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2016-05-25 19:13:38

日本人ばなれ

テーマ:ユートピア

女性週刊誌などでよく「抱かれたい男性タレント・ランキング」なるものが行われると風の噂に耳にしますが、同様の馬鹿丸出し企画に「なりたい顔・ランキング」というものがあります。参考までに女性タレントの場合をネットで調べたところ、輝く第一位は北川景子でした。三連覇だそうです。確かに北川景子は美人(無礼を承知で言えば、その笑顔はそんなに美しくない)ですが、世の若き乙女たちは本当に彼女の顔になりたいと思っているのでしょうか。また先日、或る駅構内で「あなたもハーフ顔になれる!」という美容整形外科の広告を目にして驚愕致しました。「ハーフ顔」とは何か。顔が半分に見えるほどの小顔のことかと一瞬思いましたが、広告の写真を見て「混血児の顔」のことだと判りました。「混血児」は別に差別語ではない(むしろ「ハーフ」の方が差別語で、「ダブル」と言うべきだと意見もあるようです)と思いますが、かつて混血児は「あいのこ」と言われて差別の対象でした。それが今や憧れの対象になるとは!「北川景子の顔になりたい!」という乙女心さえ私には理解不能なのに、「ハーフ顔になりたい!」となると、これはもう新人類を遥かに超越した宇宙人の言葉にしか聞こえません。彼女たちはやがて「ハリウッド・スターの顔になりたい!」と思い始めるのでしょうか。いや、それはすでに現実になっているようです。


「美しくなりたい!」という思いは理解できます。しかし、自分の顔を捨てて他者の美しい顔になりたいという思いがどうしても理解できないのです。北川景子の顔はどこまでいっても北川景子の顔です。たとい美容整形手術に成功して北川景子の顔になったとしても、それはやはり北川景子の顔であって自分の顔ではありません。自分の顔は一体どこへ行ったのでしょうか。これが更に「ハーフ顔」、「白人の顔」になれば、美の基準さえ揺らいできます。確かに、驚くほどの美男美女はよく「日本人ばなれ」していると言われます。多くの場合、これは褒め言葉であり、言われた当人たちも満更でもなさそうな表情を見せます。つまり、「日本人ばなれ」していくことは好ましいことと理解されているのです。実際、今の若者たちは長身で足も長くなり、顔立ちも整ってきています。端的に言えば、日本人も次第に欧米人らしくなってきているのです。果たして、これは歓迎すべきことなのでしょうか。日本人の民族性も朱鷺(トキ)と同じ運命を辿るのかもしれません。

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2016-05-24 19:38:19

HomaranismoとSennaciismo

テーマ:ユートピア

私は長谷川テルの研究者ではないので、彼女の抗日運動の根柢に一体如何なる思想があったのか、本当のところはよくわかりません。しかし、彼女が筋金入りのエスペランティストであった事実からすれば、そこには当然ザメンホフのhomaranismoの影響があったことは間違いないでしょう。Homaranismoは通常「人類人(homarano)主義」と訳されますが、その内容についてザメンホフは大略次のように述べています。

「私は人間だ。そして全人類を一つの家族だと思っている。互いに憎み合う様々な民族や民族宗教の共同体における人類の違いというものは、遅かれ早かれ消滅しなければならない最も大きな不幸の一つであり、その消滅を私は自分の能力に応じて加速させねばならない。・・・・・・私はそれぞれの人間に人間だけを見る。つまり、それぞれの人間をその人個人の価値や行いだけで評価するのであって、その人が私とは異なる民族、言語、社会的階層に属しているということで侮辱したり抑圧したりするのは実に野蛮なことだと思う」


さて、全人類を一つの家族と見做すことは「新しき村の精神」にも通じ、この理想自体に対する抵抗は余りないと思われます。しかし、その理想実現のために「それぞれの民族の違いは消滅しなければならない」とまで言われると、やはり大きな抵抗があるのではないでしょうか。実際、エスペラント運動の歴史においても、最初に激しく議論されたのはその点でした。結局、エスペラントはそれぞれの民族語に取って代わるべき唯一の世界共通語ではなく、あくまでも異なる民族を繋げるpontlingvo(橋渡し言語)としての補助語にすぎないという認識に落ち着いたのですが、これは実に自然の流れだと言えます。余談ながら、明治維新に際して日本語を廃止して英語かフランス語を国語にした方がより速やかな文明開化が可能になるというような動きがあったようですが、幸か不幸か、それは実現しませんでした。「幸」であったのは、やはり「言葉は存在の住処」であり、日本語という言霊なくして日本人としての実存は成り立たないからです。一方、「不幸」として考えられるのは、例えば英語が国語になっていれば日本人の国際化はもっと円滑に進んだであろうと思われる点でしょう。しかし、厳密に言えば、一民族語にすぎぬ英語によって進むのは英語帝国主義に他ならず、真の国際化ではありません。国と国を公正に結ぶ国際化、更には国を超えて民衆と民衆が連帯する民際化を原理的に可能にするのは、やはり人工的な中立語であるエスペラント以外にはないでしょう。言うまでもなく、現実には英語が国際語として世界に君臨していますが、この歪んだ現実を変革していくのもエスペラント運動の大きな使命だと思われます。


