1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2017-05-25 23:53:16

時代おくれ(5)

テーマ:ユートピア

愛する我が子が危険に晒されれば、親は我が身を犠牲にしてでも助けたいと思うでしょう。やがてその親が年老いて立場が逆転すれば、子もまた我が身を犠牲にしてでも親の介護に全力を尽くしたいと思う筈です。厳密に言えば、その関係を犠牲と表現することは適切ではありません。親は子のため、子は親のために生きることはそれぞれの自己を活かすことに他ならないからです。そうした関係それ自体がパラダイスであることに異論はないでしょうが、現実の多様な状況においてパラダイスは複雑に歪んでいきます。例えば、我が子可愛さの余りモンスターペアレントになってしまう場合です。それに伴ってモンスターチルドレンも発生してくるわけで、たといどんなに素晴らしいパラダイスであっても、そこにおける関係が絶対化されるとパラダイスは早晩モンスターの棲家になってしまうのです。何故このような醜悪が生じるのか。

さて、海外でテロや大事故が生じると、事件の概要もさることながら、必ず報道されるのが日本人の安否確認です。勿論、これは決して他の外国人など取るに足らないということではないでしょうが、我が同胞の安否が最も憂慮される関心事であることは当然です。それは災害に見舞われた際に、自分の家族の安否が真先に気になるのと同じ自然の情に他なりません。これも一つのパラダイスになりますが、ここでも自分の家族や国が絶対化されれば排他主義的な歪みが生じてきます。家庭の幸福はパラダイスの核であると同時に諸悪の本でもあるのです。愛国のパラダイスも然り。この国の弥栄(いやさか)を祈願するに吝かではないものの、それが他民族を排除することで成就するようなものであるならば、やはり何かが間違っていると言わざるを得ないでしょう。

周知のように今は世界的には保守化の時代、民族主義(ナショナリズム)が正義の様相を呈しつつある時代です。英国はEUからの離脱を選択し、米国ではトランプが勝利し、フランスではかろうじて極右の勢いを阻止できたものの、それが依然として大きな勢力であることは明白です。確かに、それぞれのネイションがそれぞれのパラダイスを独自に目指すことは極めて自然なことであり、世界全体のパラダイスなどという理想は机上の空論なのかもしれません。実際、各ネイションのパラダイスにおける構造は多彩に異なっているのであり、それを一色に塗りつぶしてしまうことには無理があります。大東亜共栄圏というパラダイスも結局は日本の色で東アジアを塗りつぶそうという暴挙にすぎませんでした。しかし、だからと言って、共栄圏という理想そのものが暴挙だということにはならないでしょう。暴挙はあくまでも多彩な花園を一色に統一してしまうことであり、むしろそれは共栄圏の理想に反することです。では、真の共栄圏とは如何なるものか。そもそも共栄圏は本当に必要なのか。もし多彩なネイションの花園を理想とするならば、民族主義のパラダイスこそが時代の要請とされるに違いありません。もはや共栄圏は時代おくれの理想にすぎないのでしょうか。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-05-24 17:27:25

時代おくれ(4)

テーマ:ユートピア

今、ユートピアについて思耕することは時代おくれでしょうか。「こうすれば大金持になれる!」とか「素敵な彼氏/彼女をゲットする方法!」などという類の本は相変わらずよく売れているようですが、それは言わばパラダイスに関する指南書です。それに対して「貧しくても幸せ・・・」とか「失恋してもいい、人間だもの・・・」といった負け組をやさしく慰めるような本も人気が高いと聞きますが、これなどはアルカディア志向だと言えます。自らの人生や世界について「このままでは駄目だ!」と思っている人は決して少なくない筈なのに、その大半がパラダイスを求め、その追求に疲れた人がアルカディアに救いを見出そうとするばかりで、殆どの人はユートピアなどに見向きもしません。これは一体何故か。

私自身の思耕遍歴をつらつら振り返ってみるに、学生時代に「問題中の問題」という拙文を書いたことが思い出されます。それはキルケゴールの実存真理を私なりに論じたもので、多分に三土興三に影響されたものでした。カミュも『シーシュポスの神話』の冒頭で「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのだ」と述べていますが、人生の生きるに値する意味などというものを一体どう判断すればいいのでしょうか。それが科学の客観的真理とは質的に全く異なるものであることは明白です。実際、天動説と地動説のどちらが真理かということなど我々の実存にとってはどうでもいいことであり、ガリレオが火刑を恐れて自らの地動説を撤回したのは極めて賢明な判断でした。カミュがいみじくも喝破しているように、科学的真理には火刑に処せられるだけの値打ちがない、すなわち生きるに値しない真理だからです。では、生きるに値する真理とは何か。

