の導入とその徹底を進言しました。すなわち、社長から「特別に休暇を戴く」のではなく、今後は誰でも必要な時に「自由に休暇を取る」ことができる権利を認めて欲しいと要望したのです。結果は却下、「そういう制度があることは知っているが、この私の会社では休暇をあげるかどうかを決定する権利はあくまでも社長である私にある」という姿勢を崩しませんでした。「経営者にそんな権利などはない。社長は有給休暇制度を全く理解してない」と反論しましたが、婆さんには糠に釘、およそ議論など不可能です。しかし、ここで私が問題にしたいのはそうした前近代的な婆さんの態度ではなく、他の従業員の一人が私に対してとった態度なのです。私としては僭越ながら他の従業員の待遇改善にもなればと思って社長に進言したのですが、案に反して「自分を巻き込んでくれるな」とその人は社長が不在になった時に私に言ったのです。以下、その人との会話。

「どうしてですか。このままでいいんですか」

「どうせあの社長に何を言っても無駄ですよ。何も変わりません」

「でも、変えなければ、碌に夏休みもないような状態が続くんですよ。それでいいんですか」

「仕方がないですよ」

「このまま社長の召使のように働き続けることに甘んじるわけですか」

「あなたは特別なんですよ。私があなたと同じようなことを言ったら、一体どうなることか・・・」

「そんなことはないでしょう」

「あなたは何もわかってないんですよ」

果たして、本当にそうでしょうか。確かに私は幸か不幸か(多分不幸)未だ独身であり、背負っているものが多くありません。一昨日九十一歳になった母のことは常に念頭にあるものの、殆ど「我が身一つの人生」だと言ってもいいでしょう。それ故、私はいつ馘首されてもいいという気持で比較的自由に勤務していますが、件の従業員にしても別に解雇が怖くて「自分を巻き込んでくれるな」と言ったわけではないと思われます。事実、そのおばさんには会社を辞めても困らないだけの経済力があり、ワンマン社長の横暴に甘んじなければならぬ客観的な理由などないのです。では何故、そのような社長の支配から自由になろうとしないのか。そこにはやや複雑な事情があるようですが、結局のところ若い頃から長年社長に仕えてきた生活の在り方を変えることができない、ということだと思われます。常々私には社長の自分勝手な振舞に対する愚痴をこぼしているくせに、決して社長に面と向かって反抗しようとしないその人の態度に私は無性に腹が立ってなりません。私はそこに大衆の典型を見るわけですが、所詮私は「大衆の現実」が何もわかっていない(あるいは、何もわからないままで済ませられる)恵まれたキチガイにすぎないのでしょうか。たといそうだとしても、そもそも「大衆の現実」とは何か。

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2016-12-29 17:18:53

キチガイと大衆社会(5)

テーマ:ユートピア

皆がルールを守って整列しているところに横から割り込もうとするバカがいれば、誰しもそのような自分勝手を許すわけにはいかないと思うでしょう。しかし、そのバカがプロレスラー並みの大男で「オレは自由だ。文句があるか!」とニラミを効かせて一喝すれば、殆どの人はムニャムニャ言って我関せずの態度で誤魔化そうとするしかありません。凡そ一対一で敵う相手ではないし、下手に勇気を出して喧嘩をしても、怪我をするだけ損だからです。バカは無視するのが一番。独裁者を気取りたいバカには気取らせておけばいい。ただし、その横暴が目に余るようであれば、その時は警察権力のお出ましです。たとい自分一人では何もできぬ臆病者でも、公的権力に頼ることでルールの徹底を求めることができます。かくしてルールを遵守する善良なる大衆は、結果的に社会の中心に君臨することになるのです。おそらく、「心身共に健康な人間」とはそのような大衆として生活することでしょう。そして、いみじくも桜井先生がおっしゃるように、「心身共に健康な人間」ばかりであれば社会は間違いなく滑らかに動いていくのです。

