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2009-11-14 23:52:55

理想の衣裳(6)

テーマ:ユートピア

「自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕がついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あおさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん――行こうごたる、海に」

これは石牟礼道子の「五月」の最後ですが、この作品を最近読み返して、改めて「理想の衣裳」について考えました。この場合、衣裳を端的に身体と見做すならば、生まれつき障害を背負わされている人は言うまでもなく、水俣病などの人為的な公害の被害者にも「理想的な衣裳」は鎖されています。これは差別と受け取られるかもしれませんが、障害のある身体が「理想的な衣裳」でないことは厳然たる事実です。しかし、「理想的な衣裳」というものは相対的なものであり、必ずしも健常者の身体が「理想的な衣裳」とは言えないでしょう。

確かに冒頭に記したような水俣病患者にとって、自由にあおさをとりに行ける健常者の身体は「理想的な衣裳」だと言えます。健常者がその身体について「背が低い」とか「太っている」などと不平を言うのは罰あたりです。しかし健常者は常に不満を洩らします。実際、五体満足な健常者と雖も、その身体がそれぞれの夢の実現を可能とする「理想的な衣裳」であることは極めて稀なことだからです。私は先の便りでバスケットボールの田臥選手について述べましたが、彼は一般人としては決して背は低くない、むしろ平均以上の立派な体格の持ち主です。しかし、NBAの選手としてはやはり背が低いと言わざるを得ない、つまりその身体はNBA選手としての「理想的な衣裳」とは到底言えません。普通なら、自分の身体的前提(頭脳も含む)を「理想的な衣裳」となし得る新たな夢を見出すでしょう。戴いた感想にもありますが、体力的に一流スポーツ選手になるという夢が駄目なら必死に勉強して一流の学者になるという夢を目指す、という具合に。このように自分の与えられた現状に即して夢を転換させていくというのが普通です。おそらく、その転換は結果的に「夢の縮小」になる場合が多いでしょう。例えば、幼い頃はプロ野球選手になるという夢に燃えていたが、それが不可能だという現実に直面した今、平凡な「家庭の幸福」という夢に満足して生きている、ということです。もはや誤解はないと思いますが、私はそうした夢の転換、もしくは夢の縮小を批判するつもりはありません。縮小しながらも、一生夢の実現を目指して生きていけるなら、それはそれで素晴らしいことだと心から思っています。

しかし乍ら、もし夢を断念せざるを得ないとしたら――言い換えれば、夢の転換がどうしても不可能ならば、その時にこそ「理想の次元」が開けてくると思うのです。こうした夢と理想の区別、あるいは「理想的な衣裳」と「理想の衣裳」の区別には無理があり、その意図するものが余り明確ではないかもしれません。先に挙げた田臥選手の例も適切ではなく、単に「身体的な悪条件にも拘らずNBAの夢を追い続けている」と理解すれば事足りることでしょう。しかし、コジツケにしか聞こえないでしょうが、夢の実現の前提となる「理想的な衣裳」に恵まれていない(どんなに努力を重ねても得られない)人間が、それにも拘らずその夢の追求に固執する時、その夢は理想へと転化し、それを実現する前提は「理想の衣裳」になる、と私は考えています。この点に関しては更なる思耕と言葉が必要ですが、例えば冒頭に述べたような障害者の場合、「理想的な衣裳」は失われているが「理想の衣裳」は決して失われていない、更に言えば夢は断念せざるを得ないかもしれないが理想の実現は断じて諦めてはならぬ、と私は主張したいのです。ただし、それは「夢の追求は俗なる二次的なもので、理想の追求こそ聖なる本質的なものだ」と言いたいのではありません。単に「理想の次元」を何とかして明確にしたいだけのことです。


2009-11-08 23:49:07

理想の衣裳(5)

テーマ:ユートピア

全ての人間に白いカンヴァスが与えられ、そこに自分の理想を描く――これまでの私の理想追求の根源には、そうしたイメージがありました。しかし現実には、白いカンヴァスから始められる人など皆無でしょう。のっぺらぼうで生まれて、そこに自分の望むカッコイイ顔を描く――なんてことはできないのです。DNAは勿論のこと、私の人生は私が主体的に書き始める以前にその基本的な部分はすでに書かれており、否応なくそれを前提にするしかありません。言うまでもなく、その前提は人それぞれであり、有利な前提に恵まれる人もいれば、不利な前提に一生苦しめられる人もいます。ここには確かに自らの運命だと割り切るしかない面があります。