キルケゴールは「そのために生き、かつ死ぬことができる真理」を主体的真理と称しましたが、大抵の人は愛する人のために生き、かつ死ぬことができると思われます。言うまでもなく、「愛する人」は恋人だったり家族だったりするわけですが、「二人のために世界はあるの」とか「家族が第一」などと臆面もなく言われると何だか鼻白んでしまいます。さりとて或る憂国の作家のように「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ」と檄を飛ばされても困るでしょう。「身捨つるほどの祖国はありや」という思いもあるからです。そもそも世の中にはアイドルやペットにさえ自らの生死を賭ける人もいるわけで、何が主体的真理かという問題はいつでも藪の中です。やはりキルケゴールが言うように、「何が(Was)」が問われるのは専ら客観的真理であり、主体的真理においては「如何に(Wie)」こそが問われるべきです。すなわち、私は自分と如何に関係すべきか、私は他者と如何に関係すべきか、私は社会と如何に関係すべきか、という具合に。ただし、こうした三重の関係は全て水平の次元において展開する出来事であり、それぞれの関係は垂直の次元において逆対応しなければなりません。さもなければ、自分も他者も社会もその実存的意味が空中分解してしまうでしょう。やや理屈っぽくなりましたが、正にこの点にこそ、アルカディアやパラダイスもさることながら、今ユートピアを問わねばならぬ理由があるのです。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-05-23 18:13:24

時代おくれ(3)

テーマ:ユートピア

かつて原発がブームであった時代がありましたが、「もはや原発は時代おくれだ」と言えるでしょうか。原発という新しい技術が時代おくれになるとすれば、それに替わる更に新しい技術が登場しなければなりません。おそらく現時点では太陽光とか風力・地熱といった再生可能エネルギーに関する技術がそれに相当するでしょうが、そのエネルギーそのものは太古の昔からこの地球上にあるものです。言わば古いものを新たに活用する技術が問われているわけです。尤も、古いものという点では石炭も石油も天然ガスも、更にはウランだって大昔から存在しています。そもそも発電技術としては、太陽光発電以外は「如何にタービンを回すか」という問題に尽きるのであり、その原理そのものには何の進歩もありません。つまり、電力によって便利で豊かな生活(パラダイス)を享受するという生活様式(ライフスタイル)は微動だにしないのであり、発電の技術(タービンの回し方)に時代の流れが認められるにすぎないのです。従って安心安全で、しかも画期的に効率の良い発電の新たな原理が発見されれば、火力も原子力も再生可能エネルギーも全て時代おくれの技術になるでしょう。しかし、それは技術というものの運命であり所詮二次的な問題です。我々にとっての喫緊の問題はあくまでも生活様式における時代おくれだからです。

確かに技術は日進月歩であり、それに伴う生活様式は次々に時代おくれになっていきます。もはや薪(まき)で炊飯する人は殆どおらず、電気やガスで手軽に炊飯する生活が一般的です。尤も、キャンプや登山で飯盒炊爨(すいさん)を楽しむことはありますが、それはあくまでも非日常の余暇のことにすぎません。災害による大規模停電のような非常時も同様です。しかし日常的に敢えて新しい文明の利器を一切排除して、電気もガス・水道もない可能な限り自然に即した生活を営んでいる奇特な人たちがいます。その場合、時代おくれの生活様式が最先端の生活様式にもなります。実際、日々竈(かまど)で「初めチョロチョロ中パッパ・・・」などとしていられる生活はかなり時間に余裕のある人に限られます。常に時間に追われている現代人には到底無理な生活様式です。掃除や洗濯も然り。技術の進歩によって人々が様々な重労働から解放されてきたことは事実です。そのこと自体は悦ばしきことでしょうが、それは本当に人間を幸福にしたでしょうか。鄙見によれば、確かに重労働から解放された生活様式は人間にパラダイスをもたらしましたが、それは同時にエンデが『モモ』で描いたような時間泥棒を出現させる結果を招きました。かつては何日もかかっていたことが数時間でできるようになる――新しい技術によって作業時間が大幅に短縮されればされるほど、逆に時間に縛られるようになるのは一体何故か。卑近な一例を挙げれば、かつて遠出の出張は一泊してゆっくりできたのに、新幹線が開通した御蔭で慌しい日帰り出張を余儀なくされるようになりました。できなかったことができるようになることは大きな喜びですが、それは新たな苦しみの始まりでもあるのです。生活様式のラディカルな刷新が要請される所以です。