全ては大衆のため、これと言った特性のない気の弱い小心者でもルールを守って清く正しく生活していれば必ず幸福になれる社会こそがパラダイスなのです。とは言え、この現実世界は未だパラダイスとして完成しておらず、ルール違反のバカが少なからず横行しています。しかし、今後そうしたバカどもを厳しく取り締まる権力が確立されれば、全てが滑らかに動いていくパラダイスが実現する筈です。そこではあらゆる不正が一掃され、それぞれの人間の能力の違いによって貧富等の格差が生じざるを得ないものの、富める者(能力のある者)は貧しき者(能力のない者)を極力助けるべしというルールの徹底によって万人がそれなりに(相対的に)幸福に生活できるようになるでしょう。確かに、これは大衆社会の完成形だと言えますが、このような水晶宮の如きパラダイスを我々の本当の理想と成し得るでしょうか。一切がルールに従って滑らかに流れていく社会――おそらく地下生活者なら「ニニが四、それは死の始まりだ」としてパラダイスの壁に頭を打ち付けるに違いありません。言うまでもなく、この地下生活者は不健全な精神を有するキチガイです。キチガイは単なるルール違反のバカとは質的に異なる存在ですが、明らかにパラダイスとは根源的に異なる理想を求めています。それをユートピアと称するならば、その核となるのはやはり大衆抹殺論だと思われます。

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2016-12-27 23:17:55

キチガイと大衆社会(4)

テーマ:ユートピア

「時田、いいかい、世の中の仕組は、心身共に健康な人間にとても都合良く出来てる。健康な人間ばかりだと、社会は滑らかに動いていくだろう。便利なことだ。でも、決して、そうならないんだな。世の中には生活するためだけになら、必要ないものが沢山あるだろう。いわゆる芸術というジャンルもそのひとつだな。無駄なことだよ。でも、その無駄がなかったら、どれ程つまらないことだろう。そしてね、その無駄は、なんと不健全な精神から生まれることが多いのである」――これは勉強ができない時田秀実の担任・桜井先生の言葉ですが、一つの真実を言い当てていると思われます。しかし、不健全な精神とは一体何でしょうか。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言いますが、かつて三島由紀夫はこれに関連して「井戸は深ければ深いほどそれを支えるに足る堅固な壁が不可欠になるように、精神の闇に深く下降していくためにはそれ相当の強靭な肉体が必要になる」という趣旨のことを述べていました。彼の場合、そのような下降こそが芸術創造を意味したでしょうが、それは何もプロの芸術家に限ったことではないでしょう。そもそも芸術を精神の深淵への下降と理解するならば、かかる不健全な運動を必要とするのは一体誰か。

桜井先生によれば、芸術は(日常)生活には必要ない無駄なことだそうです。しかし、その無駄がないと生活はつまらない、とも言っています。この場合の芸術は言わば主食に対する嗜好品のようなものにすぎず、その創造に特に不健全な精神は必要ありません。例えば、東日本大震災のような非常時にはプロ野球もバラエティ番組も一斉に自粛しましたが、一体何故でしょうか。生き延びることだけに必死にならざるを得ぬ限界状況ではプロ野球もバラエティ番組も生活には必要のない余計なものだったからです。そのような娯楽は日常生活に或る程度の余裕が生まれて初めて意味を成すでしょう。芸術もまたそういうものにすぎないのなら、それを生み出すのは健全な精神に他なりません。すなわち、ここには未だ不健全な精神の出る幕などないのです。

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2016-12-26 23:56:59

キチガイと大衆社会(3)

