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2016-09-01 19:33:57

大衆抹殺論(9)

テーマ:ユートピア

革命とは鎖を断ち切ることですが、それは孤立を意味しません。むしろ民衆連帯を通じてこそ革命は成就するのです。例えば米軍基地の一掃は、沖縄のみならず本土、更には韓国の民衆連帯を要請します。それは当然、アメリカの支配という鎖を断ち切ることを意味しますが、同時にその強大な軍事力による安全保障の放棄でもあります。そもそも日本国憲法第九条によれば、我々は戦争を放棄して武力も保持しないことになっていますが、これが理想論であることは明白です。現実の世界は常に戦争やテロリズムに巻き込まれる危険性に晒されており、今まで曲がりなりにも日本が平和を享受してこられたのは偏にアメリカ様が守って下さった御蔭でしょう。そのアメリカの鎖を断ち切るとなれば、既存の自衛隊を更に本格的な軍隊に発展させ、徴兵制も復活させて「自分たちの国は自分たちで守る」という原則を徹底させることになります。さもなければ無抵抗主義の理想を貫いて、たとい一億総皆殺しという最悪の運命に陥っても、堪え難きを堪え忍び難きを忍んでこれを甘受する覚悟を決めなければなりません。

言うまでもなく、大衆は徴兵制の復活にも無抵抗主義の徹底にも大反対するでしょう。今まで通りアメリカ様の鎖に繋がれて、飼い犬の「恒久平和」を貪り続けたいと願うのが大衆の偽らざる本音です。実際、「家庭の幸福」が人生至上のものであるならば、鎖の存在など問題ではありません。むしろ、アメリカの鎖であれ中国の鎖であれ、それによって「家庭の幸福」の安心安全な享受が保障されるなら、大衆は喜んで飼い犬になるでしょう。尤も昨今の厳しい世界情勢はもはや気楽な飼い犬でいることを許さず、それ相応の負担を要求するようになりました。それに飼い犬には飼い犬のつらさがあり、御主人様の横暴な振る舞いにも黙って従わねばならず、場合によっては御主人様の喧嘩に巻き込まれてしまう危険もあります。しかし日本に関して言えば、殆どの国民はアメリカの鎖を全く意識しないで済ましていられます。それどころか、今時の大学生の中にはかつて日本とアメリカが戦争していたという歴史さえ知らない人がいると聞きます。これはもはや笑い話にもならぬ実に醜悪な現実ですが、それもこれも鎖に繋がれた苦しみを全て沖縄に押し付けているからこそ可能になることです。とまれ、たとい御主人様が心優しい善人であったとしても、我々はもはや鎖に繋がれた大衆の幸福に甘んじていることなど許されないと私は考えます。                   

しかし乍ら、我々は本当に鎖を断ち切ることができるでしょうか。私は冒頭で米軍基地の一掃には民衆連帯が要請されると述べましたが、そこにはアメリカの民衆も含まれねばなりません。究極的な問題は、米軍基地を自分の暮している場所からどこか他に追いやることではなく、あくまでも基地それ自体のディコンストラクション(解体、と単純に記すべきかもしれませんが、それ以上の意味を込めて気取ったカタカナにします)にあるからです。これは正に九条を上回る空想的理想論としか見做されないでしょうが、鎖を断ち切るための民衆連帯が国境を超えた運動になることだけは間違いないと思われます。では、民衆連帯の運動と大衆蜂起の運動は一体何が異なるのでしょうか。

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2016-08-31 05:24:21

大衆抹殺論(8)

テーマ:ユートピア

「今度もまた負け戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」――黒澤明の名作「七人の侍」の最後で志村喬演じる勘兵衛が呟く一言です。普段は臆病な百姓たちも自分たちの「家庭の幸福」が脅かされ続ければ決然と立ち上がります。そして形振り構わず、時には勘兵衛たちのような助っ人を雇って戦います。当然、百姓たち自身も大きな犠牲を余儀なくされますが、焦土と化した大地にもやがて雑草が繁茂してくるように、結局は百姓たちが勝ちます。大衆もまた然り。どんなに偉大な英雄が社会変革のために戦っても、最終的な勝利者は常に大衆なのです。英雄は往々にしてその勝利に至る過程で変質しますし、変質しない場合でも「カムイ伝」の正助のように大衆に裏切られることも少なくありません。問題点は二つ、と言うより二方向に分かれます。変質する英雄の問題とそれを支持する大衆の問題です。レーニンやスターリン、あるいは毛沢東のような英雄がどのように変質したかという問題もさることながら、ここでは如何なる英雄の下でもしぶとく生き続ける大衆の問題に焦点を絞りたいと思います。