何れにせよ、人間は近代以降、新しい技術を不断に追求することで生活を飛躍的に改善してきました。重労働からの解放もさることながら、かつて不治の病であったものが快癒し、人生五十年と言われた寿命も倍になろうとしています。しかし、いくら重労働から解放されても依然として過労死はありますし、長寿社会は孤独な超高齢化社会と化しています。近代化によって改善された生活をパラダイスと称するならば、そのバラ色の生活の裏側に様々な問題が渦巻いていることは明白です。それにも拘らず、大衆の大半は時代おくれになることを恐れ、必死にパラダイスから振り落とされまいとしています。恰も時代おくれになることが人生の絶望ででもあるかのように。それならいっそのこと断捨離して時代を超越してみせるのも一興ですが、それを新たな生活様式にすることは至難の業です。せいぜいミニマムライフという中途半端な生活様式でお茶を濁すことになるのが関の山でしょう。一方に頑張って幸福になろうとする人たちがいて、他方に頑張らない幸福にやすらぎを見出す人たちがいる――二つの幸福は質的に全く異なっていますが(一昔前の言葉で表現すれば、ファストライフとスローライフ)、どちらも時代おくれのパラダイスであることに違いありません。と言うより、今やパラダイスに執着すること自体が時代おくれなのです。少なくとも私はそういう時代が訪れることを心から願っています。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-05-16 17:27:11

時代おくれ(2)

テーマ:ユートピア

新幹線のリニアへの進化が時代の流れとなっている一方で、SLや廃止となった古い車両を熱烈に愛する鉄道ファンがいます。後者は時代おくれだと言えるでしょうか。むしろアンティークが時代の最先端だと見做されることもあるでしょう。古民家、古美術、古道具、古女房はまた少し違うかもしれませんが、それらは単なる古いものではなく、言わば古いものの新たな再生(ルネサンス)だと考えられます。実際、現在古民家で暮すことは新たなライフスタイルに他ならず、単に茅屋(あばらや)に住むこととは質的に全く異なります。勿論、古いものに囲まれて暮すことが新たなライフスタイルになり得るのは主に古いものの稀少価値によるものです。つまり、古いものが新しいものに淘汰され、どんどんその数を減少させて初めて「古きもの」という価値が生じるのです。従って古民家は単なる古い家などではなく、かつてはありふれていた家が長い年月を経て貴重な古民家として生まれ変わったのです。やや挑発的に言えば、「古きもの」はもはや古いものではなく、例えば古民家での生活にはタワーマンションでの生活とは真向から対立する新しさが見出されます。少なくとも「古きもの」を求める生活が時代おくれでないことは今や明白でしょう。

しかし乍ら、私は単に「古きもの」を求めているわけではありません。新しいものを際限なく渇望していくのがパラダイスの理想だとすれば、「古きもの」を淡々と追求していくのはアルカディアの理想です。大衆社会は依然として前者に憑かれており、その結果様々な行詰りに直面していますが、どんなに貧富の格差が増大しても世の大半の人々はパラダイスの理想にしがみついているのが現状です。これに対して様々な立場から「もう一つの世界は可能だ」と思耕する運動がありますが、「もう一つの世界」とは一体如何なるものでしょうか。果たしてそれはパラダイスの理想に本当に対抗し得るでしょうか。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-05-15 21:47:59

時代おくれ

テーマ:ユートピア

カラオケで自分の番がまわってくれば、私は必ず河島英五の「時代おくれ」を歌います。それが私の十八番というわけですが、かなり良い気持で熱唱している自分自身をつらつら分析すれば、私はどうも「時代おくれ」の生き方を誇りに思っているようです。つまり、新しい時代の波に流されることなく、あせらぬように、はしゃがぬように、人の心を見つめ続ける生き方です。つまらぬ一例を挙げれば、流石にガラケーは必要に迫られて持っているものの、私はスマホなるものを頑なに持とうとしません。随分と便利なものだということは重々承知していながら、持ちたくないのです。いや、持つのを怖がっていると言うべきなのかもしれない。スマホのような便利なものの所有は大衆社会への迎合を意味し、延いては自分を見失ってしまうような気がするからです。しかし乍ら、同じような思いでワープロやパソコンを拒絶していたのに、今ではそれらなしでは生活できなくなっています。携帯電話も然り、いくらスマホを拒否しても、もはやガラケーは生活必需品と化しており、スマホの所有も時間の問題のような気がしています。そもそも企業と行政が手を組んで古いものの製造中止の流れを推進すれば、個人はどう仕様もありません。今やアナログ・テレビは死に絶え、更に4K/8Kの時代が到来します。同様にレコードからCDへ、VHSからDVDLDへ、蛍光灯からLED照明へ、といった流れを止めることなどできないでしょう。勿論、そうした新しいものは我々の生活を良くするもの(省エネ、簡便化)であり、決して憂うべきものではないというのが一般的見解です。実際、私自身の生活も様々な新しいものの恩恵を受けていることは否めません。しかし、それにも拘らず、私が求めている「新しきもの」はそうした流れとは全く異なるような気がするのです。むしろ、私は日々そのように更新されていく時代の流れに逆行する「時代おくれの男」になりたい。おそらく、このヒネクレた心情は大衆には理解不可能(と言うよりも、ほぼ確実に誤解される)でしょうが、試みに「新しき村」を求める人間は「時代おくれ」にならざるを得ないと主張するならば、その「新しさ」の逆説性をほんの少し浮き彫りにすることができるかもしれません。