テーマ:ユートピア

近頃は大衆社会の平穏無事を乱す輩は猫も杓子もキチガイとして排除の対象になりがちです。一昔前には秋葉原通り魔事件、今年も相模原障害者施設殺傷事件などがあり、正に「浜の真砂は尽きるとも世にキチガイの種は尽きまじ」の観を呈しています。しかし乍ら、こうした悲惨な事件を引き起こした当事者を単にキチガイとして排除すれば事足りるのでしょうか。そもそも、どうして彼等は平穏無事な大衆社会で皆と同じように幸福に生きられなかったのでしょうか。考えられる答えは唯一つ、彼等にとって大衆社会は平穏無事でも何でもなかったからです。むしろ、こんな腐った社会で平穏無事に生きていられる奴等に無性に腹が立ったのだと思われます。そこがキチガイのキチガイたる所以だと言ってしまえば身も蓋もありませんが、ハムレットの言葉を借りれば、彼等の狂気には一本筋が通っているような気がしてなりません。勿論、だからと言って彼等の犯罪が擁護されるべきでないのは当然です。テロリズム同様、如何なる「正義」も暴力によって筋を通そうとするのは醜悪だからです。忠臣蔵の美談もよく考えてみれば、その筋の通し方は実に醜悪です。一人のクソジジイを寄って集ってなぶり殺しただけのことです。

とまれ、キチガイにはキチガイなりの「論理にならぬ論理」があります。それは往々にして独り善がりの「正義」にしかすぎませんが、その没論理は大衆社会にとって極めて大きな脅威になるでしょう。全くどこから飛んでくるのか予想もつかぬ矢のように突き刺さってくるからです。振り返って見れば、かつて「安保反対!」と叫んで国会前や新宿で大暴れしていた若者たちも当時の良識ある大人たちからすればキチガイとしか思えなかった筈です。「禁ずることを禁ず」とか「我々の内なるポリ公を殺せ!」と主張してパリのパヴェ(敷石)を剥がしていた連中も同じです。あのキチガイどもはその後どうなったのか。「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」と言った人は後にノーベル賞に輝きましたが、殆どのキチガイはキチガイであることをやめ良識ある大人の仲間入りを果たしました。果たして本当にそれで良かったのでしょうか。

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2016-12-25 23:00:08

キチガイと大衆社会(2)

テーマ:ユートピア

フランケンシュタインと思しきグロテスクな大男が山奥から街に下りてくる。そこではクリスマスの集いが始まろうとしており、男はスマホに録音してきたオルゴールのメロディに合わせて聖歌を口ずさむ。彼もまた皆と一緒にクリスマスを祝いたいのだ。しかし、周囲の大衆たちは男の異相に恐れをなして黙り込み、遠巻きに冷たい眼差しを向けるばかり…と、その時、一人の純真無垢な少女が男と共に歌い始める。すると、一人また一人と男と一緒に歌い始める人が増え、やがて大合唱になっていく。そして、「心を開こう、誰にでも」というメッセージが現れる――これは今、盛んに流されているテレビのCMです。正にクリスマス・シーズンに相応しい内容で、わずかな時間ながら実に清々しい思いになります。しかし、野暮を承知で言えば、大衆は本当に誰にでも心を開くことができるでしょうか。誰にでも心を開く純真無垢な少女は、その純真無垢が仇となり、最悪の場合には犯罪に巻き込まれて殺されてしまうのが現実ではないでしょうか。少なくとも私には「心を開こう、誰にでも」ではなく、「人を見たら泥棒と思え」もしくは「キチガイには近づくな!」こそが大衆の本音であるような気がしてなりません。

実際、件のCMの大男はどうして山奥に一人で住んでいるのでしょうか。善良なる大衆の皆さんに山奥に追いやられたに違いありません。今はクリスマス・シーズンだから皆も心を開いて大男を受け容れていますが、今後も大男が街で他の一般大衆と一緒に暮らせるでしょうか。クリスマスが終わって日常の生活に戻れば、グロテスクな大男はただ気味悪い存在でしかないでしょう。どうしてこんなヘンな奴と無理に関係を持つ必要があるのか。率直に言って、大衆はすでに自分たちのコミュニティの中で十分幸福なのだから、敢えてそこに異分子を迎える必要などないのです。むしろ、異分子の受容は(それが善であっても悪であっても)既存の平穏無事なコミュニティの構造に乱調をもたらすが故に避けられるべきです。かくして大男は再び一人寂しく山奥に帰って行くしかないのですが、その背後から「帰る必要はない、君もここで共に生きるべきだ!」と大男に呼び掛ける奇特な人がいるとすれば、その人もまたキチガイと見做されて山奥に追放される覚悟をしなければなりません。「心を開こう、誰にでも」――大衆はこのメッセージに相好を崩しながらも、「ただしキチガイは別」という一線を決して踏み越えることはないのです。