さて、先述したように、どんなに弱気で温厚な大衆も自分たちの日常生活に危機が迫れば立ち上がります。例えば、自分たちの暮す街に米軍基地ができるとなれば、誰も黙ってはいないでしょう。たちまち大反対運動が捲き起こるのは必定です。しかし言うまでもなく、それはすでに沖縄で現実に起きている運動です。それにも拘らず、私を含めた多くの人はそれを何か他人事のように感じているのではないでしょうか。少なくとも「沖縄に米軍基地が集中している現状には反対だが、それが自分の街に移設されるのは困る」と考えるなら、その人は明らかに大衆に堕しています。これは核廃棄物を含めたごみ処理場や火葬場などの建設についても同様です。「とにかく、不快なものが自分の周囲になければいい」――これは実に正直な思いであると同時に大衆の強みでもありますが、そのエゴイズムこそ大衆蜂起がついに革命にまで至らぬ最大の要因なのです。では、どうするか。

一例として沖縄の問題を本当に自分自身の問題として考えるなら、米軍基地を日本から一掃する決断をしなければなりません。ただし、日本の米軍基地を全てグアムに移設することで問題解決を図ろうとするなら、それは未だ大衆の発想です。日本であろうとなかろうと、自分にとって嫌なものを他者に押し付けることで満足するのは大衆です。更に言えば、自分たちの内部だけで問題が解決されればそれで良しとするのも大衆です。もし沖縄が独立を決断し、どこからも干渉されることのない、基地のない平和な島に戻れたとしても、それは大衆の楽園にすぎません。自分たちだけが日本やアメリカの抑圧から逃れられても、抑圧自体は至る所にあるからです。同様のことは、台湾や香港の独立についても言えます。勿論、現実にはあり得ないことですが、中国共産党の支配から脱して台湾および香港の内部だけの民主化を望む人は少なくないでしょう。しかし、かかる鎖国的民主化がたとい可能だったとしても、それもまた大衆の発想です。むしろ、香港雨傘運動の指導者の一人(Au Loong Yu)が言う路線、すなわち「香港に立脚し、自治を防衛し、同時に中国へも視野を広げ、中国民衆の民主化運動を適切に促すことを通じて、最終的に香港・中国の両人民が連合して民主主義を実現するという路線」にこそ私は活路を見出します。大衆抹殺論とは畢竟、世界中の様々な抑圧状況における民衆連帯に他なりません。

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2016-08-27 08:52:37

大衆抹殺論(7)

テーマ:ユートピア

「朝日ジャーナル」は疾うの昔に廃刊になりましたが、「アサヒ芸能」はまだまだ健在だという事実――誤解のないように断っておきますが、これが大衆の世界支配を象徴しているというわけではありません。少なくとも大衆抹殺論の対象が「アサヒ芸能」の愛読者でないことだけは明言しておきます。確かに、この二つの雑誌の間には質的な差異があります。一般的には、前者は高尚で後者は低俗だと見做され、それはインテリと大衆の関係に対応します。しかし、私がここで問題にしたいのはそうしたインテリとの対立軸における大衆ではないのです。人間の関心は実に様々です。政治・経済を中心とした社会問題への関心もあれば、ギャンブルや性風俗を中心とした娯楽への関心もあります。或る意味、後者の方が人間のより根源的な関心だと言えるでしょう。だからこそ「朝日ジャーナル」が滅んでも「アサヒ芸能」はしぶとく生き残っているのです。実際、人生の目的が楽しむことにあるならば、社会問題よりも娯楽に現(うつつ)を抜かすことのできる「平和ボケの日本」はすでに一つの理想社会だと言えるかもしれません。とまれ、私は娯楽を生甲斐に生活すること自体を問題にするつもりはないのです。重要なことは、人生には娯楽よりも楽しいことがあること、それは連帯を核とする祝祭共働であり、その展望を欠いた「大衆の幸福」こそが問題なのです。