しかし乍ら、世界中の民衆を連帯させるエスペラント運動において、民族はどうなるのでしょうか。民衆の真の連帯にとって民族性は障害でしかないのでしょうか。確かに、ザメンホフの当初の理想において民族性は早晩消滅すべきものとされていたことは間違いないと思われます。しかし、民族性の消滅は明らかに我々の自然感情に反するものであり、その点ザメンホフは或る程度民族性を擁護する立場へと妥協したのではないでしょうか。その点を鋭く批判したのがランティです。彼は言っています。

「我々は無民族性という感情を生み出し、それぞれの人間の心の裡に民族性ではなく人間性をこそ植え付けなければならない。先ず第一にエスペランティスト、もしくは人間であれ! その次にイギリス人とかイタリア人とか中国人であるのだ!」

ランティはこの立場からSennaciismo(無民族主義)を主張しましたが、果たしてどうでしょうか。原理だけを問題にすれば、ザメンホフが理想としたHomarano(人類人)は全ての民族を超越するSennaciulo(無民族人)になるしかないと思われます。それが最もラディカルな帰結でしょう。しかし、我々は現実にSennaciuloとして生活できるでしょうか。

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2016-05-23 17:24:40

売国奴の「人間らしさ」

テーマ:ユートピア

先の戦争において当時の日本のマスコミから「売国奴」と罵倒された女性がいます。反戦エスペランティストの長谷川テル(Verda Majo)です。彼女は日本で中国(厳密には満州国)からの留学生と結婚し、その後中国に渡って抗日放送に従事しました。この事実だけからすれば、彼女は間違いなく祖国に対する裏切者でしょう。しかし、本当にそうでしょうか。これは尾崎秀実や杉原千畝にも言えることですが、こうした人々の日本政府に対する反逆行為は決して日本そのものへの憎悪に基くものではなく、むしろ日本を深く愛するが故に、日本が「人間らしさ」に反することのないように願っての行為だと理解できます。長谷川テルの場合に限って言えば、彼女にとっての日中戦争は単なる日本と中国の争いではなく、あくまでも抑圧者に対する被抑圧者の抵抗運動に他なりません。従って、中国の勝利はアジアにおける全ての被抑圧者の解放を意味したのです。尤も心ある日本人にとっても、先の戦(いくさ)は太平洋戦争と言うよりも大東亜戦争であり、西洋の抑圧から東洋を解放する聖戦でした。その内実が侵略戦争であり、大東亜共栄圏が王道楽土に反する覇道地獄でしかなかったことは日本人として痛恨の極みですが、たとい売国奴と罵られても「人間らしさ」を失わなかった人が少数でもいた事実には慰められます。言うまでもなく、その僅かな事実で日本を正当化するつもりなど全くありませんが、「人間らしさ」にはナショナリズムを超える可能性があることだけは否定できないと思います。


しかし乍ら、ナショナリズムの力は強大であり、「人間らしさ」がそれを現実に超越することは容易なことではありません。殊に「生の充実」の観点からすれば、ナショナリズムほど生を輝かせるものはないでしょう。今年はオリンピック・イヤーで再び多くの国民が自国の選手が他国の選手を打ち負かす姿に熱狂すると思われますが、それは極めて自然な感情です。それを悪として非難抑制することは我々の生活をひどく窮屈なものにしてしまうに違いありません。さりとて、ナショナリズムを手放しで肯定することにも少なからぬ抵抗があります。果たして我々の「人間らしさ」は本当にナショナリズムを超えられるのでしょうか。

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2016-05-21 06:57:42

非国民の「人間らしさ」

テーマ:ユートピア

先日、或る信用組合主催の講演会に足を運び、そこそこ著名な政治ジャーナリストの「どうなる日本の政治・経済の行方」と題する話を聴いてきました。しかし演題は名ばかりで、総理大臣時代の中曽根さんは偉かったとか、今も秋田で暮らす母親が如何に苦労して自分を立派に育て上げたかとか、そんな脈絡のない無駄話ばかりで、締め括りの結論としては「これから日本がどうなるか、それは誰にも分からない」という噴飯物でした。このオッサンはかなり保守的な御仁のようで、最近マスコミに叩かれている東京都知事を何故か擁護していたのも笑えましたが、更に安保法案に関連して「集団的自衛権のどこがいけないのか!」と声を張り上げるに至って、私は笑いから一転して考え込まざるを得なくなりました。オッサンはこんなことを言いました。

「私には娘が二人いる。この娘たちが暴漢に襲われたら、私は自分の命を懸けて死に物狂いで彼女たちを守ろうとするだろう。場合によっては暴漢を殺してしまうかもしれない。それに対する刑罰には潔く服する覚悟はできている。しかし、娘たちを守るために暴漢を殺したことを悔いるつもりはない。それが親としての当然なすべきことだからだ」


厳密に言えば、これは個別自衛権に関する話のような気がしますが、それはともかくとして、私が考え込んだのはオッサンが「暴漢の殺害」に何の疑問も抱いていない点です。尤も、「どんな状況であろうと、人を殺すのはよくない」などと主張しようものなら、「キレイゴトを言うな!」と逆に私の方が火ダルマになりそうです。実際、私には娘はおろかヨメさんさえいないものの、自分自身や身近な親しい人が危険に晒されれば、臆病者の私でも、いや臆病者だからこそ窮鼠猫を噛むことになるでしょう。それは極めて自然な反応です。むしろ、隣人が殴られているのに、「暴力はいけない」という真理を貫いて非暴力に徹するのは不自然であり、結果的には暴力を容認することに等しくなります。「やられたらやりかえせ! 暴力には暴力で対抗するしかないのだ。少なくとも非暴力の理想では愛する人を守ることなどできない」――こうした声の方が圧倒的であり、一般大衆もそれを熱烈に支持するのは明白です。