ただし、致命的な誤解のないように繰り返し断っておきますが、「時代おくれ」は単なる「古い奴」ではありません。CDが普及しても依然としてレコードのアナログな音質にこだわる人はいます。同様に毛筆で書道を楽しむ人、ランプや蝋燭の灯りを愛する人もいるでしょう。しかし、そうした古き良きものへの執着はあくまでも趣味の世界のことであり、日常の生活ではやはり新しくて便利なものが好まれるのは当然です。かつて安吾は「法隆寺が焼失しても全く困らないが、電車が止まると大いに困る」という主旨のことを喝破しましたが、それが大衆社会の真実に他なりません。この真実は風情のある古い街並みを機能的に区画整理し、犯罪渦巻く魔窟の如き盛り場を安心安全な商店街へと浄化します。尤も、原発事故に象徴されるように新しい科学技術が地獄をもたらすこともありますが、総じて新しいものは世界の健全化に向かうものと期待されるのが常道です。言うまでもなく、どんなに新しいものでもやがて古くなり、更に新しいものに取って代わられます。それが時代の流れであり、同時に我々の生活の運命でもあるのですが、私が問題にする「時代おくれ」は絶滅する運命にある古いものにいつまでも後ろ髪を引かれている輩ではありません。更に言えば、「時代おくれ」は骨董屋とも違います。むしろ、骨董屋とは正反対の世界を目指しているキチガイだと言えるでしょう。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-05-13 08:35:18

「傷だらけの人生」と「新しい風」

テーマ:ユートピア

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」――かつて鶴田浩二はそう歌いましたが、最近この言葉がやけに胸に沁みてきます。と言うのも、私は自分ほど真剣に「新しきもの」を追求している人間はいないと自負しているものの、その同じ自分にどうしようもなく「古い奴」も見出してしまうからです。そのことを私は近頃よくテレビで流れている「新しい風が吹いた」というキャッチコピーの或るコーヒーのCMを目にするたびに改めて痛感します。それは新しい働き方を実践している若者たちを描いた作品で、競争を嫌い、会社に出勤する必要も感じることなく、あくまでも自分のペースで自由に仕事をこなしている姿が印象的です。勿論、この若者たちは決して怠け者ではなく、やるべきことはしっかりやっています。むしろ、競い合って根性で頑張る一昔前のモーレツ社員などよりも効率的に成果を上げて会社に貢献していると言えるかもしれません。しかし、私はこうした若者たちにCMで出会うたび、実に「いや~な感じ」がするのです。やはり私は「古い奴」なのでしょうか。

会社に束縛されることなく、自由な雰囲気で働けることは正に「新しい風が吹いた」と言える環境であり、一つの理想だと言えます。やるべきことはさっさと終わらせて、後は愛する家族や気の合う友人たちと食事に行ったり映画を観たり、あるいは自分一人だけの時間を楽しんだりするというライフスタイル――ここには確かに多くの若者を惹きつける魅力があります。しかし私はこのライフスタイルの「どこに新しいものがございましょう」と呟かざるを得ません。たといそれが働き方の「新しい風」であったとしても、私はその新しさに魅力を感じない「古い奴」なのです。何故か。それは個人主義を核とするパラダイスの理想にすぎないと思うからです。これに比べれば、共生原理が息づいている古き良き村の理想の方に魅力を感じます。とは言え、私は「失われた楽園」としての古き良き村をただ懐かしく思っているだけの「古い奴」ではありません。そもそもかつての古き良き村も今や荒れ放題の限界集落、もはや容易に取り戻せるような理想ではないでしょう。実際、古き良き村がやがて因循姑息な息詰まる村へと堕落し、延いては個人がそれぞれの自由な生活を満喫できる近代都市へと転化していくことには必然性があります。そこに「新しい風」が吹いていることも事実です。しかし、それが我々の求めている「本当に新しき生活」でしょうか。CMに描かれているような新しいライフスタイルに大衆は無条件に憧れるでしょうが、そんな今の世の中、右の村も左の都会も真っ暗闇じゃござんせんか。古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-04-24 17:59:00