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2016-12-21 18:45:04

キチガイと大衆社会

テーマ:ユートピア

単純素朴に「自由とは何をしてもいいことだ」と主張するならば、「全ての人間が自由になれる社会」においては全ての人間が独裁者になってしまいます。尤も野卑な例を挙げれば、或る男性が極めてセクシーな女性を目にした際に「オレにはこのオンナをレイプする自由がある」などと主張する場合です。勿論、これは女性の人権を蹂躙する実に馬鹿げた主張であり、こんな自由が許される社会は悪夢でしかありません。むしろ、この色情狂の如き全てのキチガイの自由、すなわち他者を殺す自由、他者のものを盗む自由などが断じて許容されないように厳しく管理された社会の方が望まれるでしょう。そのためには強大な警察権力も歓迎され、その厳格な支配の下で平穏無事に暮すことが幸福とされるのです。実際、今や街中至る所に監視カメラが設置され、キチガイどもが出現してくる危険を見張っています。また、昨今のテレビドラマの多くは所謂「刑事モノ」であり、幸福な生活を営む大衆の安全をキチガイどもの犯罪の魔の手から守る姿が英雄的に描かれています。こうした風潮から消去法を以て考えれば、キチガイが完全に排除された大衆社会こそが人間の理想になるでしょう。しかし、果たして本当にそうでしょうか。そもそもキチガイとは一体誰なのか。

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2016-12-17 05:39:19

大衆抹殺論(10)

テーマ:ユートピア

「これまでの全ての革命は敗北するか変質した。そこから革命的闘争を放棄しなければならない、と結論すべきなのであろうか。諸革命の敗北、諸組織の変質はそれぞれの水準で既成社会がプロレタリアートとの闘いで一時的にどうにか勝ちを収めた、という同じ事実を示している。そこから事情は常に同じであろうと言いたいのなら、その時は論理的でなければならないし、どこかに引きこもらなくてはならない。と言うのも、組織の問題を提起することは自分たちが共同で、従って組織されることによって闘うことができるし、闘わなくてはならないと確信し、自分たちの敗北が不可避であると仮定しない人々の間でしか意味を持たないからである」(コルネリュウス・カストリアディス)

既成社会とは大衆社会です。そこでは大衆の生活が第一とされ、大衆の幸福が至上の価値をもって君臨します。かつてヘーゲルは「オリエントでは一人が自由であり、ギリシア・ローマでは若干の人が自由であり、ゲルマンでは全ての人が自由になる」と述べましたが、地理的な問題はさておき、我々の歴史が「全ての人が自由になる世界」に収斂すべきことは間違いないと思われます。では、大衆社会がそのような世界なのでしょうか。

一人だけの自由、すなわち独裁者の自由はそれ以外の一般大衆を抑圧します。大衆(他者)を抑圧することで自分だけが好き勝手なことをするのが独裁者の自由だと言ってもいいでしょう。勿論、そのような我儘が真の自由である道理はなく、大衆もいつまでも抑圧されたままではいません。虐げられた大衆はやがて蜂起して、必ず独裁者の首を刎ねます。大衆蜂起による独裁者の打倒!これは今や殆ど歴史の法則と化しているように思われますが、現実には未だ独裁者はこの世界に潜在しています。何故か。現代の独裁者はもはやかつてのような暴君の顔を持っておらず、むしろ大衆の味方のような顔をしているからです。大衆の味方? 然り、大衆の幸福は独裁者の存在と不可分なのです。もし独裁者の完全否定を望むなら、大衆は幸福以上の価値を人生に求めることになるでしょう。しかし、それは大衆自身の自家撞着に他なりません。くどいようですが、大衆社会には幸福以上の価値などあり得ないのです。