さて、かなり以前のことになりますが、私はかつて「ディズニーランドよりも楽しい新しき村」について述べたことがあります。「ディズニーランドの楽しさが娯楽の楽しさであるのに対し、新しき村のそれは生活それ自体の楽しさだ」というのが概略ですが、一般的には家族皆でディズニーランドを楽しむような「家庭の幸福」にこそ生活の楽しさがあると考えられます。極端な話、「灰色の平日の労働はバラ色の週末の娯楽のためにある」と言ってもいいでしょう。勿論、娯楽は一人で楽しんでも、恋人と二人で楽しんでも、あるいは複数の友人たちとワイワイガヤガヤ楽しんでもいいですが、やはり愛する家族と共に楽しむ「家庭の幸福」が最高だと思われます。私はこうした「家庭の幸福」それ自体を否定するつもりは全くないものの、それを中心に生活する「大衆の幸福」とは厳密に区別したいのです。何故か。「家庭の幸福」が全てだという大衆の心性では、それを保障してくれる権力者(大審問官)の不可視の抑圧に抗することができないからです。それは見えない鎖であり、「大衆の幸福」はむしろそれに繋がれることによって成り立っていると言えます。尤も、自分たちの「家庭の幸福」が脅かされる状況に立ち至れば大衆も蜂起します。古くは六四天安門事件、最近では台湾のひまわり運動や香港の雨傘運動、日本でも反安保デモなどが思い浮かびますが、これらの大衆蜂起がラディカルに徹底されなかったのはどうしてでしょうか。それは先述したような大衆の心性に原因があると私は考えています。権力者への反抗を徹底するためには大衆を抹殺しなければなりません。それとも民主化とはより良い鎖を求めることなのでしょうか。

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2016-08-17 19:23:12

大衆抹殺論(6)

テーマ:ユートピア

「とらや」のおいちゃんとおばちゃん、さくらと博の家族、御前様やタコ社長の一家など、寅さんの周囲は善良な人々で溢れています。今つらつら思い返してみても、寅さんが悪い人に接したという記憶がありません。一度「とらや」に泥棒が入ったことがあるものの、財津一郎演じるその泥棒も実に善良な男でした。その意味では、寅さんの世界は一種のパラダイスだと言うことができます。先述したように、それはスクリーンの中だけのパラダイスではありますが、サザエさん一家の幸福と同様、人々はその人情溢れる世界に束の間の安らぎを覚えます。かく言う私も精神的に疲れている時などに、寅さんと一緒に柴又に帰れば本当に生き返る思いがします。実際、「とらや」の茶の間は心に傷を負った人間が癒される「魂のふるさと」のような場所であり、だからこそ寅さんは苦しんでいる人(大抵は美しい女性)に旅先で出会うと決まって東京は葛飾柴又の「とらや」を訪ねることを勧めるのです。そこは落語の世界にも通じる、庶民の喜怒哀楽が渦巻く別天地です。しかし、野暮を承知で言えば、それは民衆のアヘンに他なりません。もし別天地に現実逃避することなく、逆に別天地を現実の大地に根付かせようとするならば、たちまち様々な問題が噴出してくることは必定です。おいちゃんもおばちゃんもやがて認知症になるでしょうし、そうなればさくらや博も介護に追われることになります。中小企業を経営するタコ社長の苦しみはすでにスクリーンの中でも始まっていますが、それはますます悪化してアベノミクスで息の根を止められるかもしれません。笑いの絶えない「とらや」の茶の間も永遠に持続するものではないのです。

しかし、そんなことは百も承知の上で、人々は「とらや」の茶の間に象徴されるような「家庭の幸福」を求め続けます。そのこと自体は民衆の基本とも言うべき心性だと思われますが、それを至上のものとしてそこに閉じこもろうとする時、民衆は大衆に堕落します。確かに「家庭の幸福」を中心にしたパラダイスはあり、その力は絶大なものですが、我々はそこに安住してはならないと思うのです。おそらく、こんな主張をすれば、「一体お前は何様のつもりだ! 平凡な市井の庶民がささやかな家庭の幸福に安住して何が悪い。そもそも家庭の幸福以上の幸福が人間にあるのか!」という非難が返ってくるでしょう。この点、率直に言って、私は始終揺れ動いています。私は何も「現状に甘んじることなく、より高次の幸福を目指し続けるべきだ」と競争を煽るつもりなど全くありません。幸福は相対的なものであり、今酣(たけなわ)のオリンピックに見られるような競争によってもたらされる幸福が平凡な家庭の幸福に優っているわけではないのです。むしろ、競争に勝って頂点の歓喜に酔う幸福者も最終的にはそれぞれの家庭の幸福に落ち着いていくものと思われます。その意味において、「家庭の幸福以上の幸福が人間にあるのか!」という非難に対しては一言もありません。しかし、人が「家庭の幸福」にしがみつこうとする時、何かがおかしくなってくると思うのです。私は平凡に暮す「とらや」のおいちゃんやおばちゃんを批判するつもりはありませんが、その安住から「家庭の幸福」を圧倒的な権力で保障してくれる独裁者を支持する大衆が生まれてくることを危惧するのです。大衆なくして独裁者なく、独裁者なくして大衆なし。「家庭の幸福」のパラダイスを超えて更なる理想社会を求めることは、果たして民衆には酷なことなのでしょうか。