なめとこ山のキチガイ

テーマ:ユートピア

賢治の「なめとこ山の熊」に登場する小十郎は猟師としての腕は一流で、その自然に即した生活に我々は一つの理想を見出します。しかし、それはなめとこ山の中でのみ意味のある理想であり、山から町に下りた小十郎は狡賢い荒物屋に貴重な熊皮などを簡単に安く買い叩かれてしまう愚か者にすぎません。ここには山で誇り高く堂々としている小十郎と町で惨めにオドオドしている小十郎という二面性がありますが、これをどう理解すればいいのでしょうか。これまでの文脈から言えば、町の小十郎は非本来的人間であり、山の小十郎こそ本来的人間だと理解されます。更に言えば、このように理解された山が「新しき村」なのであり、我々の理想とすべき人間とは言わばFool on the hillに他なりません。しかし、このような理解に安住できるでしょうか。

かつて新しき村にUさんという人がいました。数年前にNHKスペシャルでも採り上げられた伝説的人物です。この便りでも以前に「何もないアルカディアと何でもあるパラダイスの狭間で」と題して言及したことがありますが、私は今でもUさんほど真摯に「新しき村」を求めた人は皆無だと思っています。残念乍らUさんもまた離村を余儀なくされ、紆余曲折の末に今は丹後半島の山奥で障害者の方を伴侶に自給自足の生活を営まれていると聞きます。ややミーハー的に言えば、Uさんは私にとってずっと憧れの人であり、その誠実な求道的生活にこそ「新しき村」があると思っています。しかしその一方で、果たしてそれが本当の「新しき村」なのだろうかという疑念も常にあります。それはなめとこ山の小十郎に対する疑念でもあります。確かにUさんや小十郎に見られる山の生活は人間本来の在り方を示していて、悪賢い荒物屋に象徴される町の生活は欺瞞的だと見做されるのが一般的です。しかし、後者を否定して前者を肯定するだけで問題が解決するのでしょうか。率直に言って、私は自然に即した山の生活に憧れながら、それに徹することができません。そこに私の弱さと不純さがあるのは当然ですが、どうしても「断じてそれだけでない!」と思わずにもいられないのです。

もし私が自然に即した理想としての「新しき村」を純粋に主張できるならば、この便りも少しは人気を博するでしょう。もとより人気を目的にこの便りを認めているわけではありませんが、信念を以て自然に即して生きる愚者と文明を駆使して生活を享楽する賢者の何れにも無視される現状は寂しい限りです。小十郎はなめとこ山というアルカディア(自然楽園)で自らの天命を全うしましたが、私のキチガイは依然としてアルカディアとパラダイスの狭間でただ立ち尽くすばかりです。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-04-21 17:42:32

キチガイと大衆社会(10)

テーマ:ユートピア

大衆のアンチ・テーゼとしてのキチガイは、実篤の馬鹿一や賢治のデクノボー、あるいはロシア民話のイワンの馬鹿といった理想の類型です。先日、新しき村を「愚者の村」と理解されている方とお話しする機会を得ましたが、その意味するところも同様だと思われます。実際、新しき村の文脈では「愚者」は決して否定的な存在ではなく、むしろ積極的に肯定される理想です。この腐敗した世界で敢えて愚者として生きていることに自負さえ抱いていると言ってもいいでしょう。とは言うものの、新しき村の住民に面と向かって「アンタたちはバカだ」などと決して言ってはなりません。そこには極めて微妙な意味のズレがあるからです。それは具体的にはどういうことか。

「一般社会はお金に支配されている。多くの人は経済的利益の追求に奔走し、お金にならないことには見向きもしない。新しき村で生活する人間はそんなお金中心の価値観とは無縁に、本当に人間らしい生き方を全うしようとしている。確かにこんな辺鄙な所では贅沢な生活など望むべくもないが、むしろ質素に暮すことにこそ人生の真善美があるのではないか。少なくとも我々はそう信じて、毎日を誇り高く過ごしている」――そうした自負が今も村で生活している人たちにはあると思われます。その自負がなければ、数十年に亘る村における生活の意味が根柢から崩れ去ってしまうからです。しかし、現実はどうか。私にはもはや新しき村の現状批判を繰り返す気力などありませんが、その自負が単なる自己満足でしかないことは明白です。勿論、村人は皆日々誠実に労働に励んでいます。怠け者など一人もいません。しかし、たといそれが利益追求を目的とするものではないとしても、経済的な採算性まで無視することはできないでしょう。事実、村の経済を長年支えてきた養鶏事業は採算が合わなくなったから辞めたのではないか。人手不足(特に若者)も大きな問題ですが、それなら何故村に人が集まらないのか。端的に言って、今の村には魅力がないからです。いや、「新しき村の精神」には永遠の魅力があります。だからこそ百年の長きに亘って多くの人の関心を惹きつけてこられたのだと思います。その崇高な精神に自負を抱くのは当然ですが、重要なことはあくまでもその現実化なのです。