問題を整理します。独裁者の「一人だけの自由」が否定されるべきなのは当然であり、もはやそこに原理的な議論の余地はありません。問題は、それにも拘らず独裁者はこの世界から根絶されておらず、大衆もまたその根絶を本当には望んでいないという現実にあるのです。更に言えば、「全ての人が自由になる世界」の実現を阻んでいるのは独裁者というよりも、むしろ大衆です。確かに自由を求める大衆蜂起によって目に見える暴君としての独裁者は打倒されました。しかし、それによってもたらされた自由社会の内実は個人主義を核とする格差社会に他なりません。すなわち、一方に贅を尽くした豪邸生活の自由もあれば、他方に狭いながらも楽しい我が家の自由もある、という世界です。尤も、自由を富の多寡によって格付けしたところで、金持の自由だけが幸福をもたらすわけではないでしょう。金持にはできることが貧者にはできないという現実はあるものの、落語の長屋世界に見られるような貧者の自由もまた幸福の一つのカタチです。また、自由とそれによって得られる幸福が上流・中流・下流と分けられるとしても、全ての人にそれらへの機会が均等に与えられているのなら、格差社会も強ち不当だとは言えません。例えば、最近のスポーツニュースではプロ野球選手の契約更改が報じられていますが、今シーズン大活躍した選手が億単位の高額年俸を獲得しても、誰も不当だなどとは(羨望はしても)思わないでしょう。能力のある者がそれに見合った努力を積み重ねて得た成果に対してはそれ相応の報酬が与えられるべきであり、能力のない者(障害のある者も含む)、能力があっても努力をしなかった者の成果に対する報酬が少なくても、それは正当なことです。実際、これといった特性のない一般大衆にとって、糾弾されるべきは大金持そのものの存在ではなく、怠け者のボンクラが親の七光りで甘い汁を吸っているような不当性でしょう。或る人が己の才覚(たとい悪知恵であったとしても)を駆使してどんなに巨万の富を築いても、大衆はそれに憧れこそすれ決して非難の眼差しを向けることなどありません。むしろ、才覚のある人の強烈なリーダーシップの下で自分もそれなりに豊かになれることを望んでいると思われます。「願わくば自分にもそんな才覚があれかし」と思いながら、凡庸な自分の身の丈に合った自由を享受する――そこに大衆の幸福があります。これこそ独裁者が打倒された後に訪れる自由社会であり、そこには格差を容認した大衆の自由と幸福が渦巻いています。上流の自由もあれば、中流・下流の自由もある――果たしてこれが「全ての人が自由になる世界」だと言えるでしょうか。

