理想の衣裳(6)
テーマ:ユートピア「自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕がついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あおさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん――行こうごたる、海に」
これは石牟礼道子の「五月」の最後ですが、この作品を最近読み返して、改めて「理想の衣裳」について考えました。この場合、衣裳を端的に身体と見做すならば、生まれつき障害を背負わされている人は言うまでもなく、水俣病などの人為的な公害の被害者にも「理想的な衣裳」は鎖されています。これは差別と受け取られるかもしれませんが、障害のある身体が「理想的な衣裳」でないことは厳然たる事実です。しかし、「理想的な衣裳」というものは相対的なものであり、必ずしも健常者の身体が「理想的な衣裳」とは言えないでしょう。
★
確かに冒頭に記したような水俣病患者にとって、自由にあおさをとりに行ける健常者の身体は「理想的な衣裳」だと言えます。健常者がその身体について「背が低い」とか「太っている」などと不平を言うのは罰あたりです。しかし健常者は常に不満を洩らします。実際、五体満足な健常者と雖も、その身体がそれぞれの夢の実現を可能とする「理想的な衣裳」であることは極めて稀なことだからです。私は先の便りでバスケットボールの田臥選手について述べましたが、彼は一般人としては決して背は低くない、むしろ平均以上の立派な体格の持ち主です。しかし、NBAの選手としてはやはり背が低いと言わざるを得ない、つまりその身体はNBA選手としての「理想的な衣裳」とは到底言えません。普通なら、自分の身体的前提(頭脳も含む)を「理想的な衣裳」となし得る新たな夢を見出すでしょう。戴いた感想にもありますが、体力的に一流スポーツ選手になるという夢が駄目なら必死に勉強して一流の学者になるという夢を目指す、という具合に。このように自分の与えられた現状に即して夢を転換させていくというのが普通です。おそらく、その転換は結果的に「夢の縮小」になる場合が多いでしょう。例えば、幼い頃はプロ野球選手になるという夢に燃えていたが、それが不可能だという現実に直面した今、平凡な「家庭の幸福」という夢に満足して生きている、ということです。もはや誤解はないと思いますが、私はそうした夢の転換、もしくは夢の縮小を批判するつもりはありません。縮小しながらも、一生夢の実現を目指して生きていけるなら、それはそれで素晴らしいことだと心から思っています。
★
しかし乍ら、もし夢を断念せざるを得ないとしたら――言い換えれば、夢の転換がどうしても不可能ならば、その時にこそ「理想の次元」が開けてくると思うのです。こうした夢と理想の区別、あるいは「理想的な衣裳」と「理想の衣裳」の区別には無理があり、その意図するものが余り明確ではないかもしれません。先に挙げた田臥選手の例も適切ではなく、単に「身体的な悪条件にも拘らずNBAの夢を追い続けている」と理解すれば事足りることでしょう。しかし、コジツケにしか聞こえないでしょうが、夢の実現の前提となる「理想的な衣裳」に恵まれていない(どんなに努力を重ねても得られない)人間が、それにも拘らずその夢の追求に固執する時、その夢は理想へと転化し、それを実現する前提は「理想の衣裳」になる、と私は考えています。この点に関しては更なる思耕と言葉が必要ですが、例えば冒頭に述べたような障害者の場合、「理想的な衣裳」は失われているが「理想の衣裳」は決して失われていない、更に言えば夢は断念せざるを得ないかもしれないが理想の実現は断じて諦めてはならぬ、と私は主張したいのです。ただし、それは「夢の追求は俗なる二次的なもので、理想の追求こそ聖なる本質的なものだ」と言いたいのではありません。単に「理想の次元」を何とかして明確にしたいだけのことです。
同じテーマの最新記事
- 理想の衣裳(5) 11月08日
- 間奏曲:生きているだけで丸儲け 10月26日
- おわりに―アルカディア・パラダイス・ユ… 10月10日