しかし、それにも拘わらず、非暴力の理想は放棄すべきではないと思います。周知のように、非暴力は無抵抗ではありません。むしろ暴力による抵抗以上の力を要する抵抗です。「殴られたら殴り返す抵抗」と「殴られても殴り返さず、ずっと殴られ続ける抵抗」、前者は自然で多くの人に容易に理解されるでしょうが、後者は不自然で逆に多くの人から非難されるでしょう。しかし、後者にこそラディカルな「人間らしさ」があると私は考えます。とは言え、例えば現実に侵略されて戦争が始まった時に非暴力の理想に徹するならば、義憤に駆られた大衆の怒りを買って「非国民!」と罵倒されるに違いありません。然り! 良心的徴兵拒否の場合と同様、ラディカルな「人間らしさ」を追求することは並大抵のことではなく、全ての国民から石を投げられる覚悟が必要になります。とまれ、そんな不自然な苦しみに耐えてまでラディカルに「人間らしさ」を貫こうとする必要があるでしょうか。「やられたらやりかえせ!」という自然な感情に身をゆだねる大衆と共に立ち上る方がどれだけ楽でしょう。困っている人を助けるというような穏やかな「人間らしさ」とは違って、ラディカルな「人間らしさ」は世界を根源から震撼させる理想なのです。

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2016-05-19 17:31:20

人間らしい生活(10)

テーマ:ユートピア

「男らしさ」とか「日本人らしさ」とか回りくどい思耕にウンザリされているかもしれませんが、「自分らしさ」が最も重要であることは自明のことです。「自分らしく生きている!」という実感こそが「本当に生きている!」という輝きをもたらすでしょう。しかし、「自分らしさ」とは一体如何なるものでしょうか。それをはっきりと自覚できている人は稀であり、だからこそ悩める人々は「自分探しの旅」に赴くことになるのです。かく言う私もその旅の途上にある彷徨い人の一人ですが、その出発点は埴谷雄高のいう「自同律の不快」だと思われます。


「自同律の不快」とは「私は私である」と言い切る時に込み上げてくる不快です。何故それが不快かと言えば、主辞の私と賓辞の私の間に越え難い断絶があるからです。「自分探しの旅」とは畢竟、主辞の私が完全に満足できる賓辞の私を求める旅だと言ってもいいでしょう。問題は、そのような賓辞の私とは何か、ということです。試みに、「私は男である」と言ってみる。これは間違いのない事実ですが、余りにも当たり前すぎて男という賓辞に私の「自分らしさ」など見出せません。そこで更に「私は真の男である」と言ってみる。すると真の男、すなわち「男の中の男」は私の「自分らしさ」の有力な候補になってきます。ただし、私は「真の男らしさとは何か」という新たな問いに悩まねばなりませんが、取り敢えず「真に男らしく生きること」に向かって主辞の私の生は輝き始めるでしょう。同様に、「私はプロ野球選手である」、「私は東大生である」、「私は大金持である」などと言える日を目指して生きている主辞の私もあると思われます。これは夢見る人生に他ならず、自由に「なりたい者になる」ことを求めるパラダイスの次元です。実際、プロ野球選手としての私、東大生としての私、大金持としての私――そうした賓辞に完全に満足して生きられるならば、その時「自同律の不快」は雲散霧消するわけで、同時に「自分探しの旅」も終焉を迎えるでしょう。実にお目出度き人生だと言えます。


しかし乍ら、全ての人の夢が実現するとは限りません。むしろ殆どの人にとって夢は挫折するものでしょう。では、プロ野球選手になりたい者がなれなかった場合、彼の人生はどうなるのか。その時点で人生を終えてしまう選択もあるでしょうが、この程度の夢の挫折で絶望する人は稀であり、大抵は新たな別の夢を抱くことになります。と言うより、生活のためには何者かにならざるを得ないわけで、「なりたい者になる」という夢から「なれる者になる」という現実への着地を余儀なくされるのです。勿論、初めから過大な夢など抱かず、「なれる者になる」という現実に立脚して自らの幸福を求める人もいます。最近はむしろ、そうした堅実派の方が多いのかもしれません。しかし、極めて少数でしょうが、夢の挫折によって「本当の自分(賓辞の私)」を求め始める人がいます。「自分はプロ野球選手になりたかった。それは幼い頃からの夢だった。しかし、プロ野球選手が本当に自分のなりたい者なのだろうか。これはプロ野球選手になれなかった負け犬の私の自己正当化にすぎないのか。そうかもしれない。いや、そうじゃない。私が本当になるべき自分はそんなものじゃない。私は本当の人間になりたいのだ!」――そう考える人です。こうした人が「自分探しの旅」を始めるわけですが、確かにそれが挫折者の自己正当化に発していることは間違いありません。挫折することなく目出度く夢が叶っていれば、プロ野球選手としての自分に疑問を抱くことなど先ずあり得ないからです。しかし彼は挫折した。そしてプロ野球選手が自分にとって本当に「理想の賓辞」とすべきものなのか否かを考え始めた。これは厳然たる事実です。たとい切掛は挫折の自己正当化であったとしても、「理想の賓辞」を求め始めたという現実こそ重要なのです。と言うのも、こうした挫折者の直面する現実は夢見る人生の終焉という不幸であると同時に、逆説的には人生の新しき次元を切り拓く幸福でもあるからです。尤も、この点に関しては当然異論があることでしょう。