何れにせよ、「家庭の幸福」に憧れながら「家庭の幸福」に安住できない寅さんのつらさは今の私の動揺に通底しています。寅さんにマイホーム・パパは似合わない。さりとて一生旅を続けるわけにはいかないでしょう。漂白もまた一つの生き方には違いありませんが、私の問題意識からすれば「大衆からの逃走」に他なりません。重要なことは、この世界を支配し続ける大衆の論理(それは大審問官の論理と表裏一体のものだ)と闘争し、民衆の手に真の理想を取り返すことなのです。

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2016-08-15 23:27:24

大衆抹殺論(5)

テーマ:ユートピア

「アンタ、さしづめインテリだな」――フーテンの寅さんが小難しい理窟をこねる輩に向かってよく口にする科白です。寅さんにはインテリに対する敵愾心のようなものが多々見受けられますが、その一方で帝釈天の御前様に代表されるような本当の知識人に対する無条件の尊敬の念もあります。おそらく寅さんは本能的にホンモノとニセモノを見分けることができるのでしょう。たとい葛飾商業中退の学歴しかなくても、学歴では量れない頭の良さが寅さんにはあります。とは言え、寅さんがインテリでも知識人でもないことは明白であり、むしろ教養のない「どうしようもない馬鹿」に他なりません。近所のおばさん連中は遊んでばかりいる自分の子供に向かって「しっかり勉強しないと、寅さんのようになっちゃうよ!」と叱りつけますが、叱られた子供も内心「その通りだ」と納得しているほどです。誰しも寅さんのようにだけはなりたくないと思っている。しかし、それなのに何故かくも多くの人々に寅さんは愛されているのでしょうか。勿論、愛すべき寅さんはスクリーンの中だけの存在であって、実際に寅さんのような人物が自分の家族にいたら到底耐えられないでしょう。それは全くその通りなのですが、フーテンの寅という人間に対する憧憬は厳然たる事実です。ただ、永年寅さんを演じ続けた渥美清は晩年、「スーパーマンは空を飛べないんだよね」としみじみ語っていたという有名なエピソードがあります。言うまでもなく、皆が憧れる空飛ぶスーパーマンはスクリーンの中だけのことであり、現実のスーパーマン(を演じている俳優)は天井から針金で吊るされているにすぎません。「寅もスーパーマンと同じだ」と渥美清は言いたかったのでしょう。しかし、非現実的なスーパーマンの魅力にリアリティがあるように、周囲に迷惑ばかりかけている愚かな寅さんの魅力にも否定し難いリアリティがあります。それは一体何か。大衆に迎合しない、いや大衆になろうとしてもなりきれない渡世人のつらさだと私は考えています。

さて、寅さんの人生目標は愛する妹・さくらに自慢されるような「偉いアニキ」になることであり、そのために奮闘努力し続けているわけですが、それはいつもトンチンカンで逆にさくらを深く悲しませる結果になります。さくらは涙ながらに言います――「お兄ちゃんは偉くなんかならなくてもいいのよ。人間は地道に暮らすのが一番なのよ。」その言葉に寅さんも深く反省して地道に暮らす決心をするのですが、結局は挫折することになります。実際、寅さん自身も故郷の柴又で、年老いたおいちゃんとおばちゃんの面倒を見ながら「とらや」でずっと暮らしたいと思っている筈なのに、どうしてそれができないのでしょうか。特に正月を間近に控えた寒風吹き荒ぶ季節に、「今年こそ皆と一緒に暖かい炬燵に足を突っ込んで新しい年を迎えたい」と思いながら、寅さんはいつも背広の襟を立てて寒空の下に出て行きます。そこが渡世人のつらいところだと言ってしまえば身も蓋もありませんが、寅さんの魅力は「家庭の幸福」に安住しない、いや安住したくてもできない「男のつらさ」にあるような気がしています。しかし乍ら、そうした寅さんの生き方を反大衆と言い切ることはできません。寅さんは別に「家庭の幸福は諸悪の本」などと賢しらに考えているわけではなく、「家庭の幸福」に対する反感も皆無だからです。むしろ、寅さんほど「家庭の幸福」に飢えている人間はいないと言ってもいいでしょう。それなのに寅さんは「家庭の幸福」に安住することができない。時に恋が成就しそうになって「家庭の幸福」にあと少しで手が届くという幸運に恵まれることが(極めて稀ながら)あるものの、そんな千載一遇のチャンスに直面すると寅さんの方から逃げ出してしまいます。全く馬鹿な話です。単に臆病なだけかもしれませんが、「家庭の幸福」に憧れながら、どうして寅さんは「家庭の幸福」を受け容れられないのでしょうか。そこら辺りにも「大衆抹殺論」のヒントの一つがあるのかもしれません。