例えば頭脳を含めた身体的前提――頭が良いとか悪いとか、背が高いとか低いとか、イケ面であるとかないとか――は殆ど先天的なものであり、個人の努力ではどう仕様もありません。尤もSFのように個々の身体的前提を後天的に改善する技術の確立(頭の良くなるクスリや完璧な整形手術など)を期待することはできます。しかし、そのようなSF的未来に我々の本当の理想があるでしょうか。そもそも頭が良くて、背が高くて、イケ面であれば幸福なのか。それで人生の至福を味わえる人もいるでしょうが、私は違うと思う。それは決してルサンチマンで言うのではなく、そうした水平的幸福は人間の理想にとって二次的な問題だと理解しているからです。言い換えれば、身体的条件に代表されるような先天的前提は、人間の理想とは殆ど関係がない、ということです。

ただし、この点に関して注意しておきたいことは夢と理想の区別です。言うまでもなく、一流のスポーツ選手や映画スタアになりたいという夢はそれ相応の身体的条件に恵まれなければ叶わないでしょう。しかし、理想は違います。バスケットボールの田臥選手のように身体的に恵まれていなくても彼一流のNBAという理想を求めることができます。また、美男美女でなければ映画スタアになれないというわけではなく、確かに夢としては容姿端麗がその絶対的条件になるものの、人はそれぞれの理想とする映画スタアを目指すことができるでしょう。こうした例はあまり適切ではないので単なる屁理屈にしか聞こえないかもしれませんが、私にとって夢は客観的なヴィジョンであり、理想は主体的なヴィジョンなのです。ここに見出されるのは、「理想的な衣裳」と「理想の衣裳」の区別でもあります。

私は先に「のっぺらぼうで生まれて、そこに自分の望むカッコイイ顔を描く」という妄想について述べましたが、もしこれが可能だとして、一体どのような顔を描けばいいのでしょうか。おそらく、人は「カッコイイ顔」のカタログブック(そんなものがあるとして)などから自分の好みの顔を描くことになるでしょう。それが「理想的な衣裳」です。これに対して「理想の衣裳」の場合、そもそも「のっぺらぼうで生まれて、そこに自分の望むカッコイイ顔を描く」ということ自体が成り立ちません。「理想の衣裳」は「カッコイイ顔」のカタログブックなどという客観的な次元を超えているからです。しかし、この点が微妙ですが、それは自分の顔の現状を主観的に「カッコイイ顔」として正当化(自分の顔はナンバー・ワンではないが、オンリー・ワンだという具合に)することではありません。それでは「理想的な衣裳」と大差ないものでしかないでしょう。「理想の衣裳」が主体的なヴィジョンであるという意味は、先ず第一に「白いカンヴァスのラディカルな否定」、次いで「先天的な前提を超える次元への突破」に他なりません。

2009-10-26 21:49:32

間奏曲:生きているだけで丸儲け

テーマ:ユートピア

先日、何気なくテレビを観ていたら、明石家さんまというお笑い芸人が「生きているだけで丸儲け」と語っている場面に遭遇しました。この言葉はさんまの芸風(芸人として演出された生き方)にピッタリと合い、いかにも彼が口にしそうなモットーだと感心しました。実際、「生きているだけで丸儲け」という人生観は一つの理想になり得ると思われます。少なくとも、様々な困難の中で汲々として生きている人たちにとって、「生きているだけで丸儲け」という言葉はフッと肩の力を抜かせてくれる一服の清涼剤にはなるでしょう。しかし、これは単にそれだけのものではないでしょうか。

失恋、失業、無数の失望――人間、生きていれば絶望に転落する危険は不可避であり、不図「死にたい…」と思うこともあるでしょう。その時、もし「生きているだけで丸儲け」という言葉が救いになるとすれば、それは人生の意味を「野の花・空の鳥」の原点にまで遡ってリフレッシュさせることに等しいと言えます。そもそも何らかの望みを抱くから失望、更には絶望に至るのであって、無所有の原点に戻れば正に「生きているだけで丸儲け」という心境に至るのは当然です。ただ、この心境は無為自然に徹するアルカディアの理想に通じるものがあるものの、問題は様々な矛盾が渦巻く現実の真只中で「生きているだけで丸儲け」と思い切れるかどうかです。さんまのように刹那的な快楽を追って生きられれば、それはそれで幸福でしょうが、誰もが彼のように生きられるわけではありません。また、たといその生き方が可能だとしても、果たして格差などの不条理に満ちた現実を超越して「生きているだけで丸儲け」という境地に安住していいものかどうか……私個人としてはやはり、それは真の救いにはならないと思っています。では、どうするか。