ところで、安倍首相はかつて「日本は貧困かといえば、決してそんなことはない。日本は世界の標準でみて、かなり裕福な国だ」と国会で発言しましたが、おそらく大衆はこんなノーテンキな認識さえ許容するでしょう。実際、「日本の貧困率は16%で、6人に1人が貧困だ」などと報じられても、それは相対的貧困率にすぎず、本当に生存の危機に瀕している絶対的貧困者は(世界の標準でみて)極めて少数だと思われるからです。勿論、たとい少数であっても、餓死寸前の生活困難者やホームレスの人々が苦しんでいる現実を無視すべきではなく、ましてや「日本はかなり裕福な国だ」などと嘯いていられる神経は実に醜悪極まります。しかし、それならば何故、安倍政権はかくも長きに渡ってこの国を支配し続けていられるのでしょうか。答えは簡単明瞭、大衆がそれを支持しているからです。大衆はたとい自分が金持になれなくても、曲がりなりにも日々の暮らしが持続していれば、それで幸福になれます。なかなか安定した生活とまでは言えない。しかし折に触れて目に飛び込んでくる路上生活者の悲惨な姿に比べれば、まだ自分はマシだと思う。自分さえ、自分の家族さえ、自分の周囲の友人知人さえ平穏無事であればそれでいい。現実に貧困の泥沼の中でもがき苦しんでいる人々に対する心の痛みは歳末助け合い運動などへの募金で善意に変換することができるでしょう。宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べましたが、「世界全体の幸福」などという理想よりも「個人の幸福」という現実が重視されるのが大衆社会なのです。それは移民を拒絶する英国民や米国民の現実的な選択もさることながら、沖縄に米軍基地の殆どを押し付けて自分たちはのうのうと平和な日々を享受している我々の社会の現実でもあります。

何れにせよ、人間が幸福を願うのは極めて自然なことです。トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭で「幸福な家庭は皆一様に似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ不幸の相も様々である」と述べていますが、「家庭の幸福」は言わば幸福の最大公約数の如きものであり、大衆の生活も結局はそこに安らぎを見出していくものと考えられます。すなわち、能力に恵まれた人たちはノーベル賞とか金メダルなどに象徴される夢の実現に至上の幸福を求めていくでしょうが、一般大衆はそうした天才たちの華麗な人生に憧れつつも「家庭の幸福」というささやかな現実に自らの至福を織り込んでいくのです。とは言え、「家庭の幸福」を得ることもそんなに容易なことではありません。愛する人と暮らし、やがて子供を授かり、一家団欒の時を得る――そんな何でもないようなことこそが幸せの原点であり、そこへと至る困難さは金持の家庭でも貧乏人の家庭でも大差ないでしょう。子供たちに巷で人気の高価な玩具をプレゼントできる裕福な家庭とそれができない貧しい家庭――前者の方がより幸福とは一概に言えないのは当然です。むしろ、金に目が眩まない分だけ貧乏人の家庭の方が原点に接近しやすい場合もあり得ます。かくして人は貧富の差に関係なく、それぞれの道を辿って自由に幸福を求めるわけですが、ここには一つ大きな問題があります。それは所謂「not in my backyard」の生活態度です。つまり、誰しも自分たちの幸福を脅かすものは排除したいと思い、世界のどこかで誰かの幸福が侵害されている現実には同情するものの、その脅威を自分たちで積極的に担うことは断固拒絶する、というエゴイズムです。先述の移民や米軍基地の場合も然り。移民の存在が自分たちの幸福を脅かしているとなれば移民を徹底排除しようとする。それが非人道的な選択だとしても、誰も「じゃあ、自分たちの町で移民を受け容れよう!」などは言いません。移民たちの幸福は自分たちの幸福とは別次元の問題なのです。米軍基地も同様であり、それが沖縄の人たちの幸福を脅かしているのは明白ですが、誰も自分たちの町への米軍基地の移設は望まない。もし奇特な人が「これまで沖縄の人たちに押し付けてきた苦しみを今度は我々が担おう!」などという理想論を掲げて地元への基地移設を推進しようとすれば、その人はたちまち袋叩きにあうでしょう。それが自分たちの幸福を至上のものとする大衆の論理です。そして、強大な権力を持った独裁者が大衆の幸福をあらゆる脅威から守ってくれるなら、大衆はその独裁者を大歓迎するでしょう。かつて大衆の自由を抑圧した暴君としての独裁者は今や大衆の幸福を保全する見えざる独裁者として甦っています。ここに大審問官の論理が息づいているのは明白ですが、我々は大審問官とそれを歓迎する大衆の論理をラディカルに否定することができるでしょうか。もしできるとすれば、それこそが革命を意味するのですが、冒頭でも引用したようにそれは常に敗北してきました。自分たちの自由と幸福を抑圧する独裁者に対する大衆蜂起には勝利しても、その先にある筈の民衆連帯にまではなかなか到達できません。革命は未だ遠し。大衆勝利から大衆抹殺への反転攻勢を試みても、それはいつも結局は大衆と大審問官の論理に呑み込まれてしまいます。幸福に至上の価値を見出す大衆社会の城は正に真田丸の如き難攻不落の様相を呈していますが、突破口はないのでしょうか。先述の宮澤賢治の言葉に即して言えば、「個人の幸福」という現実を「世界全体の幸福」という理想に止揚するためには幸福を超越する次元への逆説的飛躍が要請されると思われます。そこにしか突破口はない、と今のところ私は考えています。