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2016-08-12 23:24:01

大衆抹殺論(4)

テーマ:ユートピア

抹殺されるべき大衆は或る特定の実体ではありません。同じ人間が様々な状況において大衆に堕したり、単独者に踏み止まったりするのです。例えば、誰かが大勢にいじめられている時、それを注意して自分も仲間外れにされることを恐れて見て見ぬ振りをするならば、その人は大衆と化します。あるいは、自分の家庭の幸福を守るために、自分が勤務している会社の不正に目を閉ざすような場合もそうです。大衆とは言わば関係態であり、誰しも状況によっては常にそこに転落する危険性にさらされています。かく言う私も例外ではなく、折節大衆に堕しています。その方が楽だからです。触らぬ神に祟りなし。自分および自分の家族や友人・知人に災いが及びさえしなければそれでいい――それが大衆の本音です。勿論、大衆も日本や世界の政治経済の動きに無関心ではいられないでしょう。しかし、それはあくまでも自分たちの個人の幸福(その最たるものは家庭の幸福)を維持するための関心に他なりません。つまり、自分たちが長く幸福に暮せるためには日本の政治経済が安定していなければならず、日本が安定するためには世界もまた安定していなければならない、ということです。たといその安定が理想に反するもの(誰かを犠牲にすることによって成立する安定)であったとしても、大衆は意に介しません。自分が、自分の家族が、自分の国が繁栄していればそれでいいのです。もはや鎖国が許される時代ではありませんが、もし可能なら大衆は鎖国の幸福を支持すると思われます。EU離脱を決めた英国民の選択や先の東京都知事選挙で排他的な傾向を有する候補者が十一万票も獲得した現実は、大衆が何を望んでいるかを如実に示しているのではないでしょうか。


さて、私は前回カントによって示された「世界国家」と「平和連合」という永遠平和のための二つの提案を問題にしました。その際、「世界国家」はインテリの理想であり、「平和連合」は大衆の理想だとする二分法の理解を示しましたが、やや短絡的であったと反省しています。そもそも大衆とインテリは対立概念ではありません。大衆に堕したインテリなど、掃いて棄てるほどいるからです。例えば、この腐敗した世の中に愛想を尽かせたインテリが山奥にこもって自分の理想生活を目指すような場合、それが孤高の営みであっても仲間とのコミューン運動であっても、世界的な広がりを持たぬ閉鎖的な試みである限り、そのインテリたちは大衆です。同様に、自分の部屋に引きこもって自分だけの個人的な快楽に耽るオタクたちも大衆です。大衆は基本的に自分たちの幸福だけを求めるものであり、それをもたらしてくれるなら「世界国家」でも「平和連合」でもどちらでもいいでしょう。ただし、「世界国家」にせよ「平和連合」にせよ、大衆によって支持される理想はその本質が致命的に歪められます。先ず、「世界国家」の場合、先述したように統一の魔力によって大衆個々人の自由が抑圧されることは忌避されるものの、強大な独裁者が天下統一を成し遂げ、その比類なき権力の傘の下で個人の幸福を享受できるならば、大衆はそうした太平の世を心から歓迎するに違いありません。次に「平和連合」の場合、自分たちの属する共同体が他の共同体から如何なる干渉も受けないという権利が絶対的に保障されるならば、それもまた大衆に大歓迎されるでしょう。諄いようですが、どちらも歪んだ理想に他ならず、大衆にとっては真の「世界国家」も真の「平和連合」も関係ありません。ただ自分たちの幸福が安泰であることだけが重要なのです。


何れにせよ、大衆の生命力は実に根強く、容易に抹殺できるものではありません。それは自然の力に等しく、その前では理想を求める力など人工的で脆弱な気取りでしかないように見えます。しかし、それにも拘わらず、私は敢えて理想を追求したい。自らの内にも巣食う大衆を抹殺して、真の理想社会を実現したいのです。果たして、これは本末転倒なのか。やはり大衆の求めるものこそ真の理想なのか。確かに現実は大衆が勝利し続けており、私の思耕は信頼を失うばかりです。しかし、私は諦めたくない。未だ誤解は必至でしょうが、「大衆の抹殺なくしてユートピアの実現はあり得ない」と心の底から信じているからです。