欲望の楽園であるパラダイスを峻拒して、無欲のアルカディアの再興を目指すのが一つの道であることは言うまでもありませんが、私はもう一つの道を摸索しています。それは欲望の滅却ではなく、あくまでも欲望の祝祭的開花を求めるユートピアの道です。とは言え、ユートピアがパラダイスの魔力に絡めとられないという保証はありません。むしろ、ミイラ取りがミイラになる危険性に常に晒されることになるでしょう。「裸の理想」から「理想の衣裳」へと一歩踏み出せば、それは避けられない運命だと思います。この運命を如何にして克服するか――性懲りもなく、そんなことばかり思耕している今日この頃です。

2009-10-10 23:22:16

おわりに―アルカディア・パラダイス・ユートピア

テーマ:ユートピア

実篤は「この世の中に食うために働く人が一人でも居れば、それはこの世がまだ完全でないことを示していると思う。額に汗して汝の糧を作るべしという時代はとうに過ぎ去っている」と明言している。しかし、その実篤が始めた新しき村の歴史を振り返ってみると、根源的問題は創立当初から「農業現実派」と「芸術理想派」の対立にあった。勿論、厳密に言えば、前者といえども理想を棄てたわけではなく、また後者も現実を無視したわけではない。要は、現実と理想の関係に対するスタンスの違いであり、前者が「理想実現のためには、先ず経済的な現実を克服しなければならぬ」と考えるのに対して、後者は「現実に引きずられて理想追求の純粋性が侵されてはならぬ」と主張するのだ。しかし、何れも「理想実現」を目的とすることに変わりはないものの、それぞれのスタンスの違いによって求める理想そのものが変質してしまうことは否めない。そうした二つの理想のあり方を、私はアルカディアとユートピアの関係として理解している。

言うまでもなく、こうした対立は新しき村に限ったものではなく、他のコミューン運動にも多かれ少なかれ見出されるだろう。その意味において、「現実派」(生活派)と「理想派」(余裕派)の対立は「理想社会」を追求する際における不可避の問題だと言える。では、我々はこの難問にどう立ち向かえばいいのか。

アルカディアかユートピアか――もはやこの問いについて思耕している紙幅の余裕はないが、一点だけ指摘しておきたい。それはパラダイスの問題だ。パラダイスとは何か。それは「お金」の力によって実現される理想に他ならない。実際、お金さえあれば大抵の望みは叶えられる。だからこそ、多くの人は「お金を稼ぐこと」に血道を上げるのだろう。パラダイスこそ現代人の殆どが求めている理想だとさえ言える。しかし、パラダイスの理想は競争原理によって成り立っているので、その至福を享受できるのは競争に勝った一握りの者たちにすぎない。残余の大半はパラダイスを仰ぎ見ながら、地を這うように生きていかざるを得ないことになる。尤も、そうした格差が正当な競争の結果であるならば、別に不正義とは言えず、厳しい現実として甘受せざるを得ないのかもしれない。

とまれ、競争社会は流転する。今、頂点のパラダイスにいる勝者も常に奈落へと沈み込む危険性に晒されている。逆に、今は奈落にいる人々でもいつかは頂点に達する可能性を持っている。こうした競争原理に基く現実は確かに過酷なものだ。けれども、同時に人々を魅了する力もある。おそらくパラダイスの魔力は今後も世界を支配し続けるに違いない。

しかし、新しき村の理想は違う。根源から違う。「自他共生」を求める新しき村はパラダイスの理想を超えて行かねばならない。勿論、パラダイスの魔力に抗することは実に至難の業だ。多くの人は、たとい悲惨な格差に翻弄されても、パラダイスの夢の方を追い続けるだろう。しかし、新しき村は諦めてはならない。新しき村にはパラダイスを超える「新しき理想」を実現する使命がある。その可能性はアルカディアとユートピアにあると私は考えているが、それらについての更なる思耕は後日に期したいと思う。(了)

