義務労働 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

義務労働

昨夜の木曜会では「義務労働」が話題になりました。すなわち、「新しき村に義務労働があるのは、理想社会の実現を目指す場には相応しくない感じがする」という意見が出されたのです。おそらく、この「感じ」は「義務労働=強制労働」という認識に由来するものと思われますが、この意見に対して、かつて村の生活を経験したことのある長老は「義務労働の義務は、あくまでも自分自身に対するものであって、他人に対するものではない」と答えていました。


私は、実篤が「義務労働」という言葉を選んだ理由を正確には知りません。しかし、そこには労働と仕事の二元論があると思っています。つまり、モリス的に言えば、「生活(食うため)の労働」と「芸術(自己を生かすため)の仕事」です。そして、労働と仕事を二元論的に理解する限り、どうしても労働は嫌々すべき「義務」にならざるを得ないでしょう。尤も、「義務を果たす」ということは必ずしも苦痛だとは限りません。むしろ、先の長老が言うように、他人から強制されるのではなく、あくまでも自分にとっての「義務」を果たすということは喜びになると思います。少なくとも、皆が平等に仕事に励むことができるように、全体の労働を共同化する「義務」は決して否定的な意味を持たないでしょう。実篤の「義務労働」という言葉には、そうした積極的な意味が含まれていると思います。


しかしながら、現実に村で使われている「義務労働」という言葉は、やはり「生活のために嫌々するもの」という意味でしかありません。私としては何とかしてその次元を超えて、「労働=仕事」、すなわち「生活の芸術化=芸術の生活化」という次元を切り開きたいと思っていますが、なかなかそれを具体化することができません。更なる勉強が必要です。