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2016-08-10 23:55:41

大衆抹殺論(3)

テーマ:ユートピア

100de名著」というテレビ番組がありますが、今はカントの『永遠平和のために』を読み解いています。今週はその第二回目で「世界国家」か「平和連合」かというテーマでした。カントによれば、この世から戦争をなくすための積極的な提案が「世界統一国家」、消極的な提案が「諸国家による平和のための連合」であり、カント自身は後者にこそ恒久平和を実現する可能性があると考えていたそうです。おそらく、こうしたカントの判断は現代の大衆には受容しやすいでしょう。と言うのも、大衆は「世界統一国家」などという見果てぬ夢に憑かれたインテリどもの試みに繰り返し酷い目に遭わされてきたからです。これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、聖なる理想としての「世界国家」と俗なる理想としての「平和連合」という対立軸は暫く停滞している大衆抹殺論の突破口になるような気がしています。


実際、カントが深く洞察しているように、「世界統一国家」という理想は極めて危険です。確かに論理的に言えば、戦争は様々な面で異なる国々の間で生じるものであり、それらを一つの国家に統一できれば戦争発生の前提そのものがなくなります。しかし問題は、結果的に個々の国の多様性を抑圧することになる統一の魔力です。番組では言語の統一を話題にしていましたが、例えば英語が世界統一語になれば、それ以外の民族語は全て禁じられます。かつて沖縄には方言札というものがあって、沖縄の言葉を口にした子供は罰としてそれが首に掛けられたと言います。同様のことは多かれ少なかれ他の方言についてもあったと思われますが、世界統一語の普及を徹底させるためには、それが世界規模で行われることになるでしょう。こうした抑圧性は、英語という一民族語ではなく、エスペラントのような人工語が世界統一語になる場合でも基本的には変わりません。尤も、「世界統一語としてのエスペラント」という理念は致命的な誤解であり、エスペラントの本質と真向から対立します。エスペラントは世界共通語を目指すものの、それは様々な民族語を廃止して唯一の言語(世界統一語)に成り上がろうとするものでは全くなく、むしろ少数民族の言葉さえ尊重する「橋渡し言語」(pontolingvo)にすぎないからです。つまり、エスペラントもまた世界の言語問題に対する消極的な提案なのであり、その意味において「平和連合」の理想と通底しているのです。


何れにせよ、言語を含むあらゆる面で統一される「世界国家」の理想(一つの言葉、一つの宗教、一つの通貨、一つの文化)は一般大衆には余りにも高価すぎて現実的ではありません。人々はやはり、自分たちの言葉(母語)を話し、自分たちの神に祈りを捧げ、自分たちのお金をつかい、自分たちの歴史と伝統に即して暮したいと思うでしょう。世界は断じて統一されるべきではなく、多様な人間が多様なまま共存できる「平和連合」であるべきです。それこそが大衆の望む理想世界に他なりません。しかし乍ら、我々はこうした消極的な理想に安住できるでしょうか。多様なものを統一する理想が抑圧的になるのは明白ですが、さりとて多様なものが多様なまま如何にして平和的に連合できるのでしょうか。実篤には「君は君、我は我也。されど仲良き」という名言がありますが、互いに意見の異なる君と我が互いの違いを認め合って仲良くすることは可能です。しかし、そうした二人が連合するためには二人の異なる意見を止揚する何かが必要になるでしょう。それがなければ君と我の仲良き共存は単なる互いの妥協の産物にすぎず、到底多様なものの「平和連合」などとは言えないと思われます。カントが構想した「平和連合」は多様なものが争うことなく共存できるシステムだとのことですが、もしその本質が道徳による個々のエゴイズムの主体的抑制(自律)であるとすれば、それもまた大衆には高価すぎる理想だと言わざるを得ません。大衆はむしろ自分たちのエゴイズムが十全に満たされることだけを求め、「世界全体の幸福」などという問題には余り関心がないでしょう。更に言えば、大衆は自分たちのエゴイズムによって世界が統一されることさえ望んでいるのかもしれません。つまり、「世界国家」にせよ「平和連合」にせよ、その理想は大衆によって容易に歪められてしまうのです。大衆が抹殺されなければならぬ理由の一つがここにあります。

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2016-07-15 22:19:33

大衆抹殺論(2)

