「労働=仕事」という理想 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「労働=仕事」という理想

労働の本質が生活の維持にあり、仕事の本質が生の充実を得ることだと仮定します。そして、生活は肉体の糧によって維持され、生の充実は魂の糧によって得られるとすれば、「労働=仕事」という理想はどのようにして実現するのでしょうか。


単純に論理だけで言えば、道は「労働の仕事化」と「仕事の労働化」の二つしかありません。ただ、これらについて考えるためには、先ず肉体の糧と魂の糧の意味を明確にしておく必要があるでしょう。そこで、不充分ながら、取り敢えず次のように定義しておきます。


肉体の糧:狭義には肉体の保持に必要なもの。特に食物。広義には衣食住を中心とした生活の維持に必要なもの。所謂ナショナル-ミニマム [national minimum]。
魂の糧:生に充実(輝き)をもたらすもの。自己表現としての芸術。信仰。


さて、このような定義において、「労働の仕事化」とは肉体の糧を得るための活動が同時に魂の糧でもあるような場合になります。例えば、篤農家とか職人の場合です。これは全く問題がないと思います。これに対して、「仕事の労働化」とは自ら創造した魂の糧が他者の生産した肉体の糧との交換に値する場合です。例えば、芸術家、学者、宗教家というような場合です。しかし、ここには大きな問題があると思います。と言うのも、彼等は肉体の糧を直接得るための活動(=労働)をしていないからです。いくら彼等の創造物(作品)が肉体の糧との交換価値をもつとは言え、労働を免れることは正しいことでしょうか。


勿論、現実には、「肉体の糧を直接得るための活動」だけではなく、それをお金によって間接的に得るための活動(つまり、お金を稼ぐための活動)も労働と見做されるでしょう。つまり、「肉体の糧を直接得るための活動」としての労働を免れているのは芸術家や学者だけではなく、殆どのサラリーマン(賃金労働者)の労働がそうなのです。従って、その点だけで彼等を非難することは無意味ですが、あくまでも「仕事の労働化」という理想を論理的に考えた場合、そこには問題が残ると思うのです。それは所謂「下放」ということに通じる問題です。