そもそも「夢見る人生」は子どもの生の次元であり、キルケゴールの実存弁証法で言えば「美的段階」にすぎません。子どもには夢見る特権があり、幼児期の荒唐無稽な夢から始まるものの、成長するにつれて次第に具体的かつ現実的な夢に落ち着いていくのが通例です。本人は自由に夢見ているつもりでも、実際には親を中心とした周囲の価値観、マスコミを通じて作られる流行などの影響によって無意識の裡に自分の「なりたい者」が形成されています。卑近な例を挙げれば、多くの受験生は東大生になることを夢見ているでしょうが、東大生が本当に自分のなりたい者かどうかと受験生に問うことは野暮というものです。世間が東大生というブランドに大きな価値を付与してくれる限り、受験生は東大生になるという夢を追い続け、その生は直接的な輝きを発するのです。これが人生の「美的段階」です。しかし、この段階は早晩終わらなければなりません。先述したように、その殆どは夢の挫折によって終わりますが、幸いにも夢が実現した場合でも、いつまでもそれに酔っているのは愚かなことです。尤も、死ぬまで「私は東大生である(あった)」という満足だけで充実した人生を送ることができるのなら、それはそれで幸福なことではありますが、やはり滑稽、と言うより醜悪なことでしょう。では、もっと実際的な夢の場合はどうでしょうか。例えば、医者になりたいという夢の場合、その夢が実現しても「私は医者である」ということだけで満足するのは愚かなことで、更に「私は真の医者である」という新たな次元を切り拓いていくべきでしょう。これが人生の「倫理的段階」です。つまり、「医者として生きる私」の理想が追求される次元です。こうした移行は夢の実現・挫折に関係なく行われ、人は「自分が本当になるべき者」について思耕せざるを得なくなるのです。とは言うものの、夢見る「美的段階」から理想を求める「倫理的段階」への移行は必然的なものではなく、やはり「大金持になる」というような直接的な夢を一生追い続ける人の方が大半なのかもしれません。あるいは、もはや夢なんかどうでもよく、とにかく毎日を面白おかしく暮していければそれでいいとする刹那的な人も少なくないでしょう。しかし、そうした人たちでも結局は「倫理的段階」に直面すると思われます。どんなに回り道をしても、「美的段階」に生きる倦怠が「倫理的段階」への移行を余儀なくさせるからです。それは決して必然的ではないものの、我々の魂にとっては不可避の道だと私は信じています。


何れにせよ、人は何者かにならねばなりません。なりたい者になれた人もなれなかった人も、共に何者かにならねばならぬという現実に変わりはありません。尤も、何者にもならない、すなわち「無になる」という選択もないわけではありませんが、現実には雲水(修行者)という者になるのです。重要なことは、何者になるにせよ、その何者かを通じて人は自らの生の充実を得る、ということです。一般的には、それは職業の選択として理解され、「百姓として生きる私」とか「公務員として生きる私」などに「自分らしさ」を見出すことになりますが、そのように或る職業を自らを活かす天職として生きられる幸福者はそんなに多くはないでしょう。殆どの人にとって、職業は単に生活のためにお金を稼ぐ手段にすぎず、「自分らしさ」は職業以外の次元に、例えば「家族のために生きる私」とか「趣味のゴルフを楽しむ私」などに見出されると思われます。実際、人は決して一枚岩ではなく、独りでいる時の私、愛する者といる時の私、学生や労働者として社会の中にいる時の私など、実に様々な私から成っています。それらは個人幻想としての私、対幻想としての私、共同幻想としての私という三層構造で理解することができますが、それぞれの層は別の層に逆対応していると考えられます。つまり、三層は決して個別にあるものではなく、そこには常に三層を統合する力が働いている、ということです。その力こそ「人間らしさ」であり、そこから「自分らしさ」も生まれてくると私は考えています。ただ、先述したように、「人間らしさ」とは極めて抽象的なものであり、それだけを論じても余り意味がありません。おそらく、「人間らしさ」は私が様々な私の中から「本当の私」を生み出していく際に働く透明な力なのでしょう。それは時に具体的な私の在り方を鋭く批判することがあります。例えば、日本人としての私に「本当の私」を見出そうとする場合、その「日本人らしさ」と「人間らしさ」は生の充実を巡って激しく鬩(せめ)ぎ合うのです。この問題は簡単には論じられないので項を改めますが、「人間らしい生活」が単に自然に即した平穏無事な生に尽きるものではないこと、それだけはここで強調しておきたいと思います。我々の生を根源的に充実させる「人間らしい生活」は極めてラディカルなものなのです。

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2016-05-16 23:24:01

人間らしい生活(9)