テーマ:ユートピア

大衆抹殺論は基督抹殺論と対を成すものです。と言うのも、基督は大衆の願望の投影に他ならないからです。周知のように、幸徳秋水は当時の実証主義的な聖書学などを援用して基督の史的実在性を否定せんとしましたが、大衆自身がそのような基督の実在を望んでいる限り「基督抹殺」など到底不可能でしょう。これは「基督抹殺」を「天皇抹殺」と読み替えた方が(おそらくそれが幸徳の真意だった)、我々日本人にとってはより切実な問題として胸に響くと思われます。実際、今天皇制の是非を問う国民投票を実施すれば、圧倒的多数を以て天皇制の存続が支持されるのではないでしょうか。たといどんなにエライ学者先生たちが万世一系のデタラメさを科学的に立証したとしても、そんなものは大衆の願望の前では全く意味を成しません。では、大衆の願望とは何か。言うまでもなく、それは家庭の幸福です。大衆は自分たちの家庭の幸福を永久に保障してくれる実力者を待望しているのです。その実力者は強大であればあるほど望ましい。今回の参院選でも、そうした大衆の願望が勝敗を決したと言えます。つまり、勝ったのは自公勢力ではなく、あくまでも大衆なのです。そこには一片の理想もありません。これはEU離脱を選択した英国についても同様であり、EUの理想が自分たちの家庭の幸福を脅かしていると判断した大衆が勝利したのです。おそらくインテリどもは、かくも愚かな大衆の選択を嘆き、非難し、罵倒するでしょうが、そんなことを百年繰り返しても絶対に大衆には勝てないでしょう。軽蔑されるべきは大衆ではなく、むしろ敗北し続けるインテリの方なのです。我々は理想実現の戦略をラディカルに改めねばなりません。

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2016-07-14 19:57:41

大衆抹殺論:どうして私は信頼を失ったのか

テーマ:ユートピア

先日の夜のことです。仕事を終えて、とぼとぼとボロアパートへの家路を辿っていると、私の数メートル先を同じように歩いていたサラリーマン風の男が一軒の小さな家に入っていきました。ドアを開けて「ただいまぁ」と草臥れた声で言う。すると間髪を容れずに「おかえりッ!」と元気のいい幼い子どもの声が返ってきます。私がその家の前を通り過ぎる頃にはすでにドアは閉められていましたが、何やらドタバタと子どもの走り回る気配がしていました。そして、弾けるような笑い声。これから一家団欒の夕食でも始まるのでしょうか。お父さんの足元に子犬のようにまとわりつく子どもの姿を思い浮かべながら、私は改めて家庭の幸福に圧倒されていました。おそらく、このお父さんは束の間、その日の嫌なことを全て忘れることができたでしょう。「この子のためなら、どんな嫌なことにでも耐えることができる。嫌な上司や顧客に頭を下げることなんか何でもない。家庭の幸福のためなら、いくらでも土下座してやる!」かくしてお父さんはエンヤコラ毎日歯を食いしばって頑張り、その姿を見て育った良い子もまたやがて親になりエンヤコラ毎日家庭の幸福のために生き始めるわけですが、このような親子に対して果たして「家庭の幸福は諸悪の本」などと言えるでしょうか。


周知のように、ゴーギャンは「親が子のために生き、その子が親になってまた子のために生きるという馬鹿げたことを永遠に繰り返していたら、一体誰が芸術を創造するのか」と述べていますが、芸術よりも日々の暮らしを大切に思う人の方が大半でしょう。と言うより、たとい名もなく貧しい市井の営みでも、愛する家族と共に築く日常生活の幸福こそ大衆にとっては掛替えのない芸術なのです。そもそもゴーギャンは親が子のために生きることを犠牲と認識しているようですが、「ヨイトマケの唄」の母ちゃんや父ちゃんに犠牲の意識など皆無でしょう。むしろ、子のために生きられることこそ至上の喜びであり、それが親自身の人生の生甲斐にもなると思われます。しかし、それで本当に良いのでしょうか。良いも悪いも、親が子のために生きるのは自然の理であり、あらゆるイキモノはその繰り返しに終始しているとさえ言えます。実際、「子どもより親が大事と思いたい」などと嘯くのは人間だけであり、親のエゴイズムは極めて不自然なことです。しかし、それにも拘らず、「芸のためなら女房も泣かす」ような生き方、更に言えば自分が本当にやりたいことのために妻子を棄ててしまうような人間の生き方にも何か否定し難い真理があるのではないでしょうか。確かに、それは自分勝手で、自然にも道義にも反する堕落した生き方には違いありません。しかし、自分自身の主体的な欲望に徹する堕落にこそ人間の真理があるとも言えるのです。自分のことなど一切後回しにして家族に尽くすマイホーム・パパとあくまでも自らの欲望に徹する火宅の人――すでに勝負は決しており、今の世界は前者の「家庭の幸福」を支持する大衆を中心に動いていますが、私は敢えてもう一度勝負を挑みたいと思っています。果たして大衆の夢を逆撫でする人間の理想は再び土俵に上がることができるのでしょうか。このような問いを立てれば、おそらく「俗なる大衆を聖なるインテリが啓蒙する」という構図が想定されるでしょうが、それは全く私の本意ではありません。と言うのも、大衆抹殺論は他ならぬ大衆自身の問題であるからです。