2009-10-10 23:21:16

五、労働と仕事―「新しき必要」の創造

テーマ:ユートピア

通常、馬鈴薯の交換価値と金剛石の交換価値には雲泥の差がある。しかし、それは稀少価値によるものであり、災害や飢饉によって馬鈴薯の方が稀少価値をもつ場面では、金剛石は交換価値において馬鈴薯に劣ることになる。少し横道に逸れるが、稀少価値と本来の価値との間には何か関連があるのだろうか。例えば、ニワトリとトキを比べた場合、その価値に圧倒的な差があるが、それが稀少価値によるものならば、「トキはニワトリより美しいから少なくなった」と言えるのか。美しさが使用価値と密接に関係しているとすれば、そう言える。しかし、食肉という使用価値からすれば、ニワトリの方に使用価値があるわけで、当然ニワトリは多くの人に食べられて稀少価値を持つことになる筈だ。それが自然の理だろう。ただ、現実にそうならないのは、人間がニワトリを人工的に増やす方法を完全に手に入れているからだ。もし将来トキを確実に増やす方法が開発されれば、トキの価値も今ほどではなくなるに違いない。従って、次のようなことが確認できる。

(一)使用価値が高くなれば、交換価値も高くなる。

(二)交換価値が高まれば、稀少価値が生まれる。

(三)稀少価値はそのモノを高価なものにする。

(四)使用価値が高いモノでも、大量生産が可能であれば、安価になる。

さて、馬鈴薯の生産を「第一義の労働」の一例だとすれば、その生産物の使用価値に問題はないとしても、それが持続的に交換価値に繋がるかが問題になる。つまり、自給用でない限り、つくれば売る(お金と交換する)ことを考えざるを得ない、ということだ。しかし、馬鈴薯(に限らず食物一般)の必要には限界があり、必要以上の生産はあり得ないだろう。従って、全ての人間が狭義の「第一義の労働」に就くことは原理的に不可能になる。言い換えれば、馬鈴薯と交換して得たお金だけで自分の必要とするもの全てを満たすことのできる人は非常に限られている、ということだ。勿論、人間生活に必要なものは食物だけではなく、他にも様々なものがある。そうした食物に匹敵する必要物を生産することも広義の「第一義の労働」であることは既に述べたが、厳密に言えば、それにも限界がある。これも先に指摘したことだが、今後合理化(機械化)が更に進行すれば、人間が「第一義の労働」に就く必要性は益々失われていくものと予想される。つまり、自然の必要だけに立脚しているかぎり、我々はその必要を超えて労働する意味を見出せなくなるのだ。

しかし乍ら、例えば馬鈴薯を加工することによって、「新たな必要」を生み出すことができる。また、馬鈴薯をつかった饅頭、ケーキ、パンなどを開発することによって、馬鈴薯の価値そのものを人為的に高めることも可能ではないか。これは工業製品でも同じことで(むしろ農業より工業において顕著かもしれない)、不断のモデル・チェンジ並びに技術革新によって「新たな必要」を生み出していかなければ、やがてその製品に対する必要性も涸渇すると思われる。従って、あくまでも「第一義の労働」に拘るならば、我々は自然の必要を超える「新たな必要」を生み出していかなければならない。

ただし問題は、その「新たな必要」が真の使用価値に基く「新しき必要」かどうか、ということだ。もし「新たな必要」が企業の巧みな宣伝戦略に踊らされた「新しい購買意欲」にすぎないのなら、それは実に虚しいことではないか。しかし、我々の意味ある労働を持続的に可能にする「新しき必要」と単なる「購買意欲」を区別することは至難の業だ。

ここでやっと金剛石をめぐる本題に入るわけだが、その必要性は果たして「新しき必要」なのか、それとも宝石業界によって画策された偶像的なものにすぎないのか。たとい偶像であったとしても、それで幸せな気分になれるのなら、それも「新しき必要」だと見做していいのかもしれない。難しいところだ。

何れにせよ、冒頭に述べたように、代助は「もし馬鈴薯が金剛石より大切になったら人間はもう駄目だ」と言っているわけだが、これを私なりに解釈すれば、「人生の価値観が水平の次元に閉ざされるようになったら駄目だ」ということになる。確かに馬鈴薯は大切なものだ。しかし、それは自然の必要に他ならない。それに対して金剛石の必要は自然を超えている。言い換えれば、自然に即した生活をしている限り、金剛石の必要など考えられないだろう。むしろ、金剛石の必要を決然と拒絶して、馬鈴薯の必要にのみ徹する清貧の生活を理想とする人もいると思われる。果たして、それが新しき村の生活の理想なのか。金剛石の必要はブルジョアの贅沢趣味にすぎないのか、それとも自然の必要を超える垂直の次元に「新しき必要」を切り拓く可能性の一つなのか――この問いにこそアルカディアとユートピアの分岐点がある。