とまれ、新しき村が「本当に人間らしい生活」を求める場であることは間違いありません。それは様々な意味を胚胎していますが、その一つとして「お金の価値に翻弄されない生活」を村の核心的課題と考えれば、果たして村はこれまでその課題に真剣に取り組んできたと言えるでしょうか。そもそも「お金の価値に翻弄されない生活」とは何か。それは必ずしもお金の価値に背を向けて清貧に甘んじる生活とは限りません。むしろお金の価値にのめりこんでお金に不自由しないだけの裕福な生活を目指す方が現実的でしょう。鄙見によれば、清貧の生活さえ或る程度の経済的余裕がなければ持続しないと思われます。ただし、お金の価値を中心とした社会では、それを翻弄できる経済的強者(勝ち組)と翻弄される経済的弱者(負け組)に否応なく分かれます。ちなみに、私の在村中も後者の人たちが「新しき村に来れば、不断の利益追求を余儀なくされる経済地獄から解放されて本当に人間らしい生活ができる」という縋(すが)るような思いで村に来られましたが、その多くは「村は駆け込み寺ではない!」と一喝されて追い返されるか、稀に入村が許されることがあっても結局は離村という結末を迎えました。そこには様々な理由があるでしょうが、煎じ詰めれば村の生活に一般社会の経済地獄を超剋し得るだけの「新しさ」が見出せないからです。つまり、村は依然として「新しき村」とは程遠く、単に近代社会もしくは資本主義の流れに取り残されただけの限界集落にすぎない、ということです。尤も最近の村は広大な空地に太陽光発電パネルを敷き詰めて新たな収入源にするなど、限界集落から脱却するための新たな試みが見受けられます。しかし、そんなものが新しき村の「新しさ」なのでしょうか。その種の新しさなら村の外の一般社会にゴロゴロしています。たとい村が画期的な科学技術に基く新たな経済戦略を次々に打ち出して飛躍的に発展したとしても、それは「新しき村」の実現には繋がらないでしょう。村の本質としての「新しさ」はそのような賢明性にあるのではなく、それを突き抜けて「人間の本当の幸福」を求め続ける愚直性にこそ見出されるべきだと思われます。

何れにせよ、「お金に支配されない社会」の理想はお金から逃走しても実現できません。経済を忌避すれば資本主義が乗り越えられるわけではないのと同様です。確かに、お金を放棄した「無所有一体」という理想はあるものの、その徹底が実に息苦しい結果を招いていることは幾つかの実例が証明している通りです。そんな息苦しい理想に囚われるよりも、たとい貧困に転落する危険に常に晒されるとしても、自由にお金がつかえる社会で悪戦苦闘した方がマシでしょう。だからこそ大半の人は「お金とは無縁の共生社会」よりも「お金に執着する競争社会」に生きることを選ぶのです。それは基本的に賢い選択であり、今の社会の主流を成していることは厳然たる事実です。しかしその一方で、熾烈な競争社会の流れがひどく淀んでいるのもまた事実であり、非主流ながら愚直に共生社会の実現に関心を抱き続ける人たちがいます。僭越ながら、かく言う私もかかる愚直な人間の末席を汚す者としてこの拙い手紙を書き続けているわけですが、最近この種の愚直性に改めて疑問を感じるようになりました。と言うのも、共生社会のシンパは往々にして競争社会における悪賢い金儲け(金儲けは全て悪!)に積極的な関心を持たない自分たちの愚かさを誇りに思う傾向があるからです。繰り返しになりますが、このような愚かさ自慢は単なる自己満足にすぎず、それによって形成される共生社会は清貧の強制社会になりがちです。言うまでもなく、そんなものが真の共生社会である道理はなく、世の経済に疎い愚か者の楽園は畢竟競争社会からの逃避の産物でしかありません。大衆社会をディコンストラクトできる主体は経済を無視して自然のままに生きようとする愚者ではなく、競争社会を席巻する経済とは全く別の新しき経済、言わば共生の経済を求め続ける愚者にこそ見出されるべきです。私は前者の愚者と区別する意味で後者の愚者をキチガイと称しているのですが、これは賢明な人生への転向と一体何が異なるのか。その点については更に深く思耕するが必要があるでしょう。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-04-18 05:08:53

キチガイと大衆社会(9)