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2016-06-24 22:30:35

敗北の六月(10)

テーマ:ユートピア

周知のように、アメリカの公民権運動は一人の黒人女性がバスの白人優先席に座ったことから始まりました。当時のアメリカには人種分離法(ジム・クロウ法)なる悪法があり、彼女はそれを十分承知した上で敢えてその法律違反に及んだのです。実に勇敢な女性だと思います。しかし、人種分離法は本当に悪法だったのでしょうか。厳密に言えば、人種分離と人種差別は異なります。勿論、人種分離の名目で黒人(を筆頭とする全ての有色人種)が差別されていたことは厳然たる事実であり、実質的には「人種分離=人種差別」だったでしょう。しかし、人種分離を差別なく行うことは原理的に可能であり、むしろその方が無駄な争いを回避できるのではないでしょうか。すなわち、一台のバスに白人優先席のみがあって黒人優先席がないから差別になるのであり、初めから白人専用のバスと黒人専用のバスを分離して運行すれば軋轢が生じる余地などなくなるのです。そもそも白人と黒人は身体的にも文化的にも異なり、その間に壁が存在することは極めて自然なことです。その上で、壁にドアを設置すれば、互いの長所を適宜学び合う交流もでき、黒人は白人と対等に発展していけるでしょう。かくして壁は快適な市民生活に不可欠なものであり、人種分離法も一概に悪法だとは言えないという論理が成立するのです。


しかし乍ら、マーティン・ルーサー・キングはこうした人種分離の論理に真向から戦いを挑み、一つの夢を語りました。言うまでもなく、それは「かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが兄弟愛で結ばれたテーブル(the table of brotherhood)に共に座すことができるようになる夢」です。キングは端的に「我々は兄弟(姉妹)として共に生きることを学ばねばならない、さもなければ愚者として共に滅びるに違いない」とも語っていますが、これは正に新しき村の精神に基く理想でもあります。しかし、我々は本当に全ての人間を兄弟姉妹として共に生きられるでしょうか。少なくとも、この文脈における共生の理想が自然に反するものであることは明らかです。その証拠に、人種分離法が廃止になっても、白人街、黒人街、日本人街というように、それぞれの人種・民族は自然に棲み分けて生活するのです。ロシアや中国といった大国が抱える民族問題も煎じ詰めれば民族自決という人間の自然性(自然の情)を抑圧していることに起因しています。従って、あくまでも自然に即して考えるならば、我々はそれぞれの人種や民族に分かれて自分たちだけの共同体を形成すべきであって、それ以上の理想を求める必要はないのです。しかし、それにも拘らず、やはり理想は囁きます。セカイガゼンタイコウフクニナラナイウチハ、コジンノコウフクハアリエナイ。この囁きに耳を傾けたキングが個人の人種や民族を超えた兄弟愛brotherhood(ザメンホフの文脈では人類人主義homaranismo)による共生の夢を語ったことは先述しましたが、そのキングも結局は暗殺されてしまいました。理想を貫いて生きるためには、それ相当の覚悟をしなければなりません。


さて、本日のトップニュースは英国のEU離脱が国民投票の末に決定したことです。かなり僅差の勝負だったようで、この結果だけで英国の理想を問うことなどできませんが、英国民の過半数が理想よりも現実を選んだことは間違いない事実でしょう。我々のこれまでの文脈に即して言えば、英国民はEUの理想によってヨーロッパ中から押し寄せてくる移民たちとの共生よりも英国民だけの幸福を選んだ、ということです。ネット上のニュースによれば、「残留派=高い教育を受けた人、グローバル化の恩恵を受ける人、国際的な経験が豊富な人、一定の高収入がある人、若者層」・「離脱派=労働者階級の一部、それほど教育程度の高くない人、グローバル化の恩恵を受けない人、一部の高齢者」という階級差があるとのことですが、「理想を求める余裕のある人間」が「現実の生活に追われて理想なんか求めている余裕のない人間」に敗れたという構図が浮き上がってきます。正に敗北の六月に相応しい結果だと言えるでしょう。この極めて現実的な結果からどのように生き始めるかは決して英国民だけの問題ではない筈です。

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