2009-10-10 23:20:26

四、「肉体の糧」と「魂の糧」

テーマ:ユートピア

馬鈴薯には使用価値がある。馬鈴薯に限らず、農産物には根源的な使用価値があると言える。それは人間の「肉体の糧」として使用される価値に他ならない。これに対して、金剛石の使用価値とは何か。一般的には、装飾だと考えられる。貧乏人の私には金剛石で身を飾ることの意味がよくわからないが、それは「魂の糧」として使用されると想像される。「魂の糧」というと大袈裟に聞こえるが、少なくとも「肉体の糧」ではなく、そこには「ただ生きてあること」以上の充実が求められている。つまり、金剛石などなくても生きていくことに全く支障はないが、「金剛石のある生活」と「金剛石のない生活」には質的な違いがある、ということだ。言うまでもなく、それは優劣の問題ではなく、あくまでも生き方の問題だ。

勿論、金剛石のようなモノを「魂の糧」にすることの是非は問題にすべきだろう。そもそも金剛石の何が「生の充実」をもたらすのか。その類稀な輝きか。もしそうなら、それは審美眼による趣味の問題であり、周囲を美しい花で飾って心豊かな生活を望むことと変わりはない。しかし、多くの場合、「自分は何百万円もする高価な金剛石を身につけている」という意識が「生の充実」をもたらすのではないか。もしそうなら、美しい金剛石で装飾するという使用価値を超えて、何百万円もする金剛石という交換価値が「生の充実」になっていることになるだろう。そこには何か根源的な倒錯があるような気がしてならない。

尤も、馬鈴薯にも安価なものと高価なものがある。しかし、それは味や大きさなどの使用価値の差にほぼ正確に比例している。つまり、美味しい馬鈴薯は高価で、不味い馬鈴薯は安価だということだ。こうした使用価値と交換価値の比例は金剛石の場合も同様で、品質が良くて装飾としての使用価値が高ければ、それだけ交換価値も高くなる。そのこと自体に問題はない。むしろ、交換価値が使用価値に正確に比例する経済は理想的だと言えるだろう。問題はあくまでも、使用価値に裏打ちされない交換価値の暴走だ。

2009-10-10 23:14:57

三、使用価値と交換価値

テーマ:ユートピア

労働の第一義と第二義のズレは、その労働によって生み出されるものの使用価値と交換価値のズレだと考えることができる。やや深読みに過ぎるのかもしれないが、人間の活動は使用価値のあるものの生産を目的としている。どんなに下手な絵でも、少なくともそれを描いた人の心を慰めるという使用価値はあるからだ。しかし、下手な絵に交換価値があるだろうか。昨今は「ヘタウマ」などという流行があるので一概には言えないが、一般的には下手な絵に交換価値はないと言える。つまり、下手な絵は売れず、結果的に下手な絵を描くことでは生活できないということだ。こうしたことから、次のことを確認しておきたい。

(一)人間の活動は使用価値のあるものを生み出す。(第一義の労働)

(二)第一義の労働で生活していくためには、完全自給自足か、さもなければ使用価値のみならず交換価値もあるもの(商品)を生み出す以外にはない。

(三)商品における使用価値と交換価値のバランスが崩れ、交換価値が暴走すると、人間の活動は第二義の労働に転化する。

自分自身の労働で生活に必要なもの(使用価値のあるもの)を全て生み出せるなら、それは一つの理想に他ならない。すなわち、完全自給自足の理想だ。そんなことが現実に可能だとは思えないが、たとい可能だとしても、それは実に寂しい理想ではないか。少なくとも、そこには「血沸き肉踊るような生の充実」はない。私はやはり、それぞれの人間が使用価値のみならず交換価値もあるものを生み出していく「共働態の理想」を夢見たいと思う。勿論、それは夢のように簡単にはいかないだろう。具体的な諸問題は今後の課題だが、人が第一義の労働の意味さえ見失わなければ、「共働態の理想」は決して実現不可能なものではないと信じている。言い換えれば、人が第二義の労働に囚われている限り、「共働態の理想」は実現しないのだ。問題は、あくまでも第二義の労働の克服にある。私はその問題を、「馬鈴薯を生産する労働」と「金剛石を生産する労働」との対比において考えてみたいと思う。