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2016-09-01 19:33:57

大衆抹殺論(9)

テーマ:ユートピア

革命とは鎖を断ち切ることですが、それは孤立を意味しません。むしろ民衆連帯を通じてこそ革命は成就するのです。例えば米軍基地の一掃は、沖縄のみならず本土、更には韓国の民衆連帯を要請します。それは当然、アメリカの支配という鎖を断ち切ることを意味しますが、同時にその強大な軍事力による安全保障の放棄でもあります。そもそも日本国憲法第九条によれば、我々は戦争を放棄して武力も保持しないことになっていますが、これが理想論であることは明白です。現実の世界は常に戦争やテロリズムに巻き込まれる危険性に晒されており、今まで曲がりなりにも日本が平和を享受してこられたのは偏にアメリカ様が守って下さった御蔭でしょう。そのアメリカの鎖を断ち切るとなれば、既存の自衛隊を更に本格的な軍隊に発展させ、徴兵制も復活させて「自分たちの国は自分たちで守る」という原則を徹底させることになります。さもなければ無抵抗主義の理想を貫いて、たとい一億総皆殺しという最悪の運命に陥っても、堪え難きを堪え忍び難きを忍んでこれを甘受する覚悟を決めなければなりません。

言うまでもなく、大衆は徴兵制の復活にも無抵抗主義の徹底にも大反対するでしょう。今まで通りアメリカ様の鎖に繋がれて、飼い犬の「恒久平和」を貪り続けたいと願うのが大衆の偽らざる本音です。実際、「家庭の幸福」が人生至上のものであるならば、鎖の存在など問題ではありません。むしろ、アメリカの鎖であれ中国の鎖であれ、それによって「家庭の幸福」の安心安全な享受が保障されるなら、大衆は喜んで飼い犬になるでしょう。尤も昨今の厳しい世界情勢はもはや気楽な飼い犬でいることを許さず、それ相応の負担を要求するようになりました。それに飼い犬には飼い犬のつらさがあり、御主人様の横暴な振る舞いにも黙って従わねばならず、場合によっては御主人様の喧嘩に巻き込まれてしまう危険もあります。しかし日本に関して言えば、殆どの国民はアメリカの鎖を全く意識しないで済ましていられます。それどころか、今時の大学生の中にはかつて日本とアメリカが戦争していたという歴史さえ知らない人がいると聞きます。これはもはや笑い話にもならぬ実に醜悪な現実ですが、それもこれも鎖に繋がれた苦しみを全て沖縄に押し付けているからこそ可能になることです。とまれ、たとい御主人様が心優しい善人であったとしても、我々はもはや鎖に繋がれた大衆の幸福に甘んじていることなど許されないと私は考えます。                   

しかし乍ら、我々は本当に鎖を断ち切ることができるでしょうか。私は冒頭で米軍基地の一掃には民衆連帯が要請されると述べましたが、そこにはアメリカの民衆も含まれねばなりません。究極的な問題は、米軍基地を自分の暮している場所からどこか他に追いやることではなく、あくまでも基地それ自体のディコンストラクション(解体、と単純に記すべきかもしれませんが、それ以上の意味を込めて気取ったカタカナにします)にあるからです。これは正に九条を上回る空想的理想論としか見做されないでしょうが、鎖を断ち切るための民衆連帯が国境を超えた運動になることだけは間違いないと思われます。では、民衆連帯の運動と大衆蜂起の運動は一体何が異なるのでしょうか。