テーマ:ユートピア

先日ETVで、ベラルーシのノーベル賞作家・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんが福島を訪れ、原発事故以後の生活と闘っている「小さき人々」の声に耳を傾けているドキュメンタリィを観ました。その間、私の念頭に常にあったのは「小さき人々」と大衆の関係でした。おそらく「小さき人々」とは名もなき市井の善良なる人たちのことでしょうが、そうした人たちは果たして大衆なのか。

力のある「大きな人々」は良きにつけ悪しきにつけ世間から注目されています。この人たちが現実の社会を動かしていると言っても過言ではないでしょう。これに対して「小さき人々」は殆ど誰からも褒められもせず、苦にもされず、ただ日々静かに笑って暮らしているだけです。言うまでもなく、忌まわしい原発事故さえなければ、「小さき人々」はそれ以前と変わらぬ生活を営んでいた筈です。その当り前の生活が不可能になったことに絶望して自ら命を絶った人たちがいる一方で、アレクシエーヴィッチさんが福島で出会った「小さき人々」の中にはそれぞれの闘いを独自に続けている人たちもいました。すなわち、国家や大企業の「大きな人々」が提示する現実を鵜呑みにすることなく、あくまでも自分の力で真実を掴み出そうとしている人たちです。その意味において、闘い続ける「小さき人々」は決して単なる大衆ではありません。と同時に、それはもはや単なる「小さき人々」でもなく、さりとて「大きな人々」になることを望んでいるわけでもないという、実に微妙な存在です。実際、「小さき人々」の闘いはそれまでの当り前の平凡な生活を取り戻すことを専一に求めるものであり、それ以上のものではないでしょう。従って、もし「大きな人々」がそれなりの生活保障を誠実に遂行するならば、「小さき人々」の闘いは原理的に終焉します。とは言え、巧妙な「大きな人々」の誠意を容易に信じることは危険であり、その姿勢を厳しく監視していく闘いは続行すべきかもしれません。しかし、闘いの焦点が自分たちの幸福な生活の回復だけにあるのなら、それを可能にしてくれる「大きな人々」の力を信頼する方が得策でしょう。さもなければ「小さき人々」は共働して「新しき社会」の実現に向かうべきですが、ここに「小さき人々」にとっての大きな岐路があると思われます。

率直に言って、「小さき人々」を私の大衆抹殺論の対象にすることには大きな抵抗があります。「大きな人々」の派手な生活(パラダイス)とは無縁に、ただ日々の平穏無事だけを祈って極力自然に即した生活(アルカディア)を営む「小さき人々」自体を私としても非難するつもりは全くないのです。しかしながら、アレクシエーヴィッチさんや対談者の徐京植さんも指摘しているように、「小さき人々」の多くはその生活が逼迫すればするほど、むしろ「大きな人々」への依存度もしくは期待度を増大させていくという現実があります。それは保守化・右傾化の現実もさることながら、例えばアフガン戦争で愛する息子をなくした母親が政府による補償金の打ち切りを危惧して戦争の真実に関して沈黙を守るようになるという身近な現実こそが問われるべきです。こうした「小さき人々」の沈黙を我々は容認できるでしょうか。

何れにせよ、沈黙は結果的に無関心に等しいものです。従って、たといどんなに善良であったとしても、沈黙する「小さき人々」は大衆に他なりません。無論、我々は皆そんなに強い人間ではなく、「大きな人々」の欺瞞と闘うだけの力があるとは限りません。だからこそ我々は「小さき人々」なのであり、むしろ先述したように「大きな人々」の能力を信頼して、その庇護の下で平穏無事な生活が安堵されることを望む方が一般的でしょう。ここに見出されるのは相も変らぬ「御恩-奉公」の関係ですが、敢えてそれをディコンストラクトする闘いを求める者は今やキチガイだけです。「小さき人々」はこれまで通り「大きな人々」の支配下での幸福な生活の復興を期待し続けるか、それともキチガイになって全く新しい生活を求めるか――これは福島に限らず、世界中の至る所で切実に問われている決断だと私は考えています。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-04-13 15:37:06

キチガイと大衆社会(8)

テーマ:ユートピア

敵を恐れるな――かれらは君を殺すのが関の山だ。

友を恐れるな――かれらは君を裏切るのが関の山だ。

無関心な人々を恐れよ――かれらは殺しも裏切りもしない。

だがかれらの沈黙の同意があればこそ、

地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。

(ブルーノ・ヤセンスキー『無関心な人々の共謀』)