2009-10-10 23:13:01

二、労働の第一義と第二義

テーマ:ユートピア

食うための労働は、一義的には「食うものの生産」である農業だ。しかし、全ての人が百姓になる必要はないし、なろうとしても物理的な問題(農地など)で不可能だろう。また、人間が生きていくのに必要なのは食うものだけではなく、実に様々なものがある。従って、有形・無形を問わず、「食うものに匹敵する必要なものを生み出すこと」も食うための労働と見做すことができる。ただし、物々交換の段階に留まっていれば問題はないが、現実の交換はお金によって媒介されるので、実質的には「お金を稼ぐこと」が食うための労働へと微妙にすり替わっていく。私はこれを食うための労働の第二義だと解している。当面私が問題にしたいのは、こうした労働の第一義と第二義のズレに他ならない。

この点、私は全く手探りで思耕しているので少し整理を要するだろう。大雑把に言えば、労働には次の三相があると思われる。

(一)食うものの生産(一次的生産)

(二)食うものに匹敵する必要なものを生み出すこと(二次的生産)

(三)お金を稼ぐこと(三次的生産)

もし世界が、一次的生産者と二次的生産者が互いの必要を満たし合うことで成り立つなら、それは一つの理想社会だと言える。それぞれの労働が第一義の意味を持っているからだ。しかし、現実にはそのバランスは崩れざるを得ない。例えば、食うものが過剰に生産されれば、その必要の度は当然低くなり、食うもの以外の必要物との交換が困難になるだろう。言うまでもなく、その逆も考えられる。また、機械の導入などの合理化によって、幸か不幸か、人間は第一義の労働そのものから解放されつつある。或る百姓が「米づくりなどと言っても、俺たちはもはや大型機械のオペレーターにしかすぎない」と嘆いていたが、今後ますます人間は第一義の労働をしなくてもすむようになるだろう。これを解放と見るか、新たな疎外と見るかによって、理想社会のヴィジョンは大きく異なってくると思われる。

結局、食うものの生産にせよ、それに匹敵する必要物の生産にせよ、第一義の労働で生活できる人は幸福だと言える。「自分は人々の必要を満たすために働いているんだ!」という「生の充実」があるからだ。しかし、「人々の必要」ということであれば、駅前の煙草の吸殻を拾うことだってそうだが、それで生活することなどできない。おそらく、それはボランティア活動であって、労働とは見做されないだろう。勿論、ボランティア活動だから駄目だということではなく、私が言いたいことは、いくら「人々の必要」を満たす活動で「生の充実」が得られても、それが生活に繋がらなければ労働ではない、ということだ。では、「生活に繋がる」とは何か。現実に即して言えば、それは生活に必要なあらゆるものとの交換を可能にする「お金」を稼ぐことに他ならない。かくして好むと好まざるとに拘らず、第一義の労働から疎外された人間は「お金を稼ぐこと」を目的とする第二義の労働への移行を余儀なくされる。事実、現代人の殆どにとって、「食うための労働=お金を稼ぐこと」という等式が成り立っている。これは一体何を意味するのか。

2009-10-10 23:10:08

一、食うための労働

テーマ:ユートピア

「もし馬鈴薯が金剛石より大切になったら人間はもう駄目だ」と代助は言っている。この言葉の根柢にあるのは、やはり「人はパンのみにて生くるにあらず」という信念だろう。事実、代助は「あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭(パン)を離れている」と明言している。勿論、先述のように、こうした高等遊民の主張は特権的なものであり、富裕な家に生れついた代助の如き人間にしか許されない。従って、多くの人は反撥すると思われるが、さりとて人はいつまでも食うための労働に縛られていて良いのだろうか。

良いも悪いも、殆どの人が食うための労働を余儀なくされている以上、その現実から出発するしかない。しかし、その出発に際して、二つの大きく異なる立場があると思われる。それは次のようなものだ。