テーマ:ユートピア

私は生の充実(「本当に生きている!」という実感)を求めて「人間らしい生活」を思耕していますが、「人間」は実に抽象的で取り留めがなく一向に埒が明きません。おそらく、より具体的に考えるならば、「男らしい生活」とか「日本人らしい生活」をこそ問題にすべきでしょう。確かに「真の男」や「真の日本人」についてなら或る程度まとまった思耕ができそうです。実際、「真の男」が具体的に明示されて「真に男らしい生活」が確定すれば、それはそれなりに生の充実をもたらすことができると思われます。しかし当然のことながら、それは女性には無縁のものであり、女性には「真の女」の生の充実があるでしょう。つまり、男性には「真に男らしい生活」の輝きがあり、女性には「真に女らしい生活」の輝きがある、ということです。同様に、日本人には「真に日本人らしい生活」の輝きがあり、韓国人には「真に韓国人らしい生活」の輝きがあります。このように生の輝きが多彩であること自体は決して悪いことではなく、むしろ理想的なことだと思われます。問題は、そうした多様な生の輝きが比較され、対立し、その優劣が争われるような場合です。


さて、もはや露骨な男尊女卑の風潮は影を潜めているものの、未だ男女格差の問題は厳然としてあります。厳密に言えば、これは「男らしさ」の輝きと「女らしさ」の輝きの相剋ではなく、単に「男であること」の身体的・社会的力が「女であること」のそれを上回っているだけのことです。言い換えれば、「男は強者であり、女は弱者である」という現実です。実際、弱い男は「男らしくない」と言われ、強い女は「女らしくない」と言われます。しかし、「真の男らしさ」の輝きは単なる強さの誇示ではないですし、「真の女らしさ」も単なる強者への服従ではないでしょう。むしろ、「真の男」は弱き者を思いやる強さを求め、「真の女」も強き者に屈しない強さを求めるのです。つまり、「男女不平等の現実」を超えて「男女平等の理想」を実現するためには、男性も女性もそれぞれ「真の男らしさ」「真の女らしさ」を求める必要がある、ということです。言うまでもなく、「真の男らしさ」と「真の女らしさ」は質的に全く異なります。しかし、それにも拘らず、両者共に歪んだ現実を変革する力になるとすれば、それぞれの根柢に「真の人間らしさ」という理想が輝いているからです。冒頭で述べたように、「人間らしさ」とは極めて抽象的なものですが、それなくして具体的な生の輝きはあり得ません。もし「人間らしさ」という理想がなければ、「男らしさ」や「女らしさ」という輝きもやがて歪んだ現実に転落していくことでしょう。その点を更に「日本人らしさ」という生の輝きを通して考えたいと思います。


そもそも「日本人らしさ」とは何でしょうか。言語、肌の色、習慣など様々な要素から成っていると思われますが、例えば江戸時代以前の人が現代の我々を見て「日本人らしい」と思うでしょうか。厳密に言えば、「日本人」という国民意識が生まれたのは明治維新からなので、「日本人らしさ」もまた近代の産物に他なりません。しかしここでは「日本人らしさ」に自らの生の充実を見出そうとする意識を中心に考えることにします。この意識からすれば、縄文時代にまで遡って「日本人らしさ」を求めることになるでしょう。すなわち、主に民族学や民俗学を援用して「日本人らしさ」の構造を織り出していくのです。問題はそのように織り出された「日本人らしさ」が果たして我々に生の輝きをもたらし得るか、ということです。


率直に言って、私は「日本人であること」に誇りを持ちたいと思っています。日本人がノーベル賞を受賞したり、オリンピックで金メダルを獲得すれば、自然に喜びが込み上げてきます。しかし、それは「日本人らしさ」と関係あるでしょうか。「日本人だから優秀」と思いたいのは山々ですが、おそらくそれは妄想にすぎないでしょう。と言うより、「日本人だから優秀」という論理は延いては「優秀な民族」と「優秀でない民族」を区別する歪んだナショナリズムに通じます。もとより「日本人らしさ」は論理ではなく、様々なイメージの総合です。黒澤明の映画に心酔している外国人なら三船敏郎演じるサムライに「日本人らしさ」を見出すかもしれませんが、多くは「チビで出っ歯で糸のように細い眼」というイメージが「日本人らしさ」を代表しているのが現実です。同様に、災害時でも規律正しく助け合って行動する姿に「日本人らしさ」のイメージがある一方で、従軍慰安婦問題や買春ツアーなどで非難される「日本人らしさ」のイメージがあります。このように様々なイメージが渦巻く中で、もし我々が「日本人であること」に誇りを持ち得るとすれば、それは如何なる「日本人らしさ」に基くものでしょうか。やはりここでも「真の人間らしさ」が焦点になると思われます。少なくとも「日本人らしさ」の根柢に「真の人間らしさ」がなければ、それは到底我々の生を輝かせることにはならないでしょう。しかし、もしそうなら、別に「日本人らしさ」を問題にする必要などはなく、直接「真の人間らしさ」を求めればいいのではないか――そう考える人も少なくないと思われます。果たして本当にそうでしょうか。確かに「真の人間らしさ」を求めていくと「日本人らしさ」が大きな壁となって立ちはだかる地点があります。それはナショナリズムによる生の充実という壁ですが、これを突破しなければ「真の人間」には辿り着けないとさえ考えらえます。しかし、これは明らかに抽象性への逆行に他なりません。私は基本的に「真の人間らしさ」は「日本人らしさ」のような具体相を通してのみ実現すると考えておりますが、両者の関係は逆対応とも言うべき究極的な問題を胚胎しています。この点に関して、最後の思耕を試みます。

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2016-04-30 22:22:29

人間らしい生活(8)

テーマ:ユートピア

「人間らしい生活」と一口に言いますが、その人間を性善説的に理解するか、性悪説的に理解するかでその様相は一変します。また、人間はおかれた状況によって大きく変わるものであり、平時には温厚な人も何かの拍子に逆上してひどく残酷な人と化す場合もあります。そのように折に触れて切り替わる多重人格性に「人間らしさ」を見出すことも可能です。おそらく、そうした多重性は他のイキモノには見られないでしょう。実際、「人間らしさ」を人間のみに見出される特性と理解するならば、それは他のイキモノには到底できない善いことでも悪いことでもあるわけです。例えば、他のイキモノにも他者への攻撃はありますが、いじめは全くないそうです。つまり、或る社会学者によれば、いじめは加害者と被害者だけではなく(その両者だけだったら攻撃にすぎない)、それを周囲ではやしたてる観客と見て見ぬ振りをする傍観者を加えた四層構造から成っているとのことですが、他のイキモノには観客と傍観者の層が欠けているということです。従って、「いじめのある生活」を「人間らしい生活」と理解することだって可能なのです。


勿論、我々が普通「人間らしい生活」を問う場合は、人間が本来なすべき肯定的な生活に他なりません。飢餓に襲われれば、ゴミ箱の残飯をあさったり、わずかな食べ物を奪い合うのも赤裸々な人間の現実ですが、やはり人間としての品性を重んじ、剥き出しの欲望を抑制して皆で食べ物を分け合う生き方にこそ「人間らしい生活」を見出すべきでしょう。それは時に痩せ我慢とか気取り過ぎといった不自然に傾くこともありますが、そうした不自然も含めて「人間らしい生活」には或る構造があると思われます。余談ながら、先日或るタレントが「自分は無宗教な人間だけど、オニギリを踏み潰すことはできない」とテレビで語っていましたが、他にも「畳の上を土足で歩けない」とか「手掴みで御飯を食べられない」というように無意識の裡に欲望を抑制していることがあります。尤も、それは文化によって異なり、欧米人なら畳の上に土足で上がっても平気でしょうし、手掴みで食事をするから野蛮だとは言えません。しかし、近親婚の忌避に見られるように、「何が不快で何が快適か」もしくは「何がしてはならないことで何がすべきことなのか」を自ずとわきまえている「野生の思考」は厳然としてあると思われます。レヴィ=ストロースはその構造を民族学のみならず言語学・数学を援用して科学的に明らかにしましたが、そこに「人間らしい生活」の原点をおくこともできます。問題は、そうした野生の原点(単なる野蛮とは区別される自然の構造)を「人間らしい生活」の永遠の理想とするか、それとも将来実現すべき真の理想に向かう出発点とするか、ということです。我々のこれまでの文脈で言えば、永遠のアルカディアか歴史のパラダイスか、という「あれか、これか」になるわけですが、その根柢には野生の思考と弁証法的思考の対立があることは言うまでもありません。


何れにせよ、野生の原点を基本軸とするならば、我々はそこからズレることで歴史を発展させてきたことは厳然たる事実です。アルカディアからパラダイスへの流れこそ我々の歴史そのものだと言ってもいいでしょう。それは根本的に過誤の歴史だったのでしょうか。「人間らしい生活」を取り戻すためには、野生の原点に回帰するしかないのでしょうか。私はそうは思いません。そもそも「人間」というものは、フーコーによれば十八世紀以前には実在しなかったそうですが、「人間らしい生活」を求めること自体がすでに野生の原点からの疎外に他ならないからです。「人間」はその原点からズレることで生まれたのであり、「人間らしい生活」もまたそのズレを前提にしていると考えられます。従って、たとい「人間」の歴史が過誤に満ちていたとしても、パラダイスの果てを目指すのは我々の運命なのです。一体、その果てには何があるのか。世界の滅亡か、それとも――。

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2016-04-26 17:33:39

人間らしい生活(7)

テーマ:ユートピア

「さうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかふ酒盛りだった。けれどもむかしのほんたうのポラーノの広場はまだどこかにあるやうな気がしてぼくは仕方がない。」

「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵へようではないか。」

「さうだ、あんな卑怯な、みっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場ではなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくらはみんなでこさへよう。」

「ぼくはきっとできるとおもふ。なぜならぼくらがそれをいまかんがへてゐるのだから。」

(宮澤賢治「ポラーノの広場」)


キューストとファゼーロが苦労して探し出したポラーノの広場は堕落したものでした。しかし「むかしのほんたうのポラーノの広場」は、おそらく「人間らしい生活」に満ちた共生空間だったのでしょう。それがどうして堕落したのか。本当のポラーノの広場がまだどこかにあるとしても、それが再び堕落しないとは限りません。いや、きっと堕落するでしょう。始源の楽園とも言うべき自然のままの共生空間は、人間の個我の発展と共に競争空間へと転換せざるを得ないからです。ここで留意すべき点は、この転換は共生の理想からすれば堕落ですが、競争の理想からすれば発展だということです。つまり、共生から競争への転換はアルカディアの理想からパラダイスの理想への移行に他ならないのです。しかし、繰り返し述べているように、必然的に格差を拡げ続けるパラダイスの理想は今や絶望的な行詰りを露呈し、多くの人が「このままでは駄目だ」という危機感を抱いています。だからこそアルカディアの理想が性懲りもなく何度も脚光を浴び、そこへの回帰が求められるわけですが、もはや単純な後向きの運動では問題の根源的な解決にはならないのは明白です。たといどんなに「むかしのほんたうのポラーノの広場」が輝いていたとしても、それは過去のものとしてきっぱりと思い切るべきでしょう。全てはその断念から始まります。やはり真のポラーノの広場は新しく皆でこさえるしかないのです。


では、新しきポラーノの広場とは如何なるものでしょうか。ファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくったとのことですが、その根幹は賢治が「農民芸術概論綱要」で述べている「一つの巨きな第四次元の芸術」だと思われます。その詩的なヴィジョンを野暮を承知で現実的な社会の地平に着地させれば、それは労働者協同組合、昨今流行(はやり)の横文字で言えば「ワーカーズ・コープ」とか「ワーカーズ・コレクティヴ」という形態になるでしょう。鄙見によれば、そうした形態の核となっているものはアソシエーションです。アソシエーションとは、佐藤慶幸氏の簡潔な定義を借用すれば「人々がある目的あるいは使命のために、市場原理や国家権力から自律して、相互に対等な立場で、自由意志によって自発的に参加し、対話的行為を通して意志決定し、実践する民主的な非営利・非政府の連帯のネットワーク型組織」ですが、その十全な実現によって暴走するパラダイスの理想に一矢報いることができるかもしれません。とは言え、現実にはそれは未だ夢のまた夢、アソシエーションの力は蟷螂の斧にすぎず、パラダイスの力は依然として巨大です。結局、それはパラダイスで可能になる「人間らしい生活」(贅沢な消費生活)により大きな魅力を感じる人の方が大半だということを意味します。しかし、本当にそうでしょうか。賢治のポラーノの広場は私にとって、実篤の新しき村と同様に人間生活の祝祭空間を指し示すものに他なりませんが、その血沸き肉踊る魅力はアルカディアやパラダイスを遥かに凌駕するものです。それを何とかして情熱的に表現したいものだと悪戦苦闘しているわけですが、非力な私の言葉はますます硬くなるばかりです。と嘆いてばかりいても仕方ないので、エンヤコラこれからも共生と競争を超える祝祭空間を目指して舟を漕ぎたいと思います。

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2016-04-21 17:15:47

人間らしい生活(6)

テーマ:ユートピア

新しき村は「人間らしい生活」をする場所です。私はそれを少し難しく考え過ぎているのかもしれませんが、実篤の素朴な原点に戻れば、次のような「一個の人間」として生きることに他なりません。

私は一個の人間でありたい

誰にも利用されない

誰にも頭を下げない

一個の人間でありたい

他人を利用したり

他人をいびつにしたりしない

そのかはり自分もいびつにされない

一個の人間でありたい


利用とは、自分が利益を得るために他人を手段として使うことです。残念乍ら、我々が現実に暮している社会は誰かを利用したり、誰かに利用されたりすることで成り立っているゲゼルシャフトです。ただし、互いに利用し合うことで得られる幸福もあるわけで、ゲゼルシャフト自体を一概に悪く言うことはできないでしょう。むしろ、たとい社会全体の利益が重視されるとしても、地縁血縁で雁字搦めにされたゲマインシャフトに息苦しさを感じる人は少なくないと思われます。実際、個人の利益を自由に追求できるゲゼルシャフトこそ、因循姑息なゲマインシャフトからの解放を望む現代人の理想だと言える面があることは確かです。尤も、ゲマインシャフトにせよ、ゲゼルシャフトにせよ、光の面もあれば闇の面もあります。因循姑息な悪しき全体社会がゲマインシャフトの闇だとすれば、その光は自他共生のアルカディアの理想です。ゲゼルシャフトについて言えば、個人の自由が花開くパラダイスの理想が光だとすれば、その闇は個々バラバラの孤独地獄(無縁社会)です。理想社会の実現を求める人間の歴史を振り返ってみれば、大略、古き佳き世の光のゲマインシャフト(始源の楽園としてのアルカディア)がやがて闇に転落し、そのどん底から新たに光のゲゼルシャフト(個々の繁栄幸福としてのパラダイス)への渇望が生じます。そして、資本主義の発展と共に相対的に豊かな社会がグローバルに実現しているものの、再び新たな闇が世界を覆いつつある・・・というのが現状です。言うまでもなく、ゲマインシャフトの闇とゲゼルシャフトの闇は質的に異なっています。従って、現在我々が直面しているゲゼルシャフトの闇(悪しき格差社会)から脱出せんとして光のゲマインシャフトへの回帰を試みても無意味です。いや、無意味というのは少し言い過ぎであり、古き佳きゲマインシャフトを懐かしむ人々の思いは現実に一つの大きな流れになっていると思われます。例えば、それはギスギスした都会生活から心温まる田舎暮らしへの転換です。しかし、都会を遠く離れた何処かに光のゲマインシャフト(アルカディア)があるというのは今や幻想にしかすぎないのではないでしょうか。確かに、世界の奥地に今もある未開社会とか、今回の熊本地震に際しても現出している災害ユートピアなど、個人の利害を度返しして他者のため、地域全体のために尽くそうという理想が活々と息づいている世界があります。しかし、だからと言って我々は未開社会に戻れるでしょうか。人々が純粋に助け合って生きるしかない大災害の到来を望むことができるでしょうか。たとい光のゲマインシャフトが我々人間の究極的な理想であったとしても、それは近代的な自己意識が確立する以前の時代に戻る後向きの運動によって得られるものではなく、また不可避の限界状況によってのみ成立する災害ユートピアもその持続を望むべき性質のものではありません。重要なことはあくまでも、「誰かを利用したり、誰かに利用されたりする」ゲゼルシャフトの構造を如何にして克服するか、という問題です。もしそれが「新しきゲマインシャフト」の創造という課題をもたらすならば、それこそが新しき村の実現に繋がるものに他なりません。しかし、それは「古き佳きゲマインシャフト」と具体的に何が異なるのでしょうか。


どうもまた、図らずも難しい思耕に迷い込んでしまいましたが、実篤の言う「一個の人間」とは馬鹿一のような素朴な人間、賢治で言えば「デクノボー」のような人間なのかもしれません。しかし汚れっちまった現代人がそのような人間になることこそ至難の業ではないでしょうか。「人間らしい生活」を求めれば求めるほど、私は非人間的な闇の奥底に深く深く沈み込んで行くような気がします。

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2016-04-18 19:43:56

人間らしい生活(5)

テーマ:ユートピア

「自然のまま」は必ずしも善ではない。自然そのものは善悪の彼岸にあり、その善悪が問われるのは人間世界に限られます。尤も、地震や津波を引き起こす自然の善悪を問うても仕方ありませんが、人間が「自然のまま」に生きることの意味は問うに値します。一般的には行雲流水の如き穏やかな生が「自然のまま」に生きていると見做されますが、ここでは少し極端な場合について考えてみたいと思います。それは卑劣な強姦魔がスヴィドリガイロフよろしく次のように語る場合です。「俺は確かに彼女を強姦した。けれど俺はちっとも悪くない。俺はただ美しい彼女を見て沸き立った己の血に忠実に行動したまでだ。もし俺が悪いとすれば、その原因は自然にある。俺は自然の命じるままに行動したにすぎない。俺自身はちっとも悪くないんだ」


ムルソーは自らの殺人を太陽のせいにしましたが、人間の生き方における「自然のまま」は実に不条理なものです。と言うのも、人間の本性(=人間的自然性 human nature)は大自然(Nature)に反することで表現される場合があるからです。勿論、人間も大自然の一部に他ならず、自然に反して生きることなど以ての外、実に致命的なことです。むしろ、大自然をブラフマン、個々の人間の本性をアートマンと解するならば、梵我一如こそ究極の理想と言えるでしょう。しかし、それは単に「自然のまま」に生きることとは次元が異なるのではないでしょうか。先の強姦魔の主張に即して言えば、彼が忠実に従っている自然はカントの言う傾向性(Neigung)にすぎず、それを抑制する道徳性にこそ人間の本性があると考えられます。例えば、被災地では誰もが空腹で平時に増して「腹一杯食べたい」と思うのが自然の欲求ですが、その「自然の(欲求の)まま」に行動する人は皆無でしょう。殆どの人は「腹一杯食べたい」という自然の欲求を抑制して、限られた数のオニギリを他者と分け合って食べる筈です。更に極限的な状況では、親が子を生き永らえさせるために残された食べ物を全て譲り、自らは死んでしまう場合さえあります。親だってイキモノですから、「食べたい、生き続けたい」という思いは当然あります。それが自然ですが、敢えてそれに反して死を覚悟する道徳性にこそ人間の本性が見出されるのです。しかし、果たしてこれは人間に特有の本性なのでしょうか。人間以外のケダモノは飢餓状態に陥ると我が子さえ食べてしまうのか、それとも我が身を犠牲にしてまでも子の生存に尽くそうとするのか。不勉強な私にはよくわかりませんが、昨今よく報じられる平気で児童虐待する鬼畜の如き親は実に身勝手な傾向性の奴隷にすぎず、人間とケダモノの区別など余り意味がないように思われます。重要なことは、単なる「自然のまま」を超越する道徳性の有無であり、それが人間以外のイキモノにも見出されるのなら、それを素直に喜びたいと思います。「人間のみ」に固執するつもりは全くありません。


ただし、傾向性から道徳性への超越に「人間らしい生活」があるとすれば、その根源には理性があります。もしかしたら、たとい人間以外のイキモノに道徳的な行動が見られたとしても、それ自体は依然として本能によるものにすぎないかもしれません。つまり、そこに道徳的な行動を読み込んでいるのはあくまでも人間の理性に他ならないとも考えられるのです。ここで次に生じてくるのは「傾向性と道徳性の根源を区別し得るか」という問題です。単純化して言えば、傾向性の根源を自然、道徳性の根源を理性と解し、前者から後者への超越を「自然のまま」から「理性の自律」への移行とするならば、それを以て「人間らしい生活」の極北と見做し得るか、ということです。確かに「理性の自律」は傾向性や権力者の奴隷と化す他律的な生を克服していると言えます。しかし、道徳性も一つ間違えば義務感に雁字搦めにされる悪しき道徳主義へと転落し、およそ「人間らしい生活」とは程遠いものに堕してしまいます。ヘーゲル曰く、「他律と自律の違いは、主人が外にいるか内にいるかということにすぎない。」では、「人間らしい生活」の極北が道徳性の果てにあるとすれば、それは一体如何なるものでしょうか。主人の全くいない生活でしょうか。

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