大衆とは「無関心な人々」です。勿論、大衆も人間である以上、様々な関心を抱いています。しかし、それらは専ら水平の次元における俗なる関心にすぎません。端的に日常生活を巡る幸福を求める関心だと言ってもいいでしょう。これに対して垂直の次元における聖なる関心があります。人間として本当に生きる理想を求める関心です。大衆とは「無関心な人々」だと言う場合、それは後者の関心が欠けていることに他なりません。おそらくこんなことを言えば、直ちに大きな反発が返ってくるでしょう。綺麗な服装をしたい、美味しいものが食べたい、快適な家に住みたい――そうした欲望、世俗的な関心の何が悪いのか。何も悪くありません。私は俗なる関心を否定するつもりなど全くありませんし、そもそも否定しようとしても無理だと思っています。それは人間の否定以外の何ものでもないからです。私の大衆抹殺論はあくまでも人間を全的に肯定するための試みであり、その本質は人生の究極的な理想を求めることにこそあるのです。

さて、かつてティリッヒは現代人の無関心を「失われた次元」と表現しました。それは「究極的関心」の喪失であり、大衆の多くはサンクチュアリよりもディズニーランドに興味を示します。尤も、教会や寺院に行けば必ず「究極的関心」があるとは限りません。歴女のお寺巡りやオタクのパワースポット探訪もさることながら、日常の幸福(家内安全・商売繁盛)を祈念する場としての宗教施設は全て(例外なく)水平の次元における俗なる関心に基くものだと言えるでしょう。では、聖なる関心は一体どこにあるのか。俗なる関心を完全に遮断した次元、例えば人里を遠く離れた山奥の修行道場のような場所でしょうか。とんでもない!もはや俗なるものを徹底排除した純粋に聖なるものなどあり得ません。もしそのようなものがあったとしても、それは直ちに実定化されて神聖なものへと転化します。現象学的に区別すれば、聖なるものは「未だ主もなく客もない純粋経験」によるものであり、神聖なものは一切を対自化する意識の相によるものだと考えることができます。その意味において、神聖なものは聖なるものの堕落態だと言えますが、人々が実際の日常生活における平穏無事や幸福を祈ったり、豊作を感謝してその前で踊ったりできるのは神聖なものの方でしょう。すなわち、聖なるものは神聖なものに転化して初めて我々人間にとって現実的なものになるのです。私はそこに聖なるものの運命を見出しますが、今や聖なるものは俗なるものに受肉しているのであり、俗なるものとラディカルに関係していく弁証法的運動を通じて新たに生まれ変わろうとしていると考えるべきでしょう。それは古来より「聖なるものと俗なるもののcoincidentia oppositorum」と表現されている理想に等しく、そこにおいて全てが一新するのです。

どうもまた図らずも理屈っぽくなりましたが、要するに聖なる関心はどこにあるのか。私は大衆の無関心を問題にしていますが、「究極的関心」はインテリのみが抱き得る殊更高尚なものなどとは考えておりません。鄙見によれば、例えば落語の「文七元結」の長兵衛にも聖なる関心が見出されます。長兵衛は博打好きで借金まみれの、インテリとは程遠いロクデナシですが、決して俗なる関心しか持たぬ単なる大衆ではありません。さもなければ、どうして自分の可愛い娘を苦界に落す覚悟までして見知らぬ男を助けるというような、全くキチガイじみた決心ができるのでしょうか。聖なる関心は俗世間を超越したものではなく、むしろ俗世間の真只中に垂直に切り込んでくる理想です。それは日常生活の様々な場面で問題になってきます。強面の不良たちにいじめられている誰かを目にした時、自分の生活を経済的に支えている会社の不正に直面した時、大半の人々がナショナリズムに酔い痴れて自分たちの社会から余所者(他民族)を排除しようと沸き立っている時――正にそうした場面において聖なる関心を持ち得るかどうかが問われるのです。言うまでもなく、聖なる関心の決行は往々にして大衆の幸福を損なう結果になります。不良たちを注意すれば逆に殴られ、会社の不正を指摘すれば馘首され、余所者を擁護すれば村八分にされます。従って、触らぬ神に祟りなし、自らの「個人の幸福」を第一とする大衆が他者の「個人の幸福」、更には「世界全体の幸福」に無関心になるのは当然です。賢治のように「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」などと真剣に考えるデクノボーは畢竟キチガイでしかありません。かくして大衆社会は今や盤石なものとなった感があるのですが、それでもキチガイは絶滅したわけではないでしょう。しかし大衆の幸福、もしくは大衆社会の平和を脅かす存在としてのキチガイとは一体何者なのか。キチガイは文字通り正気を失った「気違い」として、更にはテロリストと同様に「大衆の敵」(public enemy)として社会から排除される運命にあります。それが現代社会の大きな潮流であることは否めませんが、私としてはそれに逆行する可能性を(未だ不可能ではないと信じられる限り)追求し続けたいと思っている次第です。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。