(一)食うための労働を神聖化する立場

(二)食うための労働から自由になろうとする立場

前者は結果的に農本主義に等しい。つまり、食物を生産する農業を基本として、可能な限り自然に即した生活をすることだ。これは共生の原型でもあり、それを核として一つの理想的共同体が想定される。言わば宮澤賢治の言うデクノボオの共同体だ。私はそれを「善人の共同体」と称しているが、この言葉に皮肉は全く含まれていない。掛け値なしに、それは理想に他ならないと思っている。しかし、問題がないわけではない。それは、「食うための労働は人間にとって本質的なものではない」と思う人、言い換えれば「人間は食うための労働以上の仕事をしなければならない」と思う人を排除する傾向にある、ということだ。排除しないまでも、食うための労働を厭う怠け者と見做し、結局「善人の共同体」には居づらくさせてしまうだろう。

これに対して、何とかして食うための労働から自由になろうとする立場がある。これは、文字通り農業からの解放を意味する場合もあるが、多くは「お金を稼ぐこと」からの解放を目的としている。従って、「お金を稼ぐこと」を目的とする労働に疲れ果てた人が、お金を必要としない農的生活(自給自足)の理想に憧れるということは大いに考えられる。しかし、厳密に言えば、これは食うための労働を神聖化する立場への回帰に他ならない。現代の帰農運動の逆説的本質もここにあると私は考えている。

では、食うための労働から真に自由になろうとする立場とは何か。食うための労働には文字通りの「食うものを生産する農業」と「お金を稼ぐこと」の二つの意味があるとすれば、それらから自由になることだ。繰り返しになるが、食うための労働を神聖化する農本主義には「お金を稼ぐこと」を目的とする労働から人を解放する可能性がある。だからこそ、農的共同体もしくはエコ・ヴィレッジというものが人間にとって永遠の理想になるのだと思われる。しかし、問題はそうした永遠の理想からはみ出してしまう人間だ。「善人の共同体」に違和感を覚える者は、馬鈴薯より金剛石を大切にする悪人にすぎないのか。

2009-10-10 23:06:43

はじめに―生活に齷齪(あくせく)する人間は馬鹿か

テーマ:ユートピア

人間として本当に生きることの理想について思耕する時、私の脳裡には代助(漱石の『それから』の主人公)の高等遊民的な生き方が去来する。周知のように、代助は多くの書を読み、人生の深遠な問題について思索していて、そうした問題とは無縁の生活に齷齪している輩を軽蔑している。しかし、彼がそんな問題に耽っていられるのは、金持の親のパラサイトに甘んじていられるからにすぎない。それ故、やがて恋愛問題が原因で親からの仕送りが断たれると、途端に生活に困窮し、もはや以前のように深遠な問題に悩んでいられる余裕はなくなってしまう。つまり、彼は自分が馬鹿にしていた「生活に齷齪すること」を余儀なくされるわけだが、「本当の問題」は正にそれから始まると言えるだろう。

さて、所謂ニートと呼ばれる人たちは代助の末裔だと見做すことができる。中には単なる怠け者もいるかもしれないが、その多くが何かを真剣に求めていることは間違いない。言い換えれば、愚直にも人間として本当に生きようとしているからこそニートになることを余儀なくされている面が確かにあるのだ。また、実際にニートにはならなくても、従順に学校に通い、その厳しい受験戦争に耐え、それなりの学歴を経て、それなりの就職をして、それなりの社会人になっていくという既成のレェルに疑問を抱くことも基本的には正しいだろう。むしろ、古い価値観にいつまでも唯唯諾諾として従っている方がおかしい。

しかし、たとい社会の腐敗が現実だとしても、その泥沼から身を清くしていられるのは代助のようなパラサイトだけだ。普通の人間は、好むと好まざるとに拘らず、現実の中で泥まみれになって生きていかざるを得ない。その典型がワーキング・プアと言われる人たちだが、彼等に高尚な思想書に目を通している暇などないだろう。そこには生活に否応なく齷齪せざるを得ぬ現実がある。そして、そうした苛酷な現実と闘っている人に向かって、そこから遊離していられる身分でいくら偉大な哲学を語っても説得力がないのは当然だ。

とは言うものの、経済的なプアと闘うことが精神的なプアを正当化することにはならないのも事実だ。これは詰まるところ、「人生にとって何が一番重要なことか」という問題であり、経済的な豊かさを第一に考える人もいれば、あくまでも精神的な豊かさを至上のものとする人もいる、ということに他ならない。前者を生活派、後者を余裕派と称すれば、私の新しき村に対する究極的関心は自分自身の中の生活派と余裕派の相剋から生まれてきたと言えよう。そこで私はこの小論において、そうした相剋がもたらす問題を代助の言う「馬鈴薯と金剛石」の関係を通じて考えてみたいと思う。

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