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2016-08-31 05:24:21

大衆抹殺論(8)

テーマ:ユートピア

「今度もまた負け戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」――黒澤明の名作「七人の侍」の最後で志村喬演じる勘兵衛が呟く一言です。普段は臆病な百姓たちも自分たちの「家庭の幸福」が脅かされ続ければ決然と立ち上がります。そして形振り構わず、時には勘兵衛たちのような助っ人を雇って戦います。当然、百姓たち自身も大きな犠牲を余儀なくされますが、焦土と化した大地にもやがて雑草が繁茂してくるように、結局は百姓たちが勝ちます。大衆もまた然り。どんなに偉大な英雄が社会変革のために戦っても、最終的な勝利者は常に大衆なのです。英雄は往々にしてその勝利に至る過程で変質しますし、変質しない場合でも「カムイ伝」の正助のように大衆に裏切られることも少なくありません。問題点は二つ、と言うより二方向に分かれます。変質する英雄の問題とそれを支持する大衆の問題です。レーニンやスターリン、あるいは毛沢東のような英雄がどのように変質したかという問題もさることながら、ここでは如何なる英雄の下でもしぶとく生き続ける大衆の問題に焦点を絞りたいと思います。

さて、先述したように、どんなに弱気で温厚な大衆も自分たちの日常生活に危機が迫れば立ち上がります。例えば、自分たちの暮す街に米軍基地ができるとなれば、誰も黙ってはいないでしょう。たちまち大反対運動が捲き起こるのは必定です。しかし言うまでもなく、それはすでに沖縄で現実に起きている運動です。それにも拘らず、私を含めた多くの人はそれを何か他人事のように感じているのではないでしょうか。少なくとも「沖縄に米軍基地が集中している現状には反対だが、それが自分の街に移設されるのは困る」と考えるなら、その人は明らかに大衆に堕しています。これは核廃棄物を含めたごみ処理場や火葬場などの建設についても同様です。「とにかく、不快なものが自分の周囲になければいい」――これは実に正直な思いであると同時に大衆の強みでもありますが、そのエゴイズムこそ大衆蜂起がついに革命にまで至らぬ最大の要因なのです。では、どうするか。

一例として沖縄の問題を本当に自分自身の問題として考えるなら、米軍基地を日本から一掃する決断をしなければなりません。ただし、日本の米軍基地を全てグアムに移設することで問題解決を図ろうとするなら、それは未だ大衆の発想です。日本であろうとなかろうと、自分にとって嫌なものを他者に押し付けることで満足するのは大衆です。更に言えば、自分たちの内部だけで問題が解決されればそれで良しとするのも大衆です。もし沖縄が独立を決断し、どこからも干渉されることのない、基地のない平和な島に戻れたとしても、それは大衆の楽園にすぎません。自分たちだけが日本やアメリカの抑圧から逃れられても、抑圧自体は至る所にあるからです。同様のことは、台湾や香港の独立についても言えます。勿論、現実にはあり得ないことですが、中国共産党の支配から脱して台湾および香港の内部だけの民主化を望む人は少なくないでしょう。しかし、かかる鎖国的民主化がたとい可能だったとしても、それもまた大衆の発想です。むしろ、香港雨傘運動の指導者の一人(Au Loong Yu)が言う路線、すなわち「香港に立脚し、自治を防衛し、同時に中国へも視野を広げ、中国民衆の民主化運動を適切に促すことを通じて、最終的に香港・中国の両人民が連合して民主主義を実現するという路線」にこそ私は活路を見出します。大衆抹殺論とは畢竟、世界中の様々な抑圧状況における民衆連帯に他